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Chim↑Pomは公を問い、公となる
2度目のChim↑Pom展に行ってきました。1度目は恋人ととにかく展示を見る(というか付き合わせるのも違うしと思った)ことに舵を切って、2度目はChim↑Pomのその行動原理であるとかテーマ的なものを考えようと思っての本日でした。
ちなみについ先日Chim↑Pomは森美術館とのスポンサー問題を受けて正式なグループ名を「Chim↑Pom from Smappa!Group」へと変更しています。今日行った時点では美術館側でなにか変更されていたということはありませんでした。打ち込むのが疲れてしまうので、グループ名が変更されたことにふれることに代えて、以下はCPと表記します。
今回の展示はCPのこれまでの活動をまとめた回顧展のようなものとなっています。現代アートで、ましてやハプニング色の強い彼らの回顧展とは何たるか、という批評もあるらしいですが、これまでの総集編とそれらを総括的に考える場としては回顧展という名前もあながち間違っていないように思います。
展示の構成からCPを考えてみる
今回の展示は以下のように構成されています。現場ではナンバリングされていませんが、便宜上セクションそれぞれに番号を振ります。
①都市と公共性
②Don’t Follow the Wind
③ヒロシマ
④東日本大震災
⑤The Other Side
⑥道
⑦エリイ
この7つのセクションを、彼らの活動の傾向としてさらにいかにように分類できるように思います。
(1) 公共性のこれからを問う …①
(2) 想像させる、想わせる …②③④
(3) 公への実験的な取り組み …(④)⑤⑥⑦
何でそう思ったか分類ごとに書いてみます。
(1)公共性にこれからを問う
(1)に分類されるのは①のみとしました。①のセクションタイトルは「都市と公共性」です。
①セクションでは、我々の生活でも目にすることが可能な都市の発達に伴う制度、文化、生活の変化を、CPなりの再構築を経て異なる視点で表象された作品が多いように思います。
入り口すぐの解説では、彼らの興味の根底には「公共性とは何か」という問いが存在していることを明示した上で、大小様々な社会問題や社会に生きる人への関心が述べられています。
CPの関心と彼らに問いは、互いに連動する3つの塊にまとめられると考えました。こんな感じ。青字は彼らが取り上げた事象のつもりです。
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器とか入れ物としての都市が変わる以上、その中に存在する社会問題や公/個も変わっていくはずです。事実として、彼らは作品を通じて社会問題の変化(ないしは新規発生)や個の変化(若者カルチャーとか個人情報とか)をするどく描いています。そしてもちろん、器の都市の変化自体も、大胆な作品を用いて表現しています。
唯一、「公」だけは今ある変化を捉えるような作品が見当たらないように思いました。代わりに、彼ら自身が「公」を作り出した「道」が展示されています。
このことは、変わりゆく都市、それに伴って変わるはずの社会問題や公/個を前提としながら、いまだCPとしては十分に変化しきれていない公への問いを表しているのではないでしょうか。
もちろん、今浮上している社会問題を解決すること、個の在り方を問う側面も十分にあると思いますが、1番の主張は彼らの根源である「公共性への問い」かと思っています。
(2)想像させる、想わせる
ここには、東日本大震災や広島原爆投下に関する展示を3つ分類しました。
これらの展示は、(1)とは異なってその事象について具体的な当事者が存在し、それゆえの議論を多く生み出した展示たちです。
ただ、彼らの展示やその解説を見ていけば、そこに政治的なメッセージや誰かを貶めるような意図はなく、ただただ当事者への想いや、当事者以外にとってその記憶が風化しないようにしたいという意思が最も強く働いているように感じました。
時間が経てばいつか興味を失う、忘れてしまうことを少しでも避けるために、当事者でなくともその場所を想像させ、想いを馳せるための契機を彼らは生み出したんじゃなかろうか。
ただ、その表現の仕方が(1)のような「あんまり普通は取らない行動」になっていたこと、具体的な当事者がいたことが、各展示に対する様々な議論の発生につながったと思います。
(1)のようにざっくりとした「社会」とか「都市」であれば、そんなに具体的じゃないからおお変なことやってるなあとか、過激だなあというのを客観的な感想として持てると思うのですが、やはり当事者になるとそうはいかないこともある。それがぶれてこないあたりがCPらしさでもあるし、昨今の風情として難しいところだろうなあと思います。
(3)公への実験的取り組み
最後の分類には、()付きで④と⑤⑥⑦を入れ込みました。
④を()付きにしているのは、あくまで④は(2)としての側面が強い、でも(3)の気配もある、という葛藤の末です。
④で、CPはメルトダウン直後かつ侵入制限が課される前の福島第1原発へ赴き、原発の様子の撮影を行なっています。この行動の背景には、福島第1原発の様子があまり報道されていなかったからという理由があったことが展示で明らかにされています。
このとき、CPは社会に向けて報道するはずのメディアに変わって、現地の記録を行い報道しようとしたと考えることができます。つまり、彼らはこの展示において「公の代理を務めた」と言えるかと。
この流れで⑤の展示を見てみると、米国とメキシコの国境を「米国入国を認められなかった人」という当事者の立場から取り上げています。そして、地表では侵入できない国境であっても、地中深くまで掘れば易々と(掘るのは大変だと思う)跨ぐことができることを示しています。
⑤の展示は制限やルールに対するCPからの問いもある一方で、「公共」の輪郭をなぞる、または公共の外に出てみるという営みとも取ることができるかと思います。
そして⑥では、再びCPが「公として作」った道と、公道でのエリイの結婚パレードの様子が展示されています。彼らは「結婚という私的な契約を公に持ち込んだ」「これができるのは通常公人だけ」との発言をしていますが、このことはCPが「自ら公となった」と読み替えることができるのではないでしょうか。
ちなみに④では既存の公に対する代理、こちらは新しい公の生成です。少し違うと思っている。
ここまでの④⑤⑥は、(1)で問うた公共性についての解答の模索を、CP自らが実験的に取り組んできた経過を示すものと考えます。
そして最後、⑦の展示は、CPの活動のコアとも言えるエリイに焦点を当てたセクションです。⑦において、エリイは「セレブのように振る舞いたい」などと、自分が公共の場に晒されることを望むようなことを述べています。すこし荒い言い方にはなりますが、公にいることや公であるとへの強い憧れや興味があることを示唆するように思います。
④⑤⑥の流れと⑦を踏まえると、CPの根底にある「公共性への興味」には、活動のエンジンであるエリイの公であることへの強い感情が大きく作用しているのではないでしょうか。
うわいっぱい書いたわ
思ったよりたくさん書いた…なにかと物議を醸されがちで突拍子もない行動を取る人たちと見られがちなCPですが、その行動原理は理解できないものではないかと思います。
彼がどうしてそういう表現方法に辿り着いたかはまた別の機会に考えてみたいものだけど、いやはやその発想力と想像力はすごいものです。あとは当事者への想像力も強くなったらやたらめったら反論されることの少ない作品を作れるかもしれないけれど、今日の芸術において議論の起こらない作品ほど未来に残らないし見る人を考えさせないから、これからも愉快な活動をぶちかましていってほしいと思う次第。。