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父の記憶①:む、しょうこうせいけつにょう

私は、父が38歳の時に三女として生まれた。
医師だった父は、自宅兼診療所で毎日朝から晩まで仕事詰め。
私は小さい頃、下階の診療所で働く父の存在を感じながら自宅で母や姉妹と過ごすことが多かった。
優しい父で仕事の合間をぬって色んなところに連れて行ってくれたが、父と過ごした時間は短く、私に残る父の記憶はそれほど多くない。
私は「出来の良い子」でいようとしたから、父と感情的にぶつかり合うことがほとんどなかったかわりに、父から直接愛情を注がれたという記憶もあまり残っていない。
振り返れば、淡白な父娘関係だった。
彼がこの世を去ってから4年が経ち、私の中で父に関する記憶が美化されていることに気付く。

私が小学生の頃に数年間、運動を制限されたことがある。
理由や誰からの指示なのか疑問にも思わず、言われるがままに私は体育の授業を見学し続けた。
嫌いだった長距離走の時はラッキーと思ったが、プールなど好きな種目の時は楽しそうな友達を寂しい思いで眺めていたことを覚えている。
自宅では時々診療所に呼び出され、定期的に検尿や採血をされた。
「注射の時に泣かない、偉い子」と看護婦さん達から褒めてもらえたことを思い出す。

「なんでわたし、うんどうしちゃいけないの?」
ある日ふと疑問に思い、両親に聞いてみた。
「それはね、『む、しょうこうせいけつにょう』があるからだよ」と父が答えた。
漢字をろくに知らなかった私は、父の発音どおり「む、しょうこうせいけつにょう」なんだと覚えたが、それが何を意味するのかさっぱり分からなかった。
当然、友達に説明しても「?」の反応だった。
見た目が元気なのに体育の授業を見学する私は、サボっていると後ろ指をさされたこともあった。
ちょっぴり苦い思い出だ。

中学に上がる頃には運動制限がなくなり、いつしか自分が「む、しょうこうせいけつにょう」だったことをすっかり忘れていた。
健康な身体に生み育ててくれた両親のお陰で、大きな病気やけがをすることなく走り回っていたし、大学にも進学できた。
父は進路について「好きにしなさい」と言ってはいたが、私が医学部に合格した時喜んでくれた。
(父は、合格したのが私立でなく学費の安い公立大学だったことが嬉しかったらしい。オトナの事情だ)

「む、しょうこうせいけつにょう」を思い出したのは大学の授業中だった。
「無症候性血尿」という医学用語に、幼少期の自分が瞬時によみがえる。
「無症候性血尿」とは、症状が無いけれど血尿が出ている状態を指す。
通常は尿の中に血液が混じることは無い。
尿に血液が混じる場合、腎臓や膀胱に病気がある可能性があり、腎臓の病気がこじれたら人工透析が必要となる。
当時から運動が腎臓に悪いと考えられ、腎臓の悪い人は運動制限されていた。
ただし、小児の血尿は大半が良性。
まれに腎臓の病気から人工透析になる可能性があるが、大半が自然に消失し運動を制限する必要は無いと言われている。

小学生の私に血尿が出ていると知った父は、医師として最悪の事態を想定したのだろう。
彼は私の尿検査を頻繁に行い、腎臓に負担がかからないようにと運動を制限したのだった。
やりすぎってくらい、慎重に。

大学生になって初めて、幼少時に父がとった対応の真意を理解した私。
もちろん心配性の母の影響もあったろうが、父として幼い娘の身体を案じてくれていたんだね。
元々父は天邪鬼でストレートに愛情表現をするような人ではなかったから、「娘を気にかける父親の愛」に初めて触れることができた気がして、何だか嬉しかった。
そういう私も天邪鬼な一面があるから、彼が生きている間にお礼が言えなかったのだけれど。

ようやく秋らしくなってきた

父はもうこの世にいないが、彼に守られていたという感覚は今も私の心に深く刻み込まれている。
お陰で私は、心の調子を大きく崩すことなく過ごせているように思う。
50歳を超えても私の腎臓は問題なく、ジョギングの習慣を続けられている。
「私はあなたの娘として生まれてこれて良かったよ。ありがとう。」
あの世で父に会えたら、笑顔でそう言いたい。