新山高原
大槌でお気に入りのスポットはどこかと聞かれたら、新山高原と答える。「にいやま」ではなく「しんざん」でもない。「しんやま」高原だ。なんかかわいい。標高約千メートルの山頂に広がる高原で、車で行けば市街地から三、四十分で辿り着く。「新大槌八景」の一つということで、大槌に赴任してすぐ登ってみた。広大な原野に風力発電の巨大な風車が何十基と林立している風景に心ひかれ、その後一年の間に五、六回は登っただろうか。
この新山高原では、毎年五月に自転車のヒルクライム大会が開かれている。全国から集まった猛者が、標高差八六四メートル、距離にして十三キロの登り坂を自転車でただただ登りまくるという。職場に回ってきた大会ボランティアの募集案内で知った。延々とそれも自転車で坂道を登りたいという参加者の気は知れないが、ボランティアスタッフになればまたあの高原に行ける。あの景観の中で働くのも悪くない。案内を見た夜さっそく大会事務局長なる人へ応募のメールを入れた。
すると次の日すぐ、事務局長の根本さんから返信があった。主に事前準備の説明で、当日の役割分担は決まり次第連絡するとの内容だったのだが、最後の一文にどきっとした。「もしよかったら本番前に一度一緒に登ってみませんか」。追伸みたいな書き方だったから無視してもよかったのかもしれない。わたしは自転車に乗りたくて応募したんじゃないとおもいつつ、これも大槌にいる間にしかできない経験だとおもって、ぜひお願いします、楽しみですなんて返信してしまった。自転車も持ってないのに。
試走(?)当日、根本さんが指定した場所へ車で向かった。初めて会う根本さんは、いかにも自転車を趣味としていそうな引きしまった体型の五十歳前後の男性だった。おもわず体脂肪率を聞いてしまったが、答えてくれたパーセントが普通なのか低いのか、そもそも相場を知らなかったわたしは中途半端なリアクションをしてしまった。格好もこだわりがあるのだろう。競技者が着るぴちっとしたウェアで、柄はかなり派手だ。わたしはというと上下そろいのジャージできてしまって恥ずかしい。根本さんは車から自転車を二台降ろした。素人目にも安くはないとわかる本格的なロードバイクだ。一台を貸してくれるという。わたしは犬の散歩にでも行くような格好で本気のロードバイクにまたがった。
何回休憩してもいいから自分のペースで走ってね、と根本さんはいってくれたが、そもそも自分のペースがわからない。初めは傾斜もなだらかである程度スピードが出せそうだが、それがどれだけつづくのか、今後のためにどれだけ体力を残しておくのがいいのか皆目見当がつかない。走りはじめて十五分ぐらいしたあたりだろうか、バイクの操作にも慣れ、息があがって止まってしまわない一定のスピードを自分の中でなんとなくつかんだ。車なら三十分で山頂だから、まああと一時間ぐらいで着くだろう。このスピードなら一時間は継続できそうだ。うしろを振り向くと、根本さんは少し距離をおいてついてきてくれている。もっと速く走りたいだろうに申し訳ない。
だが、さらに十五分ぐらい走ったあたりで脚がつらくなってきた。このまま行ったらとても山頂までもたない。うしろを振り返って根本さんにアイコンタクトし、バイクを降りた。根本さんがいうにはここから勾配がきつくなるらしい。ずいぶん親切にいろいろと教えてくれるが、ふと、この人はなんでロードバイク未経験どころか普段ろくに運動もしていないわたしをこんな苦行に誘ったのだろう、と今になっておもった。
五分ほど休息したのち苦行を再開したが、根本さんのいうとおり本当の苦行はここからだった。カーブが増え、勾配がきつくなってくる。また止まってしまいそうだが、そうちょくちょく止まっては根本さんに申し訳ない、というか根本さんに対して悔しいというひねくれた感情が生まれていた。なにかにかこつけて止まりたいとおもっていると、「一般廃棄物の最終処分場」と書かれた看板と門扉が現れた。なんですかこれ、とびっくりした風を装って止まってやった。門の先に道が続いているが、扉は閉ざされおり、「立入禁止」の札が貼ってある。根本さんに聞けば、この先に不燃物の埋立地があるという。燃えないごみがこんな山奥に埋め立てられているとは知らなかった。表向きごみ処理場ということにしているけど実は秘密兵器を開発する国の研究所があったりしないですか、とか無駄話をして休憩時間をのばした。
急勾配はおもったよりも長くはつづかなかった。鬱蒼としていた森の木々が少なくなると、こぐ脚を休められる平坦な道も現れはじめた。もう高原に入ったから山頂まではあと少しだと根本さんが励ましてくる。ここまできたら休憩せずに最後まで行きたい、と必死にこいだ。あの風車たちも視界に入ってきて、気持ちが高ぶってきた。ぱんぱんになった脚でなんとか山頂に辿り着き、うしろを振り向くと、当然ついてきてくれているはずの根本さんの姿が見えない。おもえば最後の十五分ぐらい、根本さんに声をかけられることがなかったし、自分もうしろを振り返らなかった。
根本さんが見あたらないかわりになにか小動物らしきものがこちらに近づいてくるのに気づいた。いや、そこまで小さくもない。中動物だ。というかキツネだ。これまで生きてきて野生のキツネになんて遭遇したことがないから、頭は軽くパニックである。軽快な四足歩行で近づいてくるこの生物は無防備なわたしを襲いはしないか。そもそもキツネってなんなんだ。犬の仲間か。ふさふさした尻尾を除けば形や動きはほぼそれに近い。犬には何度か襲われかけた経験があるが、犬の仲間であれば東京からやってきたばかりの無防備なこのわたしに襲いかかる可能性がある。
根本さんはまじでどこに行った。地元に長く暮らす根本さんならキツネの対処法など慣れたものだろう。颯爽と現れて追い払ってくれないかと探したが、やはりどこにもいない。やむを得ずじっと犬の仲間らしき生物が近づいてくるのを待つほかなかった。向こうは人間に慣れているらしい。一定の距離をおいて止まり、東京からやってきたばかりの無防備でびびっているわたしの周りを回りはじめた。餌を待っているのだ。餌になるものを持ち合わせておらずびびっているわたしはじっとし続けた。すると餌はもらえないと悟ったのかくるっとそのふさふさの尻尾をこちらに向け、軽快な四足歩行で草むらに入って行った。わたしは心の底からほっとした。と同時に、根本さんへの怒りが込みあげてきた。野生生物との対峙という予期せぬイベントに立ち会わなければいけなくなったのは、根本さんがこんなところまで自転車で連れてきたからだ。その張本人がいない。一緒に入山した連れ合いが行方不明なのだから、本来ならしかるべきところへ通報すべきだったのだろうが、わたしはそのまま一人で下山した。
下りながら頭は冷静になって行って、誰かに連絡しないとまずいと考えた。その前にボランティア募集のポスターを見れば根本さんの携帯番号でも書いてあるんじゃないかとおもい、市街地へ戻ってきたところでポスターを探す。とおりかかった公民館の前に運よくポスターが掲示されているのを見つけた。慌てて問い合わせ先のところを見ると、「大会事務局長・佐々木」とある。根本って誰だったんだ。犬の仲間か。犬の仲間であれば東京からやってきたばかりの無防備なこのわたしに襲いかかる可能性がある。