Review-#040 『シン・ウルトラマン』はオタクの入りきってない主張だった
痛みを知る ただ一人であれ
先に申し述べておく。ウルトラマンの知識はそこまでない。
幼少期は放送地域と時間の問題でイマイチ縁が無く、近年になってニュージェネレーション作品をチラッとYouTubeで観るようになった程度。人並みな感想ですが、『Z』面白かったね。
そんな感じなので昭和ウルトラマンの知識はもっとない。小ネタと主題歌をいくつか知っている程度。
初代『ウルトラマン』に対する理解度は、最初主人公が死んでしまいウルトラマンが融合して、最後ウルトラマンがゼットンに敗れて光の国に帰った。そんなとこ。間のエピソードの内容はほとんど分からない。でも3分という時間制限は実は明言されていないとか、カラータイマーを外されるとしぼむとか、ウルトラ水流だとか、そういう小ネタは知ってる。なんで知ってんだろう。
「1ミリも知らない」わけではないが、56年も続いている特撮シリーズの中の「1ミリぐらいしか知らない」私。新参者の部類にカテゴライズされるであろう人間が、果たして『シン・ウルトラマン』をどこまで楽しめるのだろうか、と思いつつ2時間の劇場作品に挑んだのだが、感想としては。
面白かったよ? 他の人は知らんけど。
こういう言い方に落ち着く。
楽しめなかったわけでは決してないから、そこは安心した。
でも同時に、この温度が合わないならばとことん合わないのだろうなと。恐らく『シン・ゴジラ』を楽しんだ人でさえ、いやむしろ『シン・ゴジラ』を楽しめたから本作に期待している人ほど、評価が分かれやすいのだろうなと。
はて、『シン・ウルトラマン』とはどのような作品だったか。
個人的には『パシフィック・リム』を観た時の温度感覚に近い。つまり「僕こういうのが好きなんだよ」というメチャ強メッセージを2時間叩きつけた作品。で、「うん分かった、君らが『ウルトラマン』をどれだけ好きなのか(原典をあんまり知らなくても)なんとなく分かった」と、否が応でも頷くしかない、そういう作品。
異論なしに良かったと思えるポイントと同じぐらい、引っ掛かるポイントもたくさんある。もっと時間を、もっとお金を掛けていたら…また別の印象を受けていたのではないか。
いや、実際に叶うのであればそうしていただろう。
100億ぐらい製作費を用意されたとしても全額使い切れるだろうし、
体力と集中力さえどうにかなれば上映時間を6時間ぐらいに引き延ばしていただろう、全ては己の中で燃え上がっている愛のために…。
そんな夢物語ですら信じてしまえそうな(主に)庵野秀明からの情熱が、「誠実さ」と「露悪さ」の2つの側面を持ち合わせて、2時間弱の尺に詰め込まれている。
「やれるならもっとやりたかった」という恨み節が含まれているような気がしないでもないが、個人的には「億単位のお金を注ぎ込んで、こんな作品を作れる君らがもの凄く羨ましいよ」という感情にもなるのだ。
表題の通り、本作のやっていることは「オタクの主張」だったのだから。
さて、毎度のこと文章が全然纏まらなかった。一度書き直してもコレだからね。推敲、私の苦手な言葉です。
なので開き直ってそのまま乗せるし、普通にネタバレもする。観ようかなとは思っているけど、まだ観てない? ブラウザバックなんて甘っちょろいことしてないで、自分の目で確かめてこい!
