重松清
実は活字を読むのが、そんなに大の得意ではない。書くのも読むのも好きだけれど、決して速くない。むしろ遅い方だろうなと自分では思う。
それでもずっと子供の頃から好きだった。絵を描いたり字を書いたり、少し大きくなってからは漫画を描いたり小説や詩を書いたり、ずっとしてきたように思う。
だから、好きだけど横恋慕である。多分この先もずっと。それでも不思議と、この片想いが私は恥ずかしくはないんだ。誰に聞かれても何歳になっても、この横恋慕のことだけは笑って、明るい気持ちで「ずっと片想いしてるんだ」と言える。
中学と高校時代、とある作家の小説だけをずっと読み耽っていた。相変わらずスピードは速くない。例えばこれがリレーだったら、私は後ろから数えた方が早いような順位しか取れなかっただろう。
あの時自分の他に「私もその作家さん好きなんだよね」と誰かに声をかけられていたら、妙なプレッシャーだって感じていたかもしれない。誰かと同じものを好きだと共有し合うことが、どうしてかずっと苦手だ。
それでも読んだ。あの時、順位や自分の足の遅さなんてそっちのけで、時には一人ぼっちだっただろう自分にも目をくれず、そんなのどうでも良いからという気持ちで、とにかく読んだ。
重松清さんという、小説家だ。
重松さんが書いた本を初めて読んだのはいつだったか。正確には覚えていない。ただ「あれを読み終えたのは中学の夏休みだったな」みたいに覚えているから、そういう記憶を辿るしか今はもう出来ない。
出会いが「ナイフ」だったか「エイジ」だったか、本当に思い出せない。どっちかだった筈だ。20歳ほど今より若かった当時の私の脳味噌に、重松さんの文章は深く、けれど淡々と、なのに鋭利に刻まれた。
一冊ずつの感想を書いていくと膨大な量になってしまうので、今回は「重松清」という作家さんへの記事とする。単行本それぞれへの感想文は、また機会を改めて書くことにしよう。
「ナイフ」を、何周読んだだろうか。
中学生や、中学校に通う子の親視点で綴られた短編集だ。
表題作の「ナイフ」は、いじめを受けている男子中学生の父親視点で描かれたお話だった。自分とは性別も年齢も境遇も何一つ重ならない、そんな主人公によって語られる物語は、重たくて苦しくて、どこか遠くて、だけど遠いからこそ「読者」のままでいられた。
重松さんの文が、恐らく大好きなんだと思う。読んでいると心の中で勝手に語り部が話し始めてくれる。「読みに行く」というより「聞きに行く」という方が近いかもしれない。
生い立ちも現住所も正確な年齢も分からない。赤の他人だ。だけど小説を通じて、私は重松さんの描く主人公たちの知り合いになれたような気になる。遠いのに、声が聞こえる。不思議な感覚だ。寂しいけれど寂しさだけではなくて、肉声をどこかで感じる。
主人公たちの憤りや悲しみは、ほとんどは私に直接向けられたものではない。だけど時折私の心臓を刺す。読んでいる私の心臓目掛けて真っ直ぐに矢を放ってくる。
刺されると涙が出る。不意打ちで刺されるその瞬間に、いつもドキドキする。俯きながら虚ろな目で想いを語る相手が、本当にたまに、チラリとこちらに視線を上げるような、そんな瞬間に、背中がヒヤリとする。
目が合ったその時、活字という媒体が消える。その人の肉声そのものになる。同じ場所、同じ部屋の中、二人きり、そこで私だけに向けられた、確かな「声」になる。
声って不思議だ。顔も名前も知らないのに、その人だと強く感じられる、最たるものだと思う。
声から想像する。今、足を組み替えたな。拳を握っているな。ため息を吐いたな。空を見上げたな。少し笑ったな。泣くのを、堪えたな。
そうやって、その人のことを想像する。想像は勝手で、だけど自由でもある。私の想像が正解かどうかを確かめる術はない。それが小説の、一番切なくて、一番豊かな要素なのかもしれない。
重松さんの小説と出会ってから、三人称視点の小説にほとんど手が伸びなくなった。読むのも書くのも一人称ばかりになった。声を聞きたいと強く思うようになってしまったからかもしれない。
重松さんの文章が好きだ。本当に私は、どうしてこんなに好きなのかなあと不思議に思うほど、どうやら大好きみたいだ。
後悔の味がする。後味の尾が、長くて重たい。幸せも悲しみも、重松さんが描く主人公は読点と句点を絶妙な場所に置いて、読んでいる私に沢山のものを残していく。
文章のリズム、なんだろうか。それだけだろうか。それも大いにある気がする。でもそれだけではなくて、いつも苦い。あとちょっと甘くしてくれたら美味しく飲み干せて、なんの躊躇いもなくおかわりだってできるんだろう。もしくはあとちょっと苦かったら、飲み干せなくて申し訳ないなと思いながら、残してしまうかもしれない。
でも、ギリギリの匙加減で苦いのだ。いつも。苦いなぁと思いながら、だけどコップに注がれた液体をいつも私は気づくと空にしてしまう。
苦いなぁ苦いなぁと思いながら、時々休憩を挟みながら、それでも口の中が空になると途端に恋しくなって、また次の一口を自分から進んで飲んでしまう。
どんな物語であっても、重松さんの文章を読むとすぐに「あ、この味だ」と体が反応する。即座に思い出す。
重松さんが淹れた一杯を私は何度飲み干してきただろう。世の中にはきっともっと甘い一杯や、苦い一杯や、意表を突いた味の飲み物があると思う。だけど私が飲みたくなるのはやっぱりこれなんだ。また次も注文してしまうだろう一杯は、この味なんだ。
好きなものがあんまり多岐に増やせない私は、やっぱり他の分野でも同じ感じである。
見慣れない新メニューや興味をそそる謳い文句を見かけても、知った味、慣れ親しんだ味ばかりを繰り返し注文する。それで「ああこれこれ」と一人きりで反芻する。そのひと時にこそ幸せを感じるのだ。もう、そういう風にできているので仕方がない。変えることはできない。
十数年越し、今また久しぶりに「知った味」を飲んでいる。重松さんの文庫本を何の気無しに買って、何の気無しに読んで、またこの味に浸っている。
好きだ。
この苦みが懐かしくて、思い出して今、とてつもなく恋しい。遠くで声が聞こえる。俯きがちの、きっと虚ろな眼差しの、決して大声ではない、早口でもない誰かの声が、私の中で聞こえる。
今、「十字架」という小説を読んでいる。
苦いなぁと思いながら、やっぱり私はあいも変わらずこの一杯を飲み干して、幸せに浸るんだろう。
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