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「子どもの喜ぶ顔が見たい」と純粋に思えるママと、私の違い

ずっと不思議だったことがある

私は子どもが生まれてから
不器用ながら
がむしゃらに生きてきた


ほんのすこーし子どもも手がかからなくなり
やっと自分の心の余裕も戻って来た


でもある時こんなことがあった

保育園の役員会で
催しをやろうというとき

「色々やること増えてめんどくさいなぁ」
と心の中で思う私と

「子どもが喜びそう!」と
目を輝かせるママ  


その違いは何なんだろう?と
漠然と思った、、。
(私って良いママじゃないよなぁ、、と)


他にも

「お弁当を作るのってめんどくさいなぁ」
と思う私と
「明日お弁当だから、
コレとアレと
それ入れてあげようと思うんだよね、
子どもが楽しみにしてるから」
とわくわく話すママ




この違いはなに??と。。



他にも
家でプール遊びを心から楽しそうに
準備をしてあげられるママとかね。


私は、めんどくさいが勝ってしまっていた。。
(ごめんよ)



その頃は
子育てと一緒に
心理学を学んでいたので

「自分を満たしていない」から
「子どもにもやってあげたい」

という気持ちが
湧いてこないのかな?と
ふと思い
(いわゆるシャンパンタワーの法則)


とにかく
「自分を満たすこと」を
優先していた


自分の1人時間を捻出したり
カフェに行って
好きな本を読んで
好きな心理学のyoutubeを見たり、、


とにかく自分を満たすことを心掛けてた



でも、
その瞬間は満たされても
家に帰って
子どもが泣き叫んだり
あれこれやらないとで
わちゃわちゃになると
すっかり抜け殻、、、。



満たしては減って
満たしては減って、、


で、
いつまで経っても
子どもへの愛情までいきつかないまま
枯渇していることに気付いた



「何でだろう?」

「いつになったら、
やってあげたい気持ちが溢れてくるの?」

「もっともっと満たさないとダメなのかな?」

不思議だった



で、
ある時たまたまhappyちゃんの動画見てて
頭がカチ割れそうになったんだよね


「あっ、そうか、、!」って。


それは、

『私は
私の人生を主体的に生きていたか?
ってこと


そうゆうたぐいの話は
これまで何度も聞いてきたし
自分でも
実践していたつもりだったけど
子育てのこの部分にも繋がってたんだ
って
衝撃だった


⭐︎
どうゆうことかというと、、。



主体的に自分を生きている人は

いかに自分の人生が楽しくなるか?』

『いかに楽しめるか?


という視点に立っている



すると

自然と
子どもの心の内側を見て

喜ばせてあげたい
喜んでいる姿が嬉しい


と思う



それは
子どもの喜びは自分に
とっても喜びであり、

自分の人生が楽しくなることに
繋がっているから



対して

受動的に人に流されて生きている人は
いつも
被害者の立ち位置』(もともとの私)


•やらされてる
•あいつのせいで
•環境のせいで
•〇〇さえあれば

いつも他責で生きている



そんな人(もともとの私)は
人に変えてもらったり
与えてもらうことでしか
自分の人生を進めていく方法を
知らない


というか、人生は
「進めていく」
というより
『勝手に進んでいってしまう』
ような感覚しかない


だから、いつも
人のせい、環境のせいにしてしまう


自分の力で人生を好転できる、
なんて発想すらない



どこか機械的で無機質



いつも被害者の立ち位置なので
自分のことにしか
意識が向かない



•いかに自分が大変か、、
•いかに自分が損しないようにするか
•いかに自分が苦労しているから、、
•いかに自分が、、。


いつも自分は被害者の立ち位置にいるので
〇〇されたから
〇〇のせいで
ということで頭がいっぱい


「自分から進んでいく、」
「変えていく、」
なんていう意思の強さは全くない


ただ流されて
どこかにたどり着くことしか知らない




その立ち位置からでは
残念ながら
「自分から日常を
もっともっと楽しいものに変えていこう!」
とか
「子どもをもっともっと喜ばせたい!」
なんてゆう
覇気のある気持ちは湧いてこないのだ


