足の速い人はいつまで誉められるか、モテるのか?
季節は違うが時折、小学校の運動会を思いだす。僕はかけっこは常に最下位であったし、リレーは同じグループになるのを嫌がられた。組体操はいつも一番下だった。しかしながら、開会や閉会の挨拶は何故か僕にあたることが多く、昼の応援合戦でも目立っていた気がする。本来の目的とは程遠いところで自分としては活躍していたのだ。
時代は変わって、子供の運動会を迎えることになる。妻に似たのか、幸い息子達は遅足ではなさそうだ。そして、彼らは何より運動会を楽しみにしている。僕の様に「台風2回連続で中止」などを期待していない。また、最近は速く走れる靴といったものまで売っており、普段から多くの子供達が履いている。台風で延期になった平日でもたくさんのお父さんが来ている。会場では誰もビールを飲んだりタバコを吸ったりしていない。30年の年月を肌で感じながら、徒競走をみる。自分の子供が走る準備をする。何故か、僕が緊張する。走り出す。自分が呼吸をするのを忘れてはいないか、というくらいになる。ゴールでホッとすると同時に、もっとああすれば、こうすればと出てくる。家に帰って説明して、またこれから練習しよう、などと思う。同時に30年前に考えたことを思い出す。「これって、何か意味あるの?」
小学生、特に男の子は足が速いと人気者になる。中学生くらいから野球やバスケットボールなどクラブのエース級が人気者となり、高校くらいからは勉強ができるといった要素が評価項目に入ってくるようだ。そういう意味では、僕の様に生来遅足で、高校から全く勉強ができませんでした、といった人間は残念ながら人気者になる時期がない。 前述の運動会はその最たるもので、小学校人気者決定戦といっても過言ではない。保護者までもが熱くなっている。「足が速い」、彼らやその親にとって何よりの武器である。しかしながら、「足の速さ」で飯が食える人はまずいないだろうし、大人になって昔の徒競走の記録を自慢しても誰も耳を貸さない。それでは意味がないな、としてしまうと、今度は学校のほとんど全てのクラブ活動に意味がなくなってしまう。自分が遅足であったことすら記憶から消していたこの命題について、30年ぶりに考える機会を得た。
ここには2つの問題点がある。
1つ目は大人側の問題。小学生、特に低学年には「足の速さ」を全面的に評価する。彼らに、「足が速くても何の飯の種にもなりませんよ」という大人は皆無である。また、勉強で差をつけてはいけないといった神話が存在しており、テストに点数をつけないことも多い。ところが、中学生になると、「足が速いのは1つの特技ですが、テストの点数は全員にとって将来必要です」と、突然変わる。さらに高校生になると「足が速い?クラブで頑張ればいいけど、アスリートにでもなるの?」などとなってくる。大学では「足の速さ」は 話題にもならないし、自慢すると「脳みそ筋肉」と呼ばれる。これを教育界の理不尽と考えた人は意外に少ないのではないだろうか?
2つ目は子供側の問題。前述の様な評価項目の変化に対応ができない場合がある。中学生で非行が増えるが、原因の多くはこの変化に順応する程、子供が発達していないがためではなかろうか、と思っている。大人になっても共通一次、センター試験の点数を自己紹介に交える人がいるが、その類いの方を「非行大人」と僕は呼んでいる。足も速くて、勉強もできて、人格も優れている、といった人を僕も何人か知っているが、そんな人でさえ、当然すべての項目で常時最大限評価されてきたわけではない。どこかの時期では評価項目の変化に違和感を感じただろうし、そんな三刀流以外の人も適宜順応して生きている。
運動会に話を戻す。子供に伝えるべき内容として以下の様に考える。現時点、少なくともこの場において、最大評価項目は「足の速さ」である。疑わずに邁進しなさい。しかし、それは永続的ではない。評価項目は徐々に変わってくる。その変化への順応性が成長とともに必要であるが、現時点の評価項目に邁進できない人間は対象が変わっても何もできないし、やろうともしない。できる人間はいつの時期でも目の前の課題に対して最大限の力を発揮します。
僕の中で考えはまとまっている。問題は7歳の子供にどう伝えるか。結局、今のところは「徒競走頑張れ」とするしかなさそうだ。