ドン・キホーテのこと(雑考)
ドン・キホーテの前編を読む。この際内容の良しあしはどうでもよく、私はこの作品が「狂気のひと」ドン・キホーテそのひとではなく、「『狂気のひと』をみるひと」たちの物語であると云いたい。
しっぽのほうから話してしまえば、それは私たち読者のことに他ならない。騎士物語のメタ的な位置づけにあたるドン・キホーテの物語には、常に「虚構を愛するひと」と「現実に生きるひと」の対立が示される。
従士サンチョ・パンサは従士といいながらも、主人ドン・キホーテに黙って付き従うような懐柔されやすい性格はしていない。ドン・キホーテが風車を巨人だといえば「あれは風車だ」というし、金だらいを金の兜だといえば「あれは金だらいだ、あんたはおかしい」という。
ドン・キホーテの村に住む司祭や床屋も「狂気をみるひと」だ。彼らはドン・キホーテの狂気を救おうとする一方で、ほかの登場人物たちといっしょに彼を弄んだり、笑いものにする様子もみられる。サンチョ・パンサのみが主人をほんとうに哀れみ、理解しているのであって、そのほかの登場人物はドン引きして遠巻きに眺めるかちょっかいを出して怒らせて愉しむかくらいの関わりしかしない。
さらには時折出てくる「騎士道物語ファン」とも呼べる人々だ。それは床屋や司祭もそのひとりであるが、彼らは易々と焚書を実行してしまう。彼らにとってフィクションとは片手間に楽しむものであり、現実から乖離したファンタジーに至っては読む価値はないとしてしまう。ここには作者セルバンテス自身のフィクションに対するアンビバレントな思い……愛と冷ややかな眼差しを感じる。
こうした狂気のひとを冷たくあしらうひとびとと、狂気に陥りながら純真な心でフィクションに耽溺するひととの対立を描き、セルバンテスは問いを示し続ける。このふたつの対立を見守る読者は、はたしてどちらの側の人間なのか?
物語を愛し、物語こそ真実だとする純粋な狂人なのか。
物語を虐げ、現実にいきる常人なのか。
ひとには本質的に嘘を好む習性があるように思われる。騎士道物語の内容を現実と重ね合わせたドン・キホーテの狂態は、この物語の中で常人にとってのフィクション、嘘である。しかし常人たちはこの嘘を楽しむ。わざわざドン・キホーテを怒らせて、その狂態を引き出そうとすらする。
おそらくはひとが言葉を覚え、他者とコミュニケーションを開始した原初から、ひとは嘘を好むのだ。嘘を話すことも、それを聴くことも。それは想像力の産物であり、さらに聴く者の想像力を刺激する。
すべての物語が、押しつけられた歴史の再構築であるとすれば、物語ることで自己を保とうとするひとにとって、嘘を語ることはエッセンシャルな行いであり、それに耳を傾けることはほの暗い悦びなのだ。
司祭と床屋がドン・キホーテの収集した物語の本を焚書にする場面は、嘘を愛する自分たちの正当化のためのもうひとつの語り――態度による語りにほかならない。「私たちはいつだって嘘を嘘だと見抜いているし、狂ってはいない。だからこうして本を燃やすこともできる」と、行いで示すのである。
だからこの物語は、ドン・キホーテの物語でありながら、実はそのそばで中立的な立位置で主人に仕えるサンチョ・パンサの物語なのであり、主人の帰郷ではなく、彼の帰郷によって物語は安んじて幕を閉じるのだ。