作品情報
シン・ウルトラマン (2022年5月13日公開)
製作:円谷プロダクション・東宝・カラー
監督:樋口真嗣
企画・脚本・総監修・編集・コンセプトデザイン・撮影・モーションアクター・ティザーポスター・チラシ表面デザイン・作品ロゴデザイン・総宣伝監修(全部追い切れなかったけれど他にも色々やってそう):庵野秀明
所感
君はこういうのが好きなんだね
先程書いたことの繰り返しではあるが、『シン・ウルトラマン』を観るにあたって必要なものは、最初から最後まで「オタクの主張」だと意識することであるように思える。企画・脚本ぐらいの関わりだと思っていた庵野秀明、でも実は色んなところに首を突っ込んでいたとエンドロールで発覚した庵野秀明。
…の、(誰が何と言おうと)「僕がこれが好きです」という、ウルトラ愛が約2時間、半ば歪さを生じさせて詰め込まれている。諄いようだが、そうした「オタクの主張」を見せられている。それをどこまで受け入れられるかで評価が決まるのだと思う。
TVシリーズのエピソード5本分を1本の映画にまとめたような本作。各エピソードに異なる脅威が用意されており、「次は一体、どんなヤツが現れるのか」という期待を維持させながら、脅威出現⇒一悶着⇒倒す! の潔いテンポとローテーションで話が進んでいく。おかげで全然退屈しなかった。
だがこの「良さ」は「歪さ」でもある。直列的に進行するストーリーに対して、なまじ2時間弱の上映時間だと知っているこちとら「え、まだ2時間経ってないの?」と、「え、これ2時間で終えられるの?」の落ち着かなさが並行してやってきて、それでいざ作品が終わると「お、終わった!! 2時間でまとまった!」と当事者でもないのに、謎の達成感に包まれる。まさしく歪。
それ以上に歪なのが、「巻き」の犠牲になったストーリー。禍特対の描写が薄い。薄い分「(アニメ調に)キャラを立たせる」ことで存在感を際立たせようとしているが、やっぱり人間ドラマとしては薄味。
戦闘も淡々としているなぁというのが本編観賞中の印象。スペシウム光線だけじゃない、あれこれ手を変え品を変えのファイトを繰り広げているのだけれど、どのパートもてんやわんやしているから、せめて戦闘ぐらいもうちょっとじっくり時間を掛けてやって欲しかった、特に禍威獣とのプロレスは…という気持ちは、正直なところ、ある。
後日『シン・ウルトラファイト』(ムビチケ前売券特典)を観た時は充実感があったので、こちらを観返してみると印象が変わるかも。頭がスッキリと整理された状態だったからかな…。
その一方で、もうちょっと削って他のところに回せなかったかと疑わしいシーンが残っていて。イマイチ切り貼りの基準が定まっていないように見える。
(メフィラス星人まわりの)長澤まさみは…変な笑いは出たけど、話としてはそんんんんんなに面白くはなかった。アフターケアもメフィラス星人のレベルの高さ、というより地球人のレベルの低さ? の演出の一環なんだろうけれど、このシーンもあって「ザラブとメフィラスの下り、どちらか一方に統一したら?」と思ってしまった。そのようにするとうまく話が繋がらなくなってしまう、というのは分かるけど。
関連して、長澤まさみの扱い全般。これが物議を醸しているらしい。確かに、個々の描写が生理的に受け付けない人もいる、そう思う理由は分かる。
だが初見時、特に気にならなかった身としては、イマイチ乗り切れない態度になる。キャラ付けが『エヴァンゲリオン』のミサトさんっぽいなと思いはしたが。
そう考えると臭いも『エヴァンゲリオン』のキーワードを持ち込んだだけのように見える。姿(所在)は晦ませても臭いは隠しきれない、至ってシンプルな発想だし。…ということぐらいしか書けないので、これ以上突っ込むのは止しときます。
そんなに『ウルトラマン』が好きだったのか、庵野秀明
で、これら全般を「オタクの主張」という文脈で観るとどうなるか。
答えは単純、「あぁ、そうか、君はこういうのが好きなのか」と納得できるのだ。明らかにこれは原典から引っ張ってきたと分かるものから、元ネタがあるんだかないんだか…あってもよく分からなかった、シーンや演出の数々。それでも「好きだから、どうしても入れたかったのね」と納得させられる。
「好き」が過ぎれば、2時間なんかで到底収めきれるはずもない。でも長過ぎてもついていけなくなるから泣く泣く収めるしかない。代わりに詰め込めるだけ詰め込む、そりゃあこういう内容にもなるよ!
