#178 続々・評価するということ

 先月書いたことについてちょっと思うことが残っていたので、今月はもう少し(とか言いつつ5,000字超えてしまいましたが)書いてみようかと。最近の話題込みで考えをまとめてみます。


 いきなり地雷を踏んづける形ですが、ドラマ版『その着せ替え人形ビスク・ドールは恋をする』がちょっと話題になりましたね。どういう言われ方してるか、具体例は各自見てもらうとして。

 しっかしまぁ、ネットニュースの見出しと同じで、キリトリやキャプチャだけでは真意は分からない。皆大好きコラ画像の中にも「原作読んだら全然笑えないシーンだった」ってあるでしょう? 放送されているのはまだ3話だけだし、こちとら確認できる媒体と少しの時間ぐらいはあるので観てみることにしました。
 今からでもTVerとU-NEXTでバッチリ追えるぜ。いやぁすごい、TVerではお気に入り登録数が27万なのに対してU-NEXTの評価は★2.5! 評価数には当然差が出るといっても、大体甘くなる傾向なのにな。あ、ちなみにアニメはリアルタイムで視聴済みです。原作の方は最新話までは追ってないけど文化祭あたりは読んだ記憶がある。そこまででも十分かな。

 とりまトレンド入りした2話まで。

  このごじょー君大成しなさそっすね。


 ドラマ枠、全部で8話ぐらいしかないんですね。でもって1話あたりの尺はアニメと大差ない24分であると。んじゃあ、そりゃあそうだよ。ある程度物語を進めるには色んなシーンが飛ばされたり改変もするよ。どんなに頑張ってみてもそのまんまは無理だよ。
 皆がやいのやいの言ってるキリトリのシーンも前後の流れ含めて確認しましたが、そこは一旦置いといて。

 ドラマ版のごじょー君はより気弱で、殻に閉じこもった性格です。雛人形に対する自分の「好き」がのんちゃん単独だけでなく、クソガキども(複数)に拒絶されている。一層トラウマになってしまって自分の好きを公言することができなくなってしまっている。
 「気持ち悪い」と突き放すどころかコスプレの衣装造りを頼んできた海夢にも、それは同じ。自分の気持ちを茶化されたり、濁したりすることを嫌う海夢を見てもなお、「気持ち悪」がられることへの恐怖心を捨てきれない。

 だから本当は好きで堪らないはずの「雛人形」を「しかたなく」で一度は濁してしまった。それでも友達と認めてくれる海夢に救われた心地になったごじょー君が、嘘ではなく本当のことを打ち明けた。というのが2話までの流れ。
 解呪するまでの展開はベタではあるけど、その分丁寧だなと印象です。原作やアニメだと割とあっさりしていますしね。「ごじょー君はそんなこと言わない」という意見も出てくるでしょうが「このごじょー君はそういうこと言う」、です。自分の好きに絶対の自信を持てなかったから、ついその場しのぎの言葉で取り繕ってしまう。そうしたくなる気持ち、たとえ共感できなくとも理解はできるのでは。


 ただ。
 それがごじょー君じゃなかったら、と残念がる人の気持ちも理解できます。「大成しなさそうだ」とはじめに書いたのも本心です。
 確かに解呪までの過程は原作以上に丁寧です。でもそのぐらいかな。ごじょー君もそうなんだけど、海夢も「好き」に対する情熱がナーフされてる分、別の不自然さが目立っちゃうな…と感じてしまいます。丁寧さを持たせたことが逆にギャップを広げてしまっている逆効果。

 問題の採寸のシーン。性奴隷雫たんになりたいがあまりに、海夢はごじょー君家に押しかけてきたんですよね。でも着けてきたのはふわふわと装飾の付いた肌色成分抑えめの水着。それだと誤差が出てちゃんと採寸できなくね、って別にコスプレやら仕立てに詳しくなくても気にならんか?
 原作でもバストポイント間は海夢が測ったけれど、ドラマ版では無難なところ以外は全部海夢に任せている。男の子にとって異性が突然自分家にやってくるだけでも大事件といえばそれはそう、でもこれだけならいっそ水着になるところもすっ飛ばして、採寸表を手渡してもらった方が良かったんじゃないでしょうか。不確実な部分が多少は減るだろうし。
 まぁ、それはそれで残念がる人も出てくるし、多分私もそのひとりにはなると思う。ただこのシーンだけで「原作オタクは『着せ恋』のエロしか見ていない」と括るのも違うと思うんだよな。高尚でなくてもいいけど、矮小化する必要もない。それはそれ、これはこれ。

