優越感と劣等感
最近よく耳にする「マウントを取る」という言い回しがある。
流行語というのは一時的に流行った言葉や言い回しなどがいわゆる死語になって使われなくなるものと使われ続けるものがある。
だから、この「マウントを取る」も数年後には使われなくなっている可能性もあるが、最近引っかかっていたテーマなので、今回掘り下げてみたいと思う。
ただ、断っておくが僕は確固たる信念に基づいてこのエッセイを書いている訳ではなく、その時々の心境も織り交ぜて書いていると思っていただきたい。
だから、数年後には心境が多少変わっている可能性はある。
僕は綺麗事ばかり並べて偽善者のように振る舞うつもりはない。
人間は誰しも他人に対して何らかの優越感を抱いて生きていると言っても過言ではないだろう。
その優越感というのは一つの物事とは限らない。
例えば、「一流大学を出ている」ということである。
これは他人に対してアドバンテージのある事柄だから優越感を持って当然であろう。
「一流企業に勤めている」ということや「高級マンションに住んでいる」ということもそうである。
こうして例を挙げればキリがないが、ネットで調べたところによると、「マウントを取る」のは、主に自分の「資産や社会的地位」を他人に自慢したり、それによって威圧的な態度を取る場合が多いらしい。
そして、そうすることによって相手に自分が優れていることを認めさせて優位に立とうとする。
以上が「マウントを取る」の大体の定義である。
しかし、例えば、男が好意を抱いている女に対して単純に見栄を張るのはこれと違う。
「マウントを取る」に少し定義を付け加えるならば、「特定の相手を殊更に意識して」する行為と言ってもいいのではないか。
僕自身、マウントを取られた経験は結構ある。
相手が自慢することはやはり自分の資産や社会的地位であることが多い。
例えば、休憩時間に休憩室である人が同僚に対して自分の自慢話をしているという光景はよく目にすることであるが、その人が殊更に僕を意識して言っていたのならマウントを取っているということになるかもしれない。
僕自身の率直な感想を言えば、マウントを取ってくる相手は、「この人、何か僕に引け目を感じることでもあるのかな」と思ってしまう。
相手が僕に優越感しか持っていなかったら、わざわざ自分の自慢をして優位に立とうとする必要があるだろうか。
例えば、どう見ても見た目がみすぼらしい人に向かってわざわざ自分は「お金を持っていて、一流企業に勤めていて」などと言わないまでも、外見一つ取っても誰の目にも優劣は一目瞭然だろうから自慢する必要はない筈である。
僕にマウントを取ってきた相手は僕に何らかの劣等感を抱いていて、あるいは、少なくとも自分と僕を同レベル程度に思っていて、張り合おうとしたのである。
また、何の敵意も持っていない無防備な僕に対して、多少威圧的な態度を取ることによって、多かれ少なかれ萎縮させようとしたのである。
しかし、これまた率直に言わせてもらうが、僕にとっては相手が金持ちだろうが社会的地位が高かろうが、僕自身がその相手を殊更意識している訳でも張り合おうとしている訳でもない以上、相手の個人的な事柄に興味や関心はないのである。
この場合、僕の方から相手を意識したのではなく、不意に意識させられたと言える。
また、その相手が周りの人間に互いを比べて見てほしいという意図があるかは別として、そうすることによって少なくとも周りの人間が双方を比べて見る切っ掛けになる可能性はある。
僕にそれによって優越感を抱いているなら、わざわざ僕あるいは周りの人間に向かって具体的にひけらかさずとも、心の中で優越感に浸っていればいいのではないか。
それで何の問題もない筈である。
僕にもし何らかの劣等感を抱いているなら、それこそ優越感よりもなおさら表に出すべきではない感情であって、「悔しい」と思いつつも心の中にしまっておけばいいと思うのが普通ではないのか。
マウントを取る傾向があまりにも顕著な人間は露骨な表現を承知で言うなら「病的」と思わざるを得ないのだが、無理にでも他人に対して優越感を抱いていないと気が済まないのは、必ずしも勝ち気な性格だけが影響している訳ではなく、劣等感の裏返しの場合も多いと思う。
これは一言で言うと、シュペリオリティー・コンプレックスである。
とにかく僕を意識して何かを自慢されても、「この人は心の中に何か葛藤やもやもやを抱えているに違いない」と思わざるを得ない。
その悩みとも言えるものは、例えば、本を読んだり自分自身と向き合ったりして解決すべきことであって、それを自分自身で解決できないまま赤の他人である僕にそれとなく吐露されても困る。
不快だし好い迷惑である。
僕がその相手に負けたと思うから悔しくて不快なのではなく、どんな自慢だろうが感覚的に言って「知らないよ」あるいは「結局、何が言いたいの?」という意味の不快である。
福沢諭吉の有名な言葉に「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というのがあるが、この言葉には続きがある。
「されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥どろとの相違あるに似たるはなんぞや」
要するに、人間は本来平等と言われているが、世の中には学歴や貧富や社会的地位にかなりの差があるのは事実だから、とりわけ勉強することによってその差を埋めることができるというのが「学問のすゝめ」の内容らしい。
人間の生き方は人それぞれだし、他人に対して優越感を持てる武器の一つが資産や社会的地位である人は多い。
それによって自分の劣等感を埋め合わすことができるのであればそれに越したことはないだろう。
しかしながら、資産あるいは社会的地位のみを他人を評価する基準にしている人間はいるだろうか。
それだけを優劣を判断する基準にしているとすれば、自分より下の人間には優越感を感じる反面、上の人間には劣等感しか感じず、いわゆる諸刃の剣になりかねない。
また、評価の基準が一面的なので、常に優越感と劣等感の狭間で浮き沈みばかりしてしまったり、自分より上の人間に負けを認めながら生きていくという選択をしているのと同様で、情緒不安定になるのは避けられないと思う。
僕は自分がマウントを取られた場合の話について書いた訳だが、他人がどう感じるのかは知らない。
「そんなの適当にあしらったり無視すればいいじゃないか」という意見はもっともだし、普段は僕もそうする他ない。
しかしながら、敢えてこのように露骨に表現しないとわからない人間が少なからずいるようなので書かざるを得ないのである。
人間を評価する基準として、一つの基準に囚われるのではなく、様々な基準を持っていないと生きていく上で色々な意味で危ういのは確かだろう。
2020.11.22 タイトルを『「マウントを取る」の真実』から『優越感と劣等感』に変更