庵野秀明本人にとっては『シン・ウルトラマン』の出来には不本意な部分もあるようだが、どこまでが納期のデーモンで、どこまでが意図的なのか識別しにくいので、この記事では一旦、すべてを「オタクの主張」に預けておくことにする。
オマージュは多い(ように見えた)し、その中には現代であればもっと自然に見せることもできるだろう特撮技術も含まれている。でも好きだから、その一点張りで再現する。それを見て、何となく、「彼らの讃える原典には、こういったものがあるのだ」と理解する。
そして、現代で『ウルトラマン』をやるにあたってオタクなりの解釈も展開させる。(予算的な)着ぐるみの改造にも、プロレスで勝負を付けようとすることにも、ちょっとした一挙手一投足にまで理屈を付ける。
まぁ、だからといってリアリティラインが高くなったりはしない。ここまで書いた内容からも察せるように、リアリティラインを下げている、というより端から重視しているように思えないのが『シン・ウルトラマン』なのである。オタク仕草の領域を超えていない。
2004年の『FINAL WARS』から大分時間が経ち、再度国産を創造しようとして3.11や原発を背景に描いた『シン・ゴジラ』とは異なり、現在進行形で新作が制作されているウルトラシリーズに、そのようなお題目は不要ということか。
『シン・ゴジラ』から『シン・ウルトラマン』へと変化するタイトルの出方は初代『ウルトラマン』の『ウルトラQ』からのそれを踏襲したものだが、本作の場合は「『シン・ゴジラ』みたいに観る作品じゃないからね」と観賞者に訣別を促しているように、今となってはそう映るのだ。
(選択肢なんてあって無いようなものとはいえ)やたらポンコツな政府の描かれ方は、(ウルトラマンに関しては)そういうのは目指してない、という態度の表明でしかない。そう見えるのは「神」の視点だからでは、と思う所もあり。
『シン・仮面ライダー』だとどうなるかな。イメージが結びつかないから、恐らくウルトラ寄りになると予想しているけど。竹野内豊、三度は有り得ますか?
光の星から ぼくらのために
ここに来て本作の一番大事なとこに言及すると、シン・ウルトラマンことリピア。どれだけ大勢に囲まれていようとも、どこか孤独なところはあって。特別抱える必要のないかもしれない痛みを、自分の信念のために引き受けようとする。クサい言い方になったが、私の思う一般的なヒーロー像からは、少しもブレなかった。
変だったり、偏愛ぶりが見えたりする中で、ヒーローものとしての『ウルトラマン』に捻りを入れようとしなかったのは、ある意味拍子抜けだったのだ。何か仕込むんじゃないかとばかり、ずっと勝手に疑っていたから。
最後、同じく光の星からやって来た裁定者ゾーフィ(ゾフィーではなく。これも元ネタがあって、当時の雑誌の誤情報らしい。知るか!)は、人類に命を捧げようとするリピアを見て「そんなに人間が好きになったのか」と呟く。
この「好き」という言葉をどう捉えるか。リピアが触れ合った人類、禍特対の連中の描写が薄いという話をした手前、「好きになれる理由付けとしは弱いじゃないか」という説得力の無さを指摘するのが道理かもしれない。だが、私はそうではないと考える。
「人間のことはよく分からなかった。でももっと知りたい」。
リピアがそのように思うようになったきっかけは、それこそ神永が命を落とすことになってでも子供を守ろうとした、外星人にとっての奇特な行動だったかもしれない。
リピアは神永と融合を果たし、わざとらしくも個性に突出した禍特対と出逢った。浅見からは、人間は群れを成すもの、神永とは「相棒(バディ)」であることを念押しされた。十全に描かれたとは言えないが、リピアはその言葉を受けて人間に信頼を置いてみることにしたし、「神」だと一度は縋り付かれても、人間に突破口を託そうとした。
超人にとっての、ほんの僅かな時間にリピアは人類の断片的な性質を見た。一概に善とも悪とも、有益とも無益とも断言しがたく、どれか一つの側面を取ってリピアが人間に「価値」を見出したのではない。ゾーフィが讃えた、「ゼットンを(グリッチめいた力業で)倒す」ほどの人間の可能性とも異なる。
超人にとって、まだまだ理解の及ばない、まさに「興味深く」、もっとくだけば「おもしれー生物」として人間を見ている。とすると、彼の思考はとてもアカデミックだ。私だって学生時代、好きだとも嫌いだとも、これが将来役に立つのか立たないのか、よく分からないけれど、でもなんとなく関心はあるから、という理由で研究を続けていた。そのことを思い出した。
「愛の反対は、憎悪でなく無関心」であるとマザーテレサは言った。ならば「無関心の反対は、愛」も常に成立するだろうか? ゾーフィの言葉が、必ずしも正鵠を得ているのではないのだとしたら?
