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僕たちは雨の土曜日の朝にラーメンを食べに行かなければならないということ
大学に落ちた。そんなこの世界にありふれる悲劇的な六文字で片付けれるような状況にある最近の僕は、とてつもなく自堕落な生活をずっと繰り返している。夜が深夜に、深夜が朝に、そんな時間まで続くYouTubeの閲覧、いやそれすらしていないかもしれない虚無な時間。朝6時くらいに寝て、20時くらいに起きる。寝る時間は遅いし寝てる時間は長い。そして昼ご飯としての時間を終えてしまったベチョベチョのよく分からない炊き込みご飯を食べて、風呂に入って、夜ご飯を食べて、そしてまた虚無の時間。それらがもし日記を書いているとしたら書かれるであろう唯一の一日の出来事である。皆がサークルに行ったりカラオケに勤しんだりして美しき青春を過ごす、あるいは来年の受験こそはと意気込んで猛烈な勉強に切磋琢磨している中、僕だけがそんな日々を続けていた。
そんなある日の朝5時は珍しくとてもお腹が減っていた。虚無の彼方から空腹した肉体へと神経の矛先が向き始めると、昨日母が言っていたこと僕は思い出した。「近くのラーメン屋で『朝ラー』と書かれた旗を掲げている」という旨だ。誰がこんな夜勤も居ないような住宅街で朝からラーメンを食べるやろうね、と母は笑っていた。しかし笑い事では無い。現にここに今、朝からラーメンを食べたい程に腹が減っている男がいるのである。というか夜勤が居ない住宅街って現代の日本には無いだろ。
母がパートのために起き始めたのは6時近い頃。「お腹減ったから昨日言っていたラーメン屋に今から行くわ」。僕がそう言うと母は驚いていた。今が早朝だからということ以外にも彼女が驚く理由はあった。
まず第一にその日は雨が降っていた。それも普通の雨量ではなく結構な雨、「ざーざー」と表記した時連想されるレベルである。その上、うちの周りは全て坂である。雨の日は危ない。しかも家から15分ほどかかる。もし昼であったとしてもかなりリスキーな感じである。
そして第二に(それは僕がその時ネットで調べて分かったのだが)現在、その店が朝ラーメンをやっているという確証が得られないのである。旗が掲げられている写真はネットで見れる。しかしその情報が出ているのは去年の夏までであり、Googleや公式サイトでは開店時間が11時と記載されているのである。しかし個人経営の料理屋がサイトの更新を怠りやすいのは僕も十分知っている。何年インターネットを操って来たと思っているのだ?僕は母親からの子宮口から飛び出たその勢いのままに這い寄ってキーボードとマウスに手を伸ばし、Twitterのアカウントを開設したのだ。そして僕は今やYouTubeを見るためだけに生きるまでに成長したのだ。お母さん、ありがとう。確認は怠らない。SNSにも開閉時間は書いていなかった。更新の怠った公式サイトをGoogleが参照した。そうに決まっている。僕くらいのインターネットウォッチャーになればそんなことはお見通しなのである。
しかし母は否定する。「出てこうへんってことはやってないんちゃうん?」「見たの結構前やで?」「コロナ期間限定やったんちゃう?」「晴れてたらまだええけど雨やからやめとき」「ほんまに行くなら電話しいや」「もうパート行くで」と。黙れよ。もうここまで来たら、店がやってるだの、やってないだの関係無いのだ。朝にラーメンを食べる。例え早朝であろうとも、雨が降っていようとも、開店しているかどうか分からなくとも、そんなこと関係無い。僕は気づいていた。無茶で、男っぽくて、派手な志を持ったらやり通す。それこそが僕の人生に無かったパワーなのでは無いだろうか。小さい頃からスポーツやゲームが苦手でみんなと遊んでもあまりにも下手すぎて毎回変な感じになってたこと、いろんなことに興味は持つくせにすぐに飽きてしまうこと、大学に落ちたこと、そしてこの自堕落な生活の現状。それらはこのパワーが無かったためでは無いだろうか。俺は決めた。どんな逆境が訪れようと、どんな逆風が吹き付けようとも、俺は『朝ラー』をかっ喰らう。俺は朝にラーメンを食べる、という生き方を今この瞬間選び取るのである。これは手続であり儀式であり通過儀礼であり決定事項なのである。それが男になるということなのさ、母さん。寺山修司にも似た視線を彼女に浴びせる。