この状態のときは
まず、
被害者になってしまいたくなるくらい
辛かったことや
悲しかった気持ちを
吐き出すことが大切だと思う


被害者の立ち位置になってることを
責めるのではなく
そうなってしまうほど
苦しかった何かがあったはずだから



そこを昇華せずに
「さぁ、もっと楽しい人生を!」なんて
パッとは切り替えられないから 



しっかり
悲しい気持ち
辛かった気持ち
苦しかった気持ちを
吐き出して
寄り添って
スッキリしたあと、



はじめて

自分の人生を楽しむにはどうしたらいいか?』

の方向に舵を切れる



自分で自分の人生を
ハンドリングできる


そう思った瞬間から
子どもへの見方も一瞬で変わる



親の人生にとって
子どもの喜びは
最大の喜びと同じ
だから




だから自然とわくわくしながら
子どもの喜ぶことをやってあげたくなるんだ



つまり
いくら自分を満たして満たしてを
繰り返していても
それが勝手に溢れて
子どもに行く着く訳ではなく、、


いかに自分の人生を楽しいものに
変えていくか?


この主体性な立ち位置に立ったとき
初めて
子どもの喜びについても考え出すのだと思う



そうでないと
いつまで経っても
満たしては減って
満たしては減ってを繰り返してしまう



それは
例えば
「子どもをどこかに連れて行ってあげること」
一つとっても
「子どもが喜びそうだから」
という純粋な気持ちなのか
「これだけやったよ」
という証明のような
どこか自己満足な気持ちなのか
の違い


とんかつとエビフライのお弁当を
子どもが
「美味しかった〜また食べたい」と
いってくれたときの
純粋な頑張って
「また作っちゃおうかな」
という気持ちなのか

「手作り品いれておかないと、
先生に見られた時、
ダメな母と思われるから
入れておかなきゃ」
という気持ちなのか
の違い




⭐︎
主体的に生きている人は
自分の人生を楽しもうと
前向きに決めていこうとするスタンス
がある


人生は自分次第で
決めていけると思えている人

とも言えると思う



さらにいうと

そうゆう人は
おのずと
自分には自分の人生があり
子どもにも子どもの人生がある」

無意識的に感じとっている



だからこそ
子どもにとって
どんな人生が良いのか、

この子が本当に求めていることは
なんなんだろう?

という心の内側を見ようとする視点に立てる



それは
自分の意思がなく
受け身で流されている人(少なくとも
もともとの私)には
全くなかった発想


いつも流されて
周りに不満ばかりもち
愚痴を言い続けていては
「自分でこの状況を良くしていこう、」
なんて発想は
湧いてこない


そもそも
被害者の立ち位置でいた方が
頑張らなくて済むし
愚痴を言っているだけでいいので
楽なのだ
(完全に無意識だけど)



だから
「自分には自分の人生がある??」
なんて芯のある発想は持っていないし


「人にも人の人生がある、」
だなんて
全く思い浮かばない



「ただ皆んな流されて生きているものだ、」
そんなものだろ、
くらいにしか思っていない、、。

だからこそ、
「子どもには子どもの人生がある」
なんて発想もなく
自分の理想の価値観を
子どもにも押し付けようと
してしまう




⭐︎
『どっちの立場で生きているか?』
だけで
見えてくる景色は変わってくる



これまで会ってきた
「子どもが喜びそう」
と目を輝かしているママ達は
確実に
主体性を持って生きていた



『自分の人生を
楽しくするにはどうしたらいいか?』


という視点にたって
オシャレを楽しんだり
旅行を楽しんだり
趣味を楽しんだりしていた。



そんな沢山ある楽しみの中の一つが
子どもの喜びなのだ
(しかもかなり大きなウエイトを
占める)