 一方、そんな具合で一歩踏み出せなかったけれど、『ヌル女』をやりこんで三面図を描くごじょー君。出来上がったものには原作さながらの本気が見えるのですが、この時の彼が「好きに絶対の自信を持てないままでいる」状態であることがノイズで。
 「好き」という自分のアイデンティティを一番気にしている人なのに、信頼しきれていない人の「好き」に対してはあまり抵抗感がないんだ。「気持ち悪い」って思われたくないのに、そこは「気持ち悪い」って思われるとは思わないんだなって。ごじょー君に対する信頼すらグラついてる。

 つまりは。解呪以外の説得力に欠けるんです。前提や過程を原作よりも抑えているわりに、結果は原作準拠に落とし込もうとしているせいで、後先を考えない、危うさが見え隠れしているような「一足飛びの情熱」が文字通り一足飛びになって揺らいでしまっている。すげーなこの二人、この二人ならそれだけのことになるよね、という感想にならない。肉巻きおにぎり食べただけで「めっちゃ食べる」とも思いません。


 で、「一足飛びの情熱」の結晶が性奴隷雫たんの衣装なんです。原作では序盤を代表する一つの大きな試練です。2話までに顕れている「均され感」を維持しつつ衣装を作り上げるとして、どう処理するつもりなんだろう。糸に食らいつくだけの気概がドラマのごじょー君にはあるのかと、3話を観ました。

 うん。結構地に足を付けた情熱の結晶でした
 中間テストと製作期間がダブったのは共通。だけどじいちゃんが入院しなくなって負担は軽くなっている(全部ごじょー君がやらなくてもいい環境になってる)。…のに工房見学の電話が掛かってきてごじょー君が対応するところは原作と同じで、でも引き受けずに被りを回避するところは違っていて、更に追い込まれるわけでもないのにこの下りいる? となって、前提や過程を原作よりも抑えているわりに、結果を原作準拠に落とし込もうとしている…ってもう書いたよこれ。

 悪いわけじゃないけど、これ以上は期待できない。
 ならもうここまででいっか。そうなっちゃった。

 原作やアニメ版では表現できる「ハッタリ」も、実写ドラマに落とし込もうとするには諸事情で無理が出てきてしまうところはある。媒体が異なれば、異なるなりのやり方がある。やっぱ原作がいい~! という好みはあっても、メディアミックスで期待されているものって「違う良さ」の提示なのではないか、と。

 騒がれているほど酷い作品ではないと思いましたよ。原作から外れすぎているわけでも、ストーリーが破綻しているわけでもない。
 でも視聴し続けていくだけの良さも特にない。話数や尺や比較対象といった制約を跳ね除ける…ことはなく、その制約の中で削ったり、均されたりはされても、盛られそうにはない。
 「実写だから」落ち着いた感じにしようという意図はあっても、「実写だから」このシーンはもっと鬼気迫るものにしよう、もっとこだわろうなんて別のところで帳尻合わせがなされる気配は感じられない。そろそろ後半に差し掛かるであろう4話以降で、それがいきなり実現するとも思えない。

 となると、もう、全くもって自分はターゲットじゃない、という結論に至る。何も原作ファンに支持されるだけが実写版のすべてではない。それはアニメ化も、他の媒体にしたって同様です。ドラマCDとかは原作ないしはアニメファンの期待に応えないとダメでしょうけど。
 TVerのお気に入り登録者が27万人いる、ってことはちゃんと支持されているんですよ。「違う良さ」を感じられた人もいるのでしょう。SNSのいいねが必ずしもいいねじゃないように、「お前のこと目ぇつけてんぞ」っていう威嚇の意を込めてボタンを押した人が紛れ込んでるかもしれないが、それは決して多数派ではないはず。
 私はその27万人には含まれていない、っていうだけの話


 前置きが長くなりましたが、本作。
 特に否定的な立場からは「原作愛」や「リスペクト」なんて言葉を使ってドラマ版を酷評しているものが結構見受けられます。うぅむ。それって微妙じゃないですかね。無視していい指標ということではないけれど、かといってこちらから明確に量れるものでもないじゃない? という意味で。
 原作に準拠している部分が多ければ多いほど、原作愛があるというものなのでしょうか。それともリスペクトの精神があれば原作改変なんてしないはずだ、ということなのでしょうか。

 でも、原作とは違っていても好きな作品、色々あります。
 例ですか。『アイアムアヒーロー』の映画ってどうでしたか。大泉洋が有村架純と長澤まさみに背中押されて頑張るやつ。原作とは随分と違う話が展開されていますが、私は好きでして。今でもたまに観ます。ダメダメだった英雄が、カッコいいところを魅せる最後の20分間。事態がさっぱり解決されていなくても、全然気にならない後味の良さです。

