Review-#037 『ゾンビランドサガ リベンジ』で感じた"真摯さ"と"しがらみ"の狭間
「呪」は"ノロイ"か、それとも"マジナイ"か
守るべきものは、アーティストにとって悩ましい存在であるように思える。時が経つにつれて時代そのものが変化していくし、自身あるいは周囲の様子も移り変わっていく。
それらが扱えるうちは心の支えにもなろうが、次第に肥大化していって抱えきれなくなると、思うように活動が行えなくなる、「しがらみ」として機能してしまう。かと言って捨てきることも難しい、こうした事態に直面したアーティストは時として活動休止、または解散という手段を取るわけだ。自分の好きだったアーティストの幾つかも、そのような経過を辿っていた。
2年半越しの続篇である『ゾンビランドサガ リベンジ』を観て、まず思ったのは「真面目に作ったんだな」ということ。その上で、これまでのことを鑑みて然もありなんと言える、「しがらみ」が見え隠れしていたと感じる。
ただ、それは危機感というよりは、むしろそれらを認識して今後どのように活動していくのだろうかという期待であるし、注目する理由でもある。なぜって、「フランシュシュの戦いは、これからじゃろがい」だから。
そんな感じで、放送終了から数週間過ぎた今、これまで通りに思ったことを書き殴っていこうと思う。
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作品情報
ゾンビランドサガ リベンジ (2021年4月-6月)
アニメーション制作:MAPPA
監督:境宗久
シリーズ構成:村越繁
<☟謎の外伝、只今連載中…!?>
ゾンビランドサガ外伝 ザ・ファースト・ゾンビィ (ウルトラジャンプ連載・2021年5月19日~)
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所感とか
「内省的である」ことが示す意味
前書きの方で「真面目」だと書いたが、実際真面目である。続篇として、『ゾンビランドサガ』として、フランシュシュとして、佐賀県のPRとして、本作に求められているものとは一体何か。
私自身も、『リベンジ』の制作が発表された当時、いくつかの予想(という名の期待)を立てていた。「ゆうぎり姐さんの過去について、いくつか触れてくれるんだよね」ということ。「アイアンフリルや純子ちゃんの生前のヒットナンバーが聴けたりするのかな」ということ。何より全体を通して、既存のキャラクターの掘り下げを行ってほしい、酸いも甘いも噛み分けるストーリーとなってほしい、ということ。
よもや制作スタッフに拙筆を読んでいただけたとは思ってもいないのだが、今振り返ってみれば「ここもやってくれたのか」と感銘を受けずにはいられない。ゆうぎり姐さんについては、彼女の壮絶な生きざまを前後篇に分けて描写してくれた。わざわざ当時の世情を加味した上で。
アイアンフリルの新曲も(旧アイアンフリルこそ無かったものの)ちゃんと用意されていたし、純子のナンバーも聴くことができた。低音を活かした純子センター曲でエレキギターをかき鳴らした際は、「おおっ!」となったものだ(尤も、それ以上にたえの巧みなるドラム捌きの方に目が移っていたかも分からないが…)。
求められているものに向き合い、そこに応えようとした姿勢は、少なくとも「人気にかまけておざなりに作ったわけではない」ことを理解するのに十分であった。
ただ、それらは同時に「しがらみ」となってしまっている、ということも同時に知らしめていたと思う。前作で期待されていた『ゾンサガ』"らしさ"と向き合うばかり、どうしても「守りの姿勢」に入っていると感じたのだ。
『ゾンサガ』には「問題児」と「優等生」の二面性を持っている。「問題児」としての要素は、まずその響きも然ることながら、そこから発生するアクシデントや思わぬ仕掛けを指す。「まさかこんな作品だったとは」という意外性を齎している、ということである。
それでありながら、「一人の少女の挫折と成長」であったり、「時代や価値観の相違から生じる対立と和解」といった、王道的なストーリーを展開する「優等生」としての性質も有している。一歩踏み間違えればただ変なことをしているだけ、あるいは陳腐なものに成り下がってしまうという、綱渡りのような厳しさの中で、『ゾンサガ』はその二面性(勿論、実際にはキャラクターや楽曲等も含まれている)を以てうまくバランスを保っていたように見える。
失礼を承知の上で言えば、当初はあまり期待されていなかった作品だった(事実、私自身は第一話が放送されるまで全くのノーマークであったし、公式ツイッターのフォロー数も多くはなかった)からこそ、そうした冒険も可能であったのだと言えるかもしれない。