私はもともも
『自分を犠牲にしてでも
子どもの言うことを聞いてしまうタイプ』
だったが
それと
これはまた似て非なるものだと
感じる



「〇〇してあげたい」

なのか

「〇〇してあげなきゃ」

なのか、
この大きな違いも『主体性』だなぁと思う


『子どもの喜ぶ顔が見たくて
心から純粋にしてあげたい』

なのか

『子どもが言ってるから
叶えてあげるべき、
してあげないといけないから、』
という義務感なのか



行動は同じでも
子どもに伝わるのは

『ママが喜んでやってくれてる』
のか
『叶えてくれたけど、ママが疲れている』
なのか。。


子どもからしたら、
雲泥の差だ、、、。



喜んでやってくれてるかどうか、
はおのずと伝わるし
その空気感やニュアンスから
「自分は大切にされている」
という
『愛』を感じ取るんだと思う




もともと主体性に
生きている人達からしたら
私がわざわざ
こんな記事を書いていることすら
ビックリするんだろうな笑


そのくらい当たり前で
ごく自然なことなんだと思う



でも、主体性な感覚が無く
いつも受け身で生きてきた
私のような人からしたら

「そうゆう視点かぁ!」と

驚いてくれる人も
もしかしたら、、、いるかもしれない



もちろん
100か0かなんてことはあり得ないから
70と30とかグラデーションのように
私も子どもの喜びを考えていたことも
もちろんある 


でも
それがハッキリとしなくて
「なんで私はあんな風に
子どもの喜びを
考えてあげられない
ダメな母なんだろう」と
疑問に思っていたことが

ハッと晴れた気がした


それは

自分の人生を
自分で楽しく変えていくには??

なんて発想で生きていなかったから


正直、
『子どもの喜ぶ顔を見るのが親の幸せ』
ってのは
どんな人でも必ず
感じたことのある感情だと思う



でも、
それが
『ごくたまに、しか現れない人』と
『毎日毎瞬、感じてる人』には
どんな差があるんだろうか?って考える


それが
私の中では

自分で人生を主体的に
より良く生きて行こうとする気持ちを
持っているか、否か

な気がしている



いつまでも
受け身で流されて
不平不満を言っていては
心の底から
「子どもの喜ぶ顔が見たい!」って
リンクしないんだよなぁ〜


なぜかって
まさに私の母親の姿に当てはまるから


いつも父の言いなりで
社会や会社の愚痴を言い
あの人はいいよねと
比較しては
父のせいにしていた母


そんな母から
心から溢れんばかりの愛情を
感じられなかったのは
母自身が
『自分の人生を主体的に
生きていなかったからなのかな?』と
思うととても納得してしまう


父や環境の文句を言うだけで
自分では決められず
他人に委ねて
流されて生きているようにみえた母



そんな人生の決定権を
誰かに譲渡している人が
『自分の人生、どうやったら
楽しくなるだろう?』
なんて発想が湧くだろうか?



そして、
『自分の人生と同じように
どうしたら、
目の前のこの子が楽しくなるだろうか?』と
感じるだろうか?




もちろん、
母なりに
外側の幸せ(学歴、習い事、会社)
を願っていてくれたことは
よく分かるし
その時代ではそれが本当に幸せと
信じられていたから、
そこはとても感謝してる


でも私が本当に欲しかったのは
湧き上がる愛情に
あふれた笑顔だったり
愛を感じる言葉や仕草や行動だった




自分の人生をいかに楽しいものにできるか?


そんな気迫ある生き方から
強さが生まれ
溢れんばかりの愛情も
生まれてくるのだと思う


⭐︎

この視点になって以来、
やっぱりめちゃくちゃ変わった
(もちろん戻ったりすることもあるけど
思い出すとハッとする)


子どもの喜ぶ顔を想像して
プールに連れて行ったり、

子どもの喜ぶ顔を想像して
お弁当に
エビフライを詰めたりしている

子どもが喜ぶかなぁと
買い物してても色々買いたくなる


それは期待というより
私の勝手な気持ちなので
思った通りのリアクションでないときも
「それはそれ」
と流せる



勝手に期待して
無理して頑張っていたときとは
「せっかくやってあげたのに」と
恩着せがましく
子どもに言ってしまう事もあった


でも、
『純粋にやってあげたいから、やる』
はそれだけで
『やりたいことがやれている状態』
だから
実はもう満足していて
それ以上はあまり望まないんだと思う

(もちろん喜んでくれたら
また嬉しさは倍増するけどね)




この気持ちは
またきっと忘れるけど笑
ずっと覚えていたいので
ここに残しておこうと思う⭐︎



読んでくれてありがとう♪

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