 原作を後々読んでみて全然違うやんけ! ってなるドラマだと『喰いタン』があったじゃないですか。もう17年以上前の作品なんだなぁ…。登場人物の構成も違えば性別も一部違う。そもそも物語も設定もぜーんぜん違う。
 それでも『2』が作られるぐらいには支持されていたわけで。『愛しのナポリタン』好きですよ。楽しく観ていた記憶があります。ま、原作ファンにとってはどうだったんだろう。原作でもわざわざ「言わせてた」ぐらいだから、それなりに肯定されていればいいんだけど。

 あとは~…何も実写化だけではないですね。『カリオストロの城』なんて一般的な原作愛やらリスペクトやらの指標で量っちゃダメなタイプの作品でしょう。原作とも異なれば当時放送されていた『TV第2シリーズ』とも異なる雰囲気なんですから。SFブームの真っ只中、前年の『ルパンVS複製人間』より興行収入こそ下がりましたが、その時の売上以上に大きい、今なお続く支持も、遺産も。今更この場所で解説するまでもありません。

 とはいえ、これらはかなりガラリと変えてきているので、この場で挙げるにはいささか極端かもしれません。ただ、リスペクトがないから面白くないわけでも原作愛があれば面白いんでもないんじゃない? その逆も然り…ってのは、時々目にするもの。
 低予算だけど面白い原作付きアニメの、"低予算"の部分にリスペクトはあるのか。ストーリーがアレでも1話1話がハイクオリティな原作付きアニメの"ハイクオリティ"に原作愛は見出さなくてもいいのか。
 めちゃくちゃ原作を読みこんでいて関連作品もバッチシ追っています、という人が書いた「喜多川海夢のNTR創作」は原作愛にもリスペクトにも欠けるのか。事前知識の有無が伏せられていたら評価は変わるのか。あ、パロディAVの話はしませんよ。アレはもう別問題なんで。

 また極端な方に走っちゃった。そこまで行かなくても例えば「解釈違い」はファンの創作や、公式であってもノベライズ・コミカライズ作品で見られることです。それこそ「そんなこと言わない」とかね。
 口調が違う、一人称や呼び方が違うだけでも槍玉に挙げられることがあります。それらまとめて「原作の読み込みが足りてない」と批難されることもある。本当か? 本当にそうか? 「別物だけどこれはこれでいい」と「別物だから全然ダメ」との違いに、原作愛やリスペクトを持ち出せるのか。
 肯定できるものには感じられて、否定されるものには感じられないのか。だいたい原作を知らない人に対しても原作愛を語ってピンと来させることができるのか???

 『着せ恋』にも、台詞ひとつ取って「原作と異なっているから○○(好きな言葉を入れよう)」と沸き立つ人がいる。決してストーリーの本筋への影響は全くない(ちょっとしたギャグや小ネタの一種である)としても。
 自分は全く気にならないという強がりではないですよ。逆にその状況で原作と同じ台詞吐かせる?」というのはありました。肉巻きおにぎりとかね。お礼のために奢るっていうシーンを圧縮したのにその下りを残してしまったがための違和感。あと3話の「奇麗」の下りも気になった。打ち解けた後もあんな風に喧嘩腰になるだろうかと。


 ごちゃごちゃ述べたけど、結局さ。何事にも「手段を目的化するべきではない」と言われるように、肝心なのはその結果どうなったか、受け入れられるか受け入れられるものではないか、っていう違いだと思うんです。
 面白い面白くない、楽しい楽しくないって感想に、何故そこで客観性のない愛の有無を付け足そうとするのか。そう考えていくと不思議です。基準としてはかなり曖昧模糊、モコモコの概念なのに、どうしてここまで幅を利かせているんだろう。耳当たりが好いから? それともダメだった例にあまりにもぶち当たりすぎたのでその反動で??

 まぁそういったものも呼び水になることがあるし(実際私も今回そのクチだしね)、頭ごなしに否定するものでもないけれど、やっぱり来て見て触れて確かめないとね。意外と喰えるモンだったら丸儲けじゃんね?

 と、言った手前ですが。「よもやま」の方で久々に更新しようと書いていた最中、『龍が如く』のこれまた実写版『Beyond The Game』で「桐生はそんなこと言わない」の大合唱が目に飛び込んできて。

 でも桐生の発言って、結構その場で矛盾が混じっていたり敵役から反論されること込みなんで難しいんだよな…10/25、明日から配信です。真意の程は観て確かめましょう。任せた。