だが最終的には、制作陣の予想をも超える注目が集まった。もともと2クールを予定していた本作で続篇の制作が決定したことは、誰にとっても青天の霹靂となったに違いない。しかしながら、そのことが『ゾンサガ』は守るべき"大きな"ものを途端に、それも一気に抱え込むことになった原因ではなかろうか。
同じく、以前の記事で書いた
続篇だから、「この子らは一度死んで甦ったゾンビィで、今はアイドルやっているんだ」という前提がある。同じ飛び道具(第一話でいきなり軽トラに撥ねられる展開や、ゾンビものかと思ったらアイドル活動が始まって、でも普通のアイドルじゃない…という展開)を使い回すわけにはいかないだろう。
ということ。制作陣はただのいちファンなんかより、よっぽどそのことを認識していただろう。実際、生特番で第七話(マイマイ回)の展開について、シリーズ構成の村越氏が「ホントは第一話でやろうとしたけれど、それだとお話の意味合いが変わってしまうので止めた」と明言している。
結局マイマイはフランシュシュの生き様や覚悟を理解した上で、あくまでも応援する立場に留まることを決意したわけだが、放映当時、もっと言えば生特番でその辺りの事情を聴いた際ははすごくホッとしたのを覚えている。「新メンバーの追加」は続篇モノとしては無難な展開ではあるが、それがゾンビィによって構成されている「フランシュシュ」においては、新たな死者を生み出さないことには成立し難いことを意味する。
佐賀を救うためにフランシュシュの7人を「選び抜いた」のだから、「これ以上ゾンビィをポコポコ増やしてどうすんじゃい」
とも書いたのだ、多分その展開をマジでやられたら凄く複雑な気分で眺めることになっただろうと想像がつく。
そう、「問題児」であるが為に本作は制約が掛けられている。(納得性を持たせることを含めれば)他のアニメであれば容易くできるということを言いたいわけではないが『ゾンサガ』はそれすらも踏み切ることに、多分他の作品より慎重を期する。本流から外してはいるが、真の自由を得ているわけではない。
続篇における『ゾンサガ』"らしさ"とは一体何か。『リベンジ』には、そんな制作陣の苦慮の跡が残されていたように思う。
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第三話、佐賀アリーナのこけら落とし公演にてアイアンフリルに対抗せんと、フランシュシュ3号こと水野愛抜きにしてパフォーマンスを成功させようとしていた一同。その中で、自身らの存在感を示すために純子は"えyf「hs"…もとい、「インパクト」を探っていた。流石に今調べるとニコニコ大百科の記事がトップに挙がるが、インパクトレンチのページも表示される。まさに純子にピッタリのアイテム。
多分制作陣、ひょっとすれば視聴者の視点としても、同じことを考えていた人は少なくないと思う。衝撃的な展開から現在に至る『ゾンサガ』で、再び「インパクト」を残すにはどうすれば良いか。ポロリからの勢いに任せたスラップスティックか、はたまたストレートな魂の叫びか?
続く第四話、『激昂サバイブ』と銘打たれた純子センター曲でその答えが明かされる。生前の演奏テクニック(?)を活かしたハードロック、その後に続けて演じられた『目覚めRETURNER (Electric Returner Type “R”)』が解き放つメッセージは、『ゾンサガ』にとっての「インパクト」の在り方を示すものであった。
同時に、「同じ飛び道具」を使ったのは何故かと、放映当時は考えていた。『目覚めRETURNER』の部分は壱期の第七話と展開が似ていると、言うまでもなく気付けるだろう。勿論、壱期では天からのアクシデントだったものが、『リベンジ』では自ら積極的にそのアクシデントを発生させていたり、演出のコントロールもパワーアップしていたりと、フランシュシュの成長(?)が窺える。
あと前々から気になっていた間奏部分の面白かわいい、たえのパフォーマンス。そこが明らかになったので個人的にはヨシとしたい。後はライブでの再現だな! 三石さんが首を縦に振る必要があるけど。
良く言えば踏襲であるし、悪く言えば焼き直し。そのようなシーンは第四話に限らず、各エピソードのあちこちで見受けられる。ゾンビィとしてのギミック、「首や四肢が外れる、無茶しても死なない」という肉体的要素と「"死"と"不死"、"永続"そして"停滞"、"挫折"そして"再起"」といった隠喩的要素とのどちらにおいても、壱期における認識の域を超えるものではない。
だとすれば、本作の立ち位置は「再確認」であると考える。
ゾンビィとは? フランシュシュとは? そして佐賀である意味とは?
