あたりまえにある言葉-言語学
心理学と言語学を専攻していました。とりわけ言語学という学問に出会ってしまったが最後、大学の4年間の多くを費やしたので愛を語ろうと思います。
とりあえずは言語学のご紹介
わたしたちがあたりまえのように使う言葉にはざっくり4つのレイヤー的な側面があると思っていて、言語学の研究の観点はこの4つを起点に発展しています(なんか違ったらすみません…)。
ちなみに、言葉はあくまでわたしたち人間から発せられるものをここでは指したいと思います。文字はまた別の話ということで。
①音の話(→音声学、音韻論)
②言葉の形の話(→形態論)
③文法の話(→統語論)
④意味や解釈の話(→意味論)
()の中がそれぞれ言語学の中にある各領域です。横断学問ももちろんあって、それぞれの英語名称の冒頭をとって"synphony"(統語論+音韻論)なんて呼ぶこともあるって教えてもらいました。
言葉は脳からあふれ出てきて、音として思考の世界から飛び出ていきます。音そのものを喉や口から鳴らすことそのものは音声学、音の続き方に基づいて本来あるべき発音から変化するようなことは音韻論でたどります。
発せられた音たちは、まず単語(厳密には「形態素」)という形を作り上げます。とはいえ、言葉には時制や受動・能動などの補助的な意味合いを持つの単語の影響を受けて変化します。いわゆる「活用」。なにぬぬるぬれねろ。この活用なんかを考えるのが形態論です。
そしてこの単語たちが集まって一つの文章になっていきます。文章になるとき、単語の並び方には言語体系に合わせてそれぞれルールがあります。日本語だったら、主語が来て、目的語が来て、最後に動詞。対して英語なんかは主語は最初に来るけど動詞があって目的語。そのほかにも、「わたしは」なのか「わたしを」なのかを決める構造的なルールとか、呼応表現(「たとえ~ない」とか)を規定するルールとか、そんなことを考えるのが統語論です。
最後に出来上がった文章はだれかに届いて、意味を解釈されます。この時、文字通りの意味でいいこともあるけれど、皮肉とか遠回しな表現とか、同じ文面でもその場の空気に応じた意味に変化することがあります。ぶぶ漬け食べますかなんて最たる例。これを考えるのが意味論です。
ちなみに皮肉なんかの言語学的なメタ認知がいつ頃人間に備わるのかについてはまた意味論から発展して心理学と一緒に研究したりします。
「言語学を専攻していました」というと、いろんな言語が話せるかどうかとかそんなことを聞かれるのですが、個別の言語を学ぶ学問というよりも、個別の言語の特徴を通じて共通のルールを探す学問だと思っています。
世界中の言語は1つのルールで説明できる、かも
さて、(2019年までに私が教わった時点での)言語学においては、ノーム・チョムスキーという人の打ち立てた理論に基づいて言語学が様々な方向に発展していきました。このチョムスキーというのはまた曲者で、言語学者でもあり最近は政治論も語り、彼の日本語訳本を読むにしても難解で原著になってもなお難解。権威であるチョムスキーを冠した言語学賞を設立しようとしても、受賞するのは当面チョムスキーなので設立話が立ち消えたりするほど。
このチョムスキーの理論というのはざっくりとこんな感じ。生成文法とも呼ばれます。
・人間は生まれながらにして全言語に汎用な言語知能キットのような機能(Language Faculty)を持っている
・生まれた後に周りから与えられた言語の情報に基づいて、キットがその言語に特化して発展する
・言い換えると、どんな言語でも同じルールによって説明することができる。ルールのバリエーションがいろいろある、というだけ。
つまり世の中の言語は大概「普遍文法」なる共通な文法(音や言葉の作られ方)で説明できる、ということ。目的語の次に動詞が来る日本語も、動詞の次に目的語が来る英語も、なんなら主語より先に目的語が出てしまうような少数言語も同じルールで説明できると思うんだよね、という理論です。見た目も発音も全く違う世界中の言語が、同じ一つのルールで説明できるかもしれないってなんだかすごいし、わくわくするし、素敵だなあと思いました。
一方で、チョムスキーの理論を疑う声ももちろんあります。それが最も近接する学問である心理学の一部で、言語キットなんてなくて全部全部生まれてから周りの人から言語を獲得するのだ!という考え方をする先生方もいます。まだ生成文法でもすべてが説明できていないからこそ、そして言語という定量的でないものであるからこそ、いろんな議論が発生して興味深いです。
「宇宙人が攻め込んできたら、防衛軍の真後ろに我々がいるはず」
初めて言語学という学問に出会ったのは、大学1年生の春。新入生向けに各専攻を先生たちが紹介してくれる期間で、ふらりと立ち寄ったのが言語学の紹介部屋でした。もともと生物学の観点から脳について研究してみたいと思って大学に入った私は数3と生物と化学をゴリゴリに進めてきて、心理学や言語学もまさか選択するとは思わず。
それでもわたしが言語学と恋に落ちたのは、あまりにも先生が楽しそうに言語学について話してくれるからでした。先生は、「言語学をやったところで就活に役立つことはほとんどないし、言語学で大金持ちになれることもない。言語学賞もチョムスキーのせいで受賞して賞金とれることもない。でも、もし地球に宇宙人が攻め込んできたとしたら、防衛軍の真後ろに言語学者たちが集められるはず、その時だけは言語学者が一番光り輝くはず。」と、なんとも楽しそうに話してくれるのです。なぜなら、未知の言語の構成や意味合いを解釈することもまた、言語学の使命だからです。その言葉を聞いてから、わたしは将来のことを細かく考えず、大学では言語学をやり切ろうと決めて言語学の世界にのめりこんでいきました。
言語学を起点に、近接する心理学も学んで、最終的には共感覚と呼ばれる、少し特殊な感覚についての卒業論文を執筆して卒業しました。ちなみにわたしも共感覚者です。この話はまた長くなるので、また今度。
いつだってお手軽言語学
言語学のいいところの一つは、日常のただの会話が研究材料になるところ。言い間違えもそれはミスではなくて研究材料だし、どうしてそんなミスが生じたのが、逆に自分の母語で認められる表現と認められない表現を比べてみても言語学について考えることができます。
発音の話でいえば、声を出すときは声帯が揺れると思われがちだけど、実はそうでもないです。喉仏のあたりに軽く手を当てて、普通にしゃべっているときとひそひそ声でしゃべっているときを比較するとなんとなくわかります。
さらには、特定の言語でしか聞き分けられていない発音もあります。もし、英語が母語、または母語に近い方がいたら、口の前に手を当てて「top」と「stop」を読み上げてみてください。ネイティブと同様に発音ができていると、「top」のときは手に空気を感じて、「stop」の時は空気をほぼ感じないはずです。同じ「t」の発音ですが、英語話者の中では前後に続く音に応じて無意識に無気音と有気音を使い分けているのです。でも別に、違う「t」の音とは思わないですよね。
こんなことを思いながら生きていけて、言語学というフィルター越しに見える世界は驚くほどに鮮やかで美しく、面白いものです。
今わたしはあんまり心身調子がいい状態ではなくて、「あ~~生きるのもしんどいな~~」みたいなこともあるけれど、言語学のことを思い出して世界を見るたびに、まだ面白いことは眠っているなあと思い出せます。
ありがとう言語学、愛してるぜ言語学。いつか最新理論に追いついて、人間の言葉をルールを一つにまとめられたらいいなと思っています。