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偏見と固定観念
先日、へずまりゅうという「迷惑系YouTuber」が逮捕されたというニュースがあった。
彼が容疑を掛けられた行為というのは、スーパーの魚の切り身を購入前に食べた窃盗、アパレル店の店員に対し店の品物が偽物だと主張して罵声を浴びせた威力業務妨害と信用毀損、渋谷のスクランブル交差点に布団を敷いて寝そべり通行を妨げた道路交通法違反などである。
さらに、自分が新型コロナウイルスに感染している可能性を認識しつつもマスクを着けずに、一方的に他人に接触する行為(凸行為・突撃行為)を繰り返したことでメディアに取り上げられ、批判された。
この男がした行為は言語道断であり、何の価値もないだけではなく、社会に害を及ぼす行為であり、排除すべき行為である。
他人に迷惑を掛けてしか生きることができない人間は、僕から言わせれば、ゴミ以下の存在である。
ゴキブリや蛇と同じである。
ゴミは何の役にも立たないが、存在しているだけでは人に迷惑を掛けない。
しかし、ゴキブリや蛇は見ただけで「気持ち悪い」あるいは、「怖い」という嫌な感情を与える。
そのような人間は反省して心を入れ替えるまで、社会から隔離すべきであることはまったく理に適った考えである。
社会に対する歪んだ考えが彼の中でどのように形成されたかは知る由もないが、少なくとも彼自身の中に世の中に対する何らかの強い偏見あるいは固定観念があったであろうことは想像できる。
人間は誰しも何らかの偏見や固定観念を持っていることは誰も否定できないだろう。
年末年始、買い物で賑わう商店街の雑踏の中にいる一人一人の人間が何らかの偏見や固定観念を抱えているのである。
しかし、公共の場ではそれが目立たない。
例えば、幽霊の存在を頑なに信じている人がいたとする。
この場合、その考えが正しいか間違っているかは別問題である。
その人が忘年会で大勢の同僚の前で自分が幽霊の存在を信じていることを打ち明けたとする。
普通なら突拍子もないことを言ったと笑われるだろう。
一般社会ではそうやって掻き消されてしまう。
そして、それを予想して他人に打ち明けないままでいる人も多いと思われる。
しかし、ネットでは自分と同じような考えを持った人間を容易に見つけることができる。
その考えが例え間違っていて無意味なものであったとしても、自分と同じ仲間がいる以上、その考えを疑う機会が減り、さらに意を強くする可能性もある。
そういう意味でネットは偏見や固定観念の温床と言っても過言ではないのである。
ネット上の偏見の具体例を一つ挙げるとするなら、ミソジニストやミサンドリストと言われる人達である。
Wikipediaの定義によると、端的に言えば、両者ともに異性に対して憎悪あるいは嫌悪、または蔑視する傾向がある人間のことである。
この人達に共通するのはある特定の種類の異性に対する偏見ではなく、異性全体に対する偏見と言ってもいいのではないか。
そのような偏見を抱くに至った過程はそれぞれの人間によって違うだろうが、どういうかたちであろうと、異性と接触してきた過程で精神に大きな影響を与えるような何らかのネガティブな経験があったのではないかと推測せざるを得ないのである。
そして、そういう経験を繰り返すうちに異性に対する偏見を生み、実際の行為から推察すると、それが異性全体に対する復讐心に繋がっている場合も多いのではないだろうか。
しかし、異性と接触するにしても、そのことにある程度の免疫が備わっているなら、余程のことでない限り憎悪や嫌悪は抑制された筈である。
そういう意味で、偏見を抱く切っ掛けになった出来事は、多くの場合、まだ若いうちに経験したのかもしれない。
異性に対する復讐心からネットに異性の悪口を飽きもせず諦めもせず際限なく書き連ねるのはまだましな方である。
本人が単に異性に対する悪意や嫌がらせのつもりでやっているにせよ、異性に対する復讐が目的でやっていることに自分自身気づいていないのかもしれない。
異性に対するネガティブな感情が複雑に絡み合った結果、異性の尊厳さえ否定するような極端な考えに陥ってしまうのは最悪な結果と言えるかもしれない。
異性を騙したり、バカにしたり、不快な思いをさせることによって復讐を遂げようとする。
だから、映画の中の悪役のように異性をこっ酷く扱うキャラクターに憧れたり、自分も同じような人間になろうとする。
このような偏見の塊では決して良い恋愛などできる筈はないではないか。
そうやって負のスパイラルに陥っていく。
「人を呪わば墓二つ」という諺があるが、そういう人達は自分の知らないうちに既に報いを受けているのかもしれない。
固定観念の具体例として挙げたいのは、ネット上のことではなく、僕が経験した実話である。
僕の知り合いに非常に熱心な競馬好きのおじさんがいた。
この人は毎日、競馬に関することを一心不乱にノートに書いていた。
ある日、ノートを見せて貰ったら競走馬の名前が記してある以外、殆どが数字の羅列だった。
この数字は何を意味するのか尋ねたところ、次の週のレースで勝つであろう馬の番号だと言う。
そして、何を根拠に予想しているか尋ねたら、前週のレースでの馬の着順とその馬の番号だと言う。
例えば、前週に1着だった馬の番号が1だったから今週は5というように、その規則性は彼独自のもので彼自身の心中にあるらしい。
何故そう予想するのか尋ねたら、要するに、彼は競馬のレースというものが「八百長」であることを頑なに信じていたのである。
僕は競馬の仕組みを彼に教えた。
競馬というのは客が買った馬券の合計金額が売上で、そのうちの一定の割合が運営会社の利益になる。
その残りの売上を馬券が買われた数によってオッズで調整して配当するだけなので、どの馬が勝っても運営会社の利益には関係ない。
そう理屈を説明してもまったく聞く耳を持たない。
「あなたのやっていることはまったく無意味なことだ」と善意で教えたのだが、頑なに信じて疑わない。
これは一言で言うと妄想である。
このように固定観念というのは何らかの強い思い込みによって自由な発想が妨げられる場合を言う。
ネット上にもこれと似たような事が山ほどある。
例えば、荒唐無稽な陰謀論を頑なに信じているとすれば、その考えは無価値であり無意味と言ってもいいだけではなく、他人の固定観念を助長する可能性も秘めている。
このように偏見や固定観念を持っていても何も良い事などないのである。
特に若い人に言いたいのだが、若いということはそれだけ将来に対し希望や可能性があるということである。
心をスケッチブックに例えると、年を取っている人間よりきれいだし余白がある。
しかし、それは逆に言えば他人の言動によって汚され易く、また、変な考えに毒されやすいことを意味する。
僕は若い人になるべく自分の思考にとっての妨げや害となる偏見や固定観念に捉われてほしくないのである。
本当のことを言えば、常識や習慣や風習も固定観念の場合がある。
コペルニクスが地動説を唱える以前は、天動説が世の中の常識だった。
地動説が正しいことが証明される前まで世の中の人々は天動説という固定観念にずっと捉われたままだったのである。
若い人達には常識に捉われることなく、是非新しいことにチャレンジしてほしい。