新たな出会いと旧き存在との再会、そして彼女らの前に立ちはだかる大きな壁。プロットの中身が異なれど、『リベンジ』の「壱期の延長線(戦)」的な作劇は、それらを通じて制作陣に『ゾンサガ』の"らしさ"たるやを探求させ、視聴者側にしてもその点に幾分か考えさせる機会を与える役割を持っていたのだと、今となっては思うことである。
本作でどこか感じてしまったノリ切れなさも「再確認」で説明が付く。すなわち「内省的」であるからだ。内省する時って、そんなノリノリで、勢い任せでするものではないじゃない?
『ゾンサガ』はアニメ作品単体で完結するコンテンツではないため、「これから」のことも見据えなくてはならない。シナリオあるいはプロットが何時頃フィックスされたかは分からないが、そこにコロナ禍で悩まされる羽目になった、昨年の出来事も含まれているのだとすれば猶更である。
一方で、勢いもまた『ゾンサガ』の重要なファクターであったことを「再確認」させられる作品であったとも思う。本作の肉体的なゾンビィ要素は控えめになっており、シュールな画が生まれたりすることはあれど、少なくとも首が捥げた勢いでラップバトルを開始したり、身を挺して泥を被ったりする展開は無い。
「問題児」の要素の減少は評価点として挙げるには厳しいものがある。壱期では前半で一発ギャグに留まらない、ゾンビィ達の体を張ったコメディを展開した後に、ゾンビィとなって甦った「意味」にクローズアップしたドラマを展開したことで物語に深みを齎したわけだが、『リベンジ』ではその後半部分が主だ。
アイドルの姿勢とは何か。一度死を経験し、再び現世に降り立った少女が持つべき覚悟は何か。抗えぬ"呪い"に直面する、佐賀という土地にて為すべき、または為せることは何か。
各エピソードで描かれるテーマは「内省的」でありながら、苦難を乗り越えたフランシュシュの成長や魅力を描きつつ、また佐賀を舞台にした作品としての本領をも忘れていない。唯一無二のゾンビィアイドルであると同時に佐賀のローカルアイドルでもある彼女たちの、『リベンジ』におけるアイドル活動の描写には「真摯さ」が見て取れる。
それだけに「物足りない」だとか「もっとはっちゃけてくれたっていい」という、「問題児」としての『ゾンサガ』を所望する意見が出るのも自然なことである。まるで佐賀がインド・ニューデリーの車で4時間の距離に飛ばされたかのような、よそよそしさすらも否定できない。
ただ、卒がない代わりに驚かされることも少ない「予定調和」の展開にどこまで異議を唱えられるかは、諸刃の剣と成り得るため難しいところだ。
どのような展開に満足感を得るかどうかは、『ゾンサガ』の何を求めているかに依る。
安易にメンバーを増やせないし、ユニットの一新も受け入れ難い。佐賀だから『ゾンサガ』だし、死者は生者と同じ歩調では進めない。ゾンビィパフォーマンスだって、知名度を上げた現在のフランシュシュでどこまでがセーフゾーン足りうるだろうか。大っぴらにゾンビィバレしてしまえば、後は終わりへと向かっていくしかない…。
「これまでの型に囚われないことが、ひとつの型として機能してしまう」ジレンマと真面目に向き合い、一旦の帰着点を模索し続けたが故に、敢えて話を「膨らませない」方向を選んだのだろう。これまでに出した沢山の問い掛けは、そのどれもがセンシティブである。『ゾンサガ』は「自由奔放」に何でもできるフェーズを、既に通過しているのだ。
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第十一話のサブタイトル「君がいるだけでSAGA」。元ネタは勿論、米米CLUBにおける最大のヒットを記録したかの曲のこと。他方で、バンドに大きな「しがらみ」を生んだ問題作でもあると思う。
ドラマ主題歌ともなった『君がいるだけで』は、ダブルミリオンを記録すると同時に、新たなファンの開拓にも繋がった。普通は歓迎したい所であるが、その後の米米の顛末を鑑みるに手放しでは喜べない、そうした事情を齎す要因でもあった。
一応誤解なきよう言っておくと、『君がいるだけで』自体は好き。ただ数値のインパクトがバンドの路線転換を余儀なくされ、1997年の解散の遠因になったと思うと「フクザツだなぁ」という気持ちが込み上げてくるだけだ。
「規模が全然違うのに一緒くたにすんな!」という批判も覚悟の上で述べるとすれば、「君がいるだけでSAGA」の字面を見た時に『ゾンサガ』の現在置かれている状況は、かつての米米CLUBの軌跡とダブる箇所があるのかも、という思いを抱いた。
フランシュシュの活動は今後も続いていって欲しいと願って止まないが、副次的に付いてくる「問い掛け」とも「しがらみ」とも言える「守るべきもの」に対しどう折り合いをつけていくかについて、これからも向き合っていく必要があるだろう。
