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Mantell(詩)+現代詩について考えること(エッセイ)

息子が印刷用紙に描いた恐竜のスケッチがある。背骨がしっかりと感じられるのがとてもいい。すっごくいい。皮膚の色は恐竜研究のなかでいちばん特定が難しい部分だというが、息子の選んだクレヨンでまず間違いはないだろう。
なによりもいいと思うのは、恐竜のそばに書かれた三行の文章だ。幼稚園児らしい硬さをもった字はこう告げる。
 
「人々は恐竜を信じています。
 信じているということは、姿の見えないものを愛するということです。
 主よ、憐れみ給え。私たちは私たちのしていることを知らないのです。」
 
額縁に絵を挟んだところで、私はふと疑う。
もしも恐竜の存在を信じるものがいなければ、白亜紀もジュラ紀も三畳紀も、始まらなかったということなのだろうか。であれば、今もまさに私たちが見落としてきた歴史の層が、この足の下に埋まっているのではないだろうか。
 
額縁を壁に掛ける。ソファーに腰をおちつけた私は、私のなかの地層をめくってみることにする。胸板にナイフを添わせる。傷みの底から血と光があふれたとき、恐竜の声を聴いた。恐竜ごっこをする息子が、ドアを開けてリビングに入ってきた。なかなかの迫力、すさまじい、すばらしい。彼の演技はすっごくいい。
午後は息子といっしょに、恐竜の親子になってすごした。
夜は道路を掘削する人々の音を子守唄に寝た。





休息が心地よく充実したものであるのは、労働の成果だと思う。しっかりと日中に働いていなければ、夜には休めないものだ。



……などと真面目なことを言ってみたけれど、これが私には当てはまらない。日中ちゃんと仕事をしているが、それでも眠れないことが多くある。

私の場合は中途覚醒が多い。

午前3時くらいに目が覚める。この時間がいちばん厄介だ。一時間、二時間が経つ。もう夜の底が白んでくる(川端康成)。そうなると眠っていないことに焦りを覚えるし、今更眠っても仕方がないという無力感もあり、感情の板挟みになる。布団の上で悶えながらいつのまにか浅い眠りに落ち、疲労を抱えたまま一日が始まる。

それでも最近は「眠れないのであれば焦ることはない。だって眠くないのだから」と開き直って、こうしてnoteを書いたりしている。

しかし毎回そうエッセイの内容なんて思いつくものでもないので、今回は詩と現代詩について私の考えていることを話してみようと思う。

詩と現代詩は違う。
なにが違うのか?

詩はとても自由に開かれている。それこそ、日常のこととか、恋愛のこととか、仕事のこととか、なんでもいいから行を分けて感傷をこめたりこめなかったりすれば詩になる。お好みなら行を分けずに散文詩として仕上げてもいいと思う。詩は万人のためのものだと思う。その用法や効用なんてものは話し始めるととってもやぼだし、私は特段持論めいたものもないのだけれど、詩はとてもいいものだと思う。なにより難しくない。小説と違って書き上げることにそこまでプレッシャーを感じなくていい。そもそも他者に見せることを前提としなくてもいい。ノートのはしっこに書いておけば、いつかまた自分が見返して、懐かしく思い出すこともできる。素直に書けば素直に書いたぶんだけいいものになると思う。

ポエムという言葉がある種の侮蔑語みたいになっているけれど、感傷的に過ぎたとしても、技法や修辞法に富んでいなくても、詩に精通していなくても、書くことはとてもいいことだと思う。

じゃあ現代詩とはなんだろうか、と私は考えてみる。

現代詩は、過去から積み上げてきた詩の集成ではないだろうか。
萩原朔太郎がいて、宮沢賢治がいて、草野心平がいて、中原中也がいて、三好達治がいて、T.S.エリオットがいて、エズラ・パウンドがいて、W.H.オーデンがいて、西脇順三郎がいて……山之口獏、まど・みちお、石垣りん、茨木のり子、鮎川信夫、牟礼慶子、谷川俊太郎、大岡信、辻征夫、吉岡実、田村隆一、吉増剛造……井坂洋子、伊藤比呂美、蜂飼耳、三角みづ紀、小笠原鳥類、山田亮太、森本孝徳、岡本啓、マーサ・ナカムラ、水沢なお、などなど…(敬称略)(ほぼ私の趣味)と連綿と続いてきた詩の果てに詩作を行う人々を現代詩人と呼ぶのであり、その詩作の結果が現代詩だと思う。

いわばひとつの伝統みたいなものでもあり、さらには伝統の破壊の連続みたいなものでもあると思う。現代詩を作ったり批評したりするのであればきちんと現代詩の流れがわかっていなければいけない、というのはそういうことだと理解している。

以前、恩師である歌人の先生が言っていた。

「お前らは自分の時代の短歌ばっかり大好きで、過去の人たちの短歌にぜんぜん触れない。だからお前たちの短歌はつまらないんだよ」(意訳。実際には「穂〇弘ばっかり読むんじゃなくて〇〇とかも読め」って言ってた)

創作者は何かを作ってそれを世の中に送り出す。それは単なる時代の消費物ではなく、時代そのものとなる新しいものでなくてはいけない。先生が仰りたかったのはそういうことなのではないか。

などと語ってみたところで、やっちまった感が凄い。
お前が現代詩を語るな! と怒られそうである。
なので私は眠ることにする。

現在朝6時近くである。

このあとは焼肉に行く予定があるので、眠る。
ぜったいに眠る。
死んだように眠る。
孔子先生に怒られても死人然として眠る。

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