居心地の悪い美しさ、2020→1778 モーツァルトのイ短調
ピアノソナタ 第8番 イ短調 KV310
W.A.モーツァルト
中学時代だったか、このソナタに夢中になった。ただただかっこよかった。冒頭の打ち鳴らされる左手はとてもロックだし、その後突然現れる2組の和音の反復進行はとても切なく響く。短調は若者にはセンチメンタルに訴える。
そんな時期も通り過ぎると、ぼくはこのソナタとは距離を感じるようになった。彼の底抜けに明るく楽しい音楽を知ると、このソナタの重苦しさは少し窮屈になる。明るく振る舞うことの知的さも知るようになった。
しかし、この不条理な生活を続ける2020年の今、何気なく楽譜をめくる僕の前で、このソナタは突如また鳴り出した。本来の姿を剥き出しにするように。
彼の音はただの美しい音ではない。モーツァルトの言うことはそのまま受け取るな。彼の書いたオペラをみれば、彼が音の裏にどれだけの含みを持たせていたのかがわかる。
仕事先のパリで同行した母を失うという大きな悲劇も、彼はどこか分析的に見つめた。母の死の数時間後、彼は父親に宛てて「母の容態が非常によくない」という内容の手紙を書いている。それは母の死の悲しみを受け止めながら、次にはその事実を俯瞰で眺め、突然の不幸で家族に大きなダメージを与えぬようにとの配慮をした結果の行為だ。あの無邪気なモーツァルトには、そんな冷静な目も同時に備わっていた。ただものではない。
そして、このソナタ である。
ただ悲しみを描いた音楽ではない。ただ溺れている音楽ではない。
突きつけられた理不尽をじっとよく観察している。そうして、このグロテスクな音楽はできあがる。
第1楽章の16分音符は、ひたすら辻褄をあわせようとするかのように長く長く続く。後半の短調よりも、提示部の長調の方がよほど不気味だ。
第2楽章の美しさ。そこにはいつも歪んだ何かが付いてまわる。
第3楽章は終始駆けているのに、一体どこに辿りつくのだろう。
すべての楽章に、目には見えない何かに対する居心地の悪さが流れている。モーツァルトは、冷静沈着にそれを音で描いた。250年前、得体の知れない事物に直面した人間の様子をすでにリアルに描いていた。
音楽が実社会をなぞるのか、それともその逆か。
今ぼくはこの曲を弾く。