第十二話、EFSライブのリベンジを果たした後のCパートにて。再び、いや三度、天から佐賀へと襲い掛かる黒い影。流石に今回は、ここまであけすけにやられたら期待せざるを得ないだろう。
未知との遭遇は、新たな物語と衝撃を創る起爆剤と化すだろうか。全国制覇どころか宇宙をも制するつもりなのか、それとも単純に銀幕デビューを示唆しているのか、はたまたそのどちらでもない別の転機が訪れるのか。
佐賀に幸あれ。
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総括
抗えない性に立ち向かった1年
「結局お前は『リベンジ』をどう評価しとるんじゃい」と訊かれると、色々とまぁせめぎ合っている部分がある。
良かったところはいっぱいある。何よりもまずフランシュシュとしての成長が観れたし、所感ではあまり触れていなかったが、新しいゾンビィソングも(キャッチーさで言えば壱期の方に譲るかも分からないが)フランシュシュの新たな一面を描いているだろう。画と画がシームレスに繋がるOPや懐かしさのあるEDも、壱期と異なる色付けが為されていて良かった。
ライブパフォーマンスの演出も向上が見られ、その集大成が第十二話のライブエイドを彷彿とさせる長尺のライブシーンである。『輝いて』(勿論カレーメシの方ではない)が流れた時は「『佐賀事変』だけでなく、こっちもちゃんと披露してくれるんだな!」と嬉しかった。『ゾンサガ』の持つ、音楽劇の要素としてグッとくるポイントが多かったように思う。
一方で、本作において「しがらみ」の影響を最も受けたであろう、「問題児」としてのゾンビィ要素の減少はどうしても気になってしまう部分でもある。「優等生」の面ばかりがフィーチャーされてしまうと、「それではもうゾンビィじゃなくて、ただの生身の佐賀のロコドルでも成立しちゃわない?」と感じてしまうのもまた事実なのである。
そういうわけで『リベンジ』が示したものは、今この時が『ゾンサガ』にとっての分水嶺であるということである。「やってくれたね!」と「こんなんじゃない、まだまだ膨らませられるはず!」との、ふたつの感情が綯い交ぜになっているのだ。
壱期から伸びた点、新たに伸ばした点と共に、この先もずっと意識せずにはいられない点が強調されていた本作を受けて、劇中はもとより、コンテンツそのものが今後どのように続いていくのか注目していきたい。
まずは、昨年中止となってしまった幕張メッセでのリベンジライブ。そこで何か『ゾンサガ』についての発表もあるだろうか? 新曲が追加されたことで、今度は一体どのようなパフォーマンスを魅せてくれるのかにも期待が高まるところである。
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この1年半ほど──現在進行形ではあるが──誰もが残酷な現実を、まざまざと見せつけられることになった。2020年は『ゾンビランドサガ』というコンテンツにとって、『リベンジ』への弾みを付ける飛躍の1年になるはずだった。
世界を覆った忌々しきウイルスが、全てに水を差した。結局今期でもどのようにしてゾンビィと化すのか、そのプロセスがハッキリと明かされることは無かったのだが、やはり細菌系とはウマが合わなかったのか、予定されていたライブも舞台も公演延期が決定された。「持っとらんなぁ」と冗談めいた口調で言いたいところだが、当時はそれ以上に「この先どうなっていくのだろう」という不安が大きかったのを覚えている。
呪いのように、状況は日増しに悪化していった。でも、きっと乗り越えられる日がやって来ると信じた結果、舞台、続いて規模が異なりながらもライブと、それぞれ開催されたのだ。ライブの公演名は、『LIVE OF THE DEAD “R”(リベンジ)』。こちらの記事でも感想を述べたが、溜まりに溜まった1年間分のエネルギーを爆発させたステージであったと思う。
劇中におけるフランシュシュのリベンジ、そしてそこに懸ける想いは、我々が直面することとなった現実と少なからず重なるものがあった。まだしばらく、この苦難は後を引くこととなろう。だけどそんな時こそ「ヨミガエレ」の一節、「諦めなければ 終わりは 始まりへ変わる」の言葉を信じて、「始まり」へ向かっていこうとする信念を持ち続けていたいと思う。
やっぱり話があっちゃこっちゃ行ってしまったが、思いのたけ書いたので一先ず『リベンジ』の所感はここまでとする。
さて、夏アニメ。やべーぞおい、本記事執筆時点でまだ一本も観てないぞ! 今なら配信サービスを使ってまだ追い付ける作品もあるので、どこから手を付けようか検討中です。おしまい。
《了》
©ゾンビランドサガ製作委員会
©ゾンビランドサガ リベンジ製作委員会