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不安、でも、大丈夫。
最近、また不安になることが多くなってきた。不安の内容は様々だけど、特に病気のこと、過去の罪、将来への不安がぐるぐると頭をかけ巡る。不安は気持ちが悪い、臓器を何かが撫で回してくるように感じる。こうなるかもしれない、過去にこうだった、どうしよう、何かしなければ、でも、だって、無意味な文字の列が延々と脳から出力され続ける。
過去の事を思い出すから、未来のことを想像するから不安に陥っている気がする。恐怖の状態を今に持ってきてしまうから恐怖する。今ここを意識すると何も恐怖することはない。今ここに事実として恐怖がないことが自明にわかるから。今ここを意識する方法として、瞑想とか呼吸法とか色々ある。これらは実際に有効だと感じている。他にも、ストレッチしたり歩いたりするのも個人的には気に入っている。とにかく身体に目を向けると、恐怖がないことを確認できる。不安が消える。
SNSをしていると、過去現在未来全て見えた気になってしまう。過去の投稿がずっと流れてくるし、未来の自分かのような人生が溢れている。そういう意味でSNSは不安を増幅させている気がする。Twitter、今すぐやめたほうがいい(やめられないから困っている)。
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最近は、無根拠に「大丈夫」と唱えることが大事だと思っている。「大丈夫」と唱えるだけで少し肩の荷が降りる。将来への不安が出てきた時には「大丈夫」と唱えると、確かに大丈夫な気がしてくる。唱えるというのがポイントで、実際に大丈夫である必要はない。大丈夫かどうかを考えなくていい。唱えている内に大丈夫に思えてきて、実際に大丈夫になる。
さくらちゃんの無敵の呪文は「なんとかなるよ、絶対だいじょうぶだよ」だった。僕にとっても無敵の呪文だ。
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さくらちゃんが「なんとかなるよ、絶対だいじょうぶだよ」と唱えてくれるから、僕も大丈夫な気がする。大丈夫な気がするから、僕も僕自身へ「絶対大丈夫だよ」と唱えることができる。「絶対大丈夫だよ」と唱えることによって、大丈夫だと思え、自信を持って一歩踏み出す勇気が湧く。そして一歩先が大丈夫であることを確かめられる。
『天気の子』のメッセージも「大丈夫」だったと思う。
『天気の子』の終盤では、世界を変えてしまった主人公の帆高に対して大人たちは”世界は元から狂っていた”と言葉をかける。ラストシーンでは陽菜が問う「大丈夫?」対して帆高が言う、「僕たちは、大丈夫だ」。そしてRADWIMPSの「大丈夫」が流れる。最高のラストだと思う。この記事で書きたいこと、全て『天気の子』とRADWIMPSの『大丈夫』が語ってくれていると思う。『天気の子』は良い映画だ。
つまり、僕たちは世界を変えることはできない。過去も未来も現在も、世界の全ても、ぼくときみも、僕たちは変えられない。僕たちは世界に対してちっぽけな存在で、無力な存在だ。そもそもきみと出会ったのはただの偶然だし、きみを迎えに行けたのもたまたま銃がそこにあったからだ。きみの大丈夫だけが必然的にあった。きみが大丈夫と言うから、ぼくも大丈夫だった。大丈夫だから階段を踏み抜いてきみを迎えに行けた。僕たちは無力だけど、無力だから大丈夫と言える。無力だから世界を敵に回してでもきみを迎えに行っていいし、今の世界は僕たちのせいではない。僕たちは、大丈夫だ。
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安直に言うと、「なるようになる」。世界は僕達には制御できない複雑な系である。今を感じることしかできなくて、変わっていく世界に身を委ねて生きていくしかない。だからと言って世界に絶望して受け身になる必要はない。むしろだからこそ、大丈夫と唱えて一歩踏み出すことができる。将来への不安も過去の不安も今考える必要はない、それらは全て虚構で今が全てだし、大丈夫だから大丈夫になる。制御できずただ虚構に存在する世界に不安を感じる必要はない。今を感じながら、大丈夫と唱えて、少しずつ今を歩んでいく。絶対に大丈夫だから。