雨が降りしきる。先ほどよりも激しくなった、大地を切り裂くような大粒の雨。雨は古代より災いをもたらすとされてきた。しかしその代わりに恵みをもたらすともされ畏敬の念を持たれてきた。そんな破壊と創造、二律背反、表裏のコインに僕は挑もうとしているのだ。
「ハンカチ持ってる?」そんな野暮な事を言う母のことなど無視して僕は自転車を走らせる。実際は走らせるなんて言えるような速度ではなく、少しでも雨で横転しないよう急な下り坂にブレーキをしっかり着実な踏み続けた、とてもゆっくりなスピードだ。俺はカッパを被り水溜りをよけゆっくりと、それでも着実にラーメン屋へ進む。さながら雨の中の森を這う陸軍兵。激しい戦状に食って出るように、愉快げな声色で俺は「Singin the rainbow」を口ずさむ。根本的に破綻してるように思えるデザインのカッパから早速ずれたズボンや服がずぶ濡れになっている事を感じる。しかし何とでもなるが良い。俺は朝からラーメンを食べる男だぞ。何なら雨にあたることが心地良いとまで言えよう。心を横柄にする事でその自信を蓄え、肉体と意識を自転車の進みにのみ集中させる。いつしか道は平坦になり、俺は雨の中自転車を豪速球で走らせていた。灰色の空、鼻にのしかかる重い雨の匂い、鮮やかに飛び散る水溜りの粒たち、どんな雨の中でも行われる人々のただそこにあってずっと続いている暮らし。そんなものを感じながら俺が辿り着いた目標地点である、そのラーメン屋の門はしっかりと締め切られていた。
僕の眼前に広がる「朝ラー」と書かれた旗が置かれていたであろう場所には「メガ盛り」と書かれた旗が置かれていた。しかし「朝ラー」ができないため僕は「メガ盛り」をすることができない。この旗は果たして何のための宣伝であるのだろうか。呆然と立ちすくしていた僕の携帯に、朝に珍しく着信音が鳴る。「せっかくやから、マクドモーニングは?雨、気をつけて」母からのLINEであった。こんなにも僕は母に殺意に限りなく近い感情を抱いたことは無かった。何故開店していない前提なのか、何故しっかりと備えたラーメンのこの口をマクドで済まさないといけないのか、何故この女はこんなにも悲しい男を放っておいてさえくれないのか。
村上春樹の作品に「パン屋再襲撃」という小説がある。ある夫婦が深夜に耐え難い空腹を覚える。それは昔「僕」が親友と行ったパン屋への襲撃の失敗が呪いとして降りかかっているのだと妻へ説明する。「僕」たちはかけられた呪いを解くために散弾銃で武装し、再び襲撃を目論むが、夜更けの東京に開店しているパン屋はなかった。そこで妻はマクドナルドを襲うことを提案し、「僕」は促されるまま実行に移す。よく分からない話であると小学生の頃読んだ時は思ったが、今の僕には痛いほどに分かる。つまりパン屋がマクドナルドにすり替え可能というのは、パン屋というのはつまりこの二人にとって記号的なものに過ぎないのである。それが絶対に「パン屋」である必然性があるわけではなく、そうした「パン屋」という記号を呪縛から解くためのツールとして使いたいだけであり、それは「マクドナルド」で全くもって代替え可能なのである。
しかし僕の場合は?そういうわけにはいかない。朝にラーメンを、しかも外で食べる。そうした、向こう水で、無鉄砲で、しかし男らしく、その奥行きの中に倫理や愛や慈愛や誠実さがうかがえるというのが今朝僕の選び取るべき生き方なのである。記号的ではある。だがこの場合、マクドナルドはこの枠内には入らない。
