コオロギは無に向かい鳴く
8月が終わった。
台風の到来に向けて、この夏の暑さから窓ガラスを守っていたゴーヤと朝顔のグリーンカーテンを両親は片付けたらしい。夜の長い時期が近づいている。
家の周りは田んぼに囲まれているので、こんな夜更けにも虫の鳴く声が聞こえてくる。6月辺りから蛙の合唱が始まり、独演会かのように毎晩鳴き続けていたのもどうやら9月になり収まったらしい。今はコオロギやら鈴虫やらの音にときどき車の音が混じるくらいだ。夜は昼間には考えもしないことを思う。月灯り、星あかり、マンションの常夜灯、夜更かし人の住む部屋の明かり、そんなものが届かない闇の中で虫は鳴いているのだなとかそんなことを思う。
寝る前に文章を書いてから寝るかと考えながら虫の鳴く音を聞いていたら、昔読んだ本のことを思い出した。『昆虫の哲学』という本で、人間が昆虫についてどう考えてきたかが書かれた本だった。どのエピソードや考え方も刺激的で面白かったのだが、特に覚えているのが昆虫の世界についての捉え方だ。生物学者は人間の生きる世界の中に昆虫がいると考えるのではなく、「すべての生物は、その生物に固有の世界に生きていて、その中心をなしている」とのこと。
昆虫はその昆虫の持つ知覚機能の範囲内のうすいシャボン玉の中のような世界で生きていて、その世界の中のものを主体として昆虫の持つ特性を生かし利用し生きているという考え方だ。彼が見えないところは彼の世界の外で、彼にとっては存在しないも同然なのだ。
今、メモしたノートを引っ張り出してきたら、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルという人の考え方らしい。その世界の捉え方を読んだとき、蒙が開けたような気分がしたのを覚えている。授業やテレビなどで何度も語られる、宇宙船地球号のような全体主義的で恩着せがましい世界の捉え方に嫌気がさしながらも、自分は生物を自分という人中心の世界としての捉え方しかしていなかったとことに気づかされたのだ。
トンボの世界、蜂の世界、アメンボの世界、バッタの世界、エトセトラ。何種何様の世界がその虫の個体の数だけ存在し、八百万のシャボン玉がかたどるような世界。僕の見えているものが僕の世界でしかないのだなという当たり前のことを別の角度から認識できた感じだった。
そんでコオロギは窓の外で鳴いている。闇の中の彼の世界で鳴いていて、ソナーの様に広がる泣き声が別の世界の同類に届く。そこからオス同士のけんかが始まるのかもしれないし、運よくメスとの交尾が始まるのかもしれない。ともあれ、それは彼らの世界の話で、僕の世界からは想像しかできない。僕がわかるのは、窓の外でコオロギが鳴いているなというそれだけの話なのだ。
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