つまりは。リピアの語った内容を受け、ゾーフィがそれを噛み砕いて理解に努めようとした結果としての「好き」という感情であると伝えたのではないか。
「オタクの主張」として見るならば、庵野秀明らの思う『ウルトラマン』について存分に喋らせたあと、ゾーフィに「要はそれ好きってことぢゃん……」と言わせたようにもとれる。
…ややこしい! もっとシンプルでいいだろ!
うん、気持ちは分かる。でも庵野秀明らは「人間」でも「外星人」でもある彼に、あからさまな感情で地球、そして人類を守らせたくなかったのだろう。禍特対にメチャクチャ好感を持たせてしまっては、リピアの「好き」が限定的になってしまう、とかね。
『シン・ウルトラマン』における、リピアのヒーローとしての「在り方」はとても良かった。心の中にしまいこんでいる想いは形容しがたくとも「痛みを知るただ一人」、そういうものだと思っているから。仮面ライダークウガもそうだった、「英雄はただ一人でいい」と。
***
そうそう、米津玄師による主題歌『M八七』。本音を言えば、予告編の時点ではあまりしっくり来ていなかったのだけれど、エンドロールでじっくり聴いてみると、ものすごくバッチリと嵌っている。イマドキのJ-POPでド直球のヒーローソング。誰の視点によるメッセージか、それを考えながら聴くのも一興かもしれない。
劇伴もプロレスシーンを主として印象的。いつもの「デンデンデンデンドンドン」は残念ながら使われなかったけれど、『ヱヴァ破』(『彼氏彼女の事情』)? っぽいBGMが流れていたような気がする。初代『ウルトラマン』からの楽曲も使用されているようで。
あと気になったところ(主に小ネタ)を箇条書き。
最初の禍威獣ラッシュ、これは『シン・ウルトラQ』なのかな? 人間がどのようにして自力で倒したのか観たいなぁ…。
ネロンガ戦のスペシウム光線のシーンが予告と違った。ウルトラマンのスーツに複数のタイプがあったのは知っていたけれど、融合前と融合後という風にして使い分けてくるとは。
本作のコンセプトからして見当違いなのは承知の上で、「カラータイマー」って発明だったんだなと思う。ピンチ状態が分かりやすい。
後半のCGクオリティとか、アングル重視(?)の画質が低いカメラ回しとか、煮詰められていない部分というのは主にこの辺りか。おのれコロナ。
円盤で手直しが掛かったりするんだろうか。あ、円盤ってそういう意味じゃないよ。あと『シン・エヴァ』の円盤はまだ時間が掛かりそう?ウルトラマンが上空を過ぎ去った後に髪がなびくとか、巨大ヒーローならではの演出がもっと盛り込まれていると良かったかも…
キュウべぇマグカップは外星人つながりってコトでいいのか?
あまり演者の話をしていなかったが、ザラブ演じる津田健次郎、演技の方向性が普段とは異なっていて「あれ、これツダケン?」と一瞬分からなかった。
話題のメフィラス山本耕史は、コレ目当てで劇場に足を運んでも構わないよというレベルの怪演でした。「胡散臭い助演男優賞」モノ。メフィラス構文は使いやすそうでいいね。
斎藤工も人間と外星人とのどちらにも寄り過ぎない感じで良かった。
割り勘提案は笑った。確か公務員が利害関係のある者から奢られると倫理規定に引っかかるんだっけ。じゃあ割り勘でもアウトでは。
参考:https://www.jinji.go.jp/rinri/qa/main.html自棄になってストゼロを飲む滝くん好き。どなたか私に美味しい(変な甘みがない)ストゼロを紹介してください。
ゼットン戦で温存していたぐんぐんカット2連発はグッと来た。ゼットン自体は不動明王だったし、(負けイベントを一度挟んだとはいえ)