そうなると朝ラーメンをやっている店を探すしか僕には手立てが無い。しかし僕の体は急速に冷え切り、空腹の次のゾーンへ向かっていた。可及的速やかに口の中に何かを放り込みたい。しかしそれはラーメンのような「朝食べない男らしい食べ物」であるべきなのだ。そうなるともう外という線は捨てて、家にあるインスタントラーメンを食べるしか筋は無い。しかし、しかしだ、すると僕がこんなに苦労して雨の中、外に出た意味がない。その上ここ最近僕は全くもって外へ出てなく、体力的な意味、外に出るという意味においても、ここで何かをしておきたい。そう僕は感じさせれていた。ここでマクドナルドへ行くなど、もう論外中の論外、負け中の負け、終了中の終了である。
しかし気づけば自転車はマクドナルドがある駅前へと向かっていた。そこでミスタードーナッツを発見した。僕はTwitterか何かでミスドでドーナッツ以外にもラーメンをやっているというのを見たことがある気がした。僕は調べる。すると坦々麺が三種類、そして汁そば、とある。ふうむ。これは記号的には「ラーメン」であるとギリギリ言える。まあ汁そばはもう朝からガッツリ!では無いがこの際OK。坦々麺は全然その口では無いがめちゃくちゃOK。しかしミスドのモーニングで麺類ってやっているのだろうか。というかそもそもこの店舗で麺類ってやっているのだろうか。例えば都市限定、時間限定であったりするのでは無いだろうか。一抹の不安がよぎる。「坦々麺ってやってますかね?」そんなことをミスタードーナッツを早朝に入店して言えるような勇気は今の僕には持ち合わせていない。というかやっているにせよ、やってないにせよ朝に「坦々麺一つ。それだけ」とドーナツ専門チェーン店で言えるような謎の勇気を僕は持っていない。しかし、それこそが僕が掲げていた「朝ラー」の精神なのではないか。
今、僕を待ち受けるトレードオフは3つ。勇気を振り絞りミスドに早朝に(やっているかも分からない)坦々麺を注文、折角雨の中外へ出たのに家に帰ってインスタントラーメンを食べる、濡れた服でとぼとぼマクドに入り腹の満たせないであろうベーコンエッグか何かの品数の少ないしょうもない朝マックを食べる。僕は自転車が倒れないように抑えながら熟考に熟考を重ねた。マクドというのが一番目的を果たせていない。一番無い。一番邪道。一番ダサい。一番終わってる。朝にマクドに行くやつなど何なら何の志も持たない、これまでもこれからも一生涯社会に順応するだけのつまらない、本当につまらない終わっている人間なのだ。そんな奴は今までの自分と同様、いやそれ以下の、虚空に時を過ごす屍であるのだ。これからの俺は違う。ミスドに歩み寄る。しかしあんなことできない。僕には早朝にミスドに入り「坦々麺やってますか」と聞くなんてそんなことはできない。雨の中、久々に外へ出たのに家に帰ることもできない。
僕は、濡れた服でとぼとぼとマクドナルドへ歩み寄りベーコンエッグのセットを頼んだ。セットで450円。カフェオレとハッシュドポテト。僕は虚空に時を過ごす屍になった。
僕はゆっくりベーコンエッグマックサンドを満腹中枢が満腹を感じるよう、口に運んだ。それでも満腹にならない。ゆっくりハッシュドポテトを食べても。それくらい腹が減っていたのだ。僕はこの文章をiPhoneのメモ帳に書き始めた。駅前の駐輪場が許す時間ギリギリまで、そのマクドの店舗で一番良さそうな席に居座り続けた。それが今僕にできる最大限の、母親への、ラーメン屋への、マクドナルドへの、アメリカへの、資本主義への、人生への、そして何も果たせない自分へのささやかな抵抗である。
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追記)駐輪場の時間超過しており、結局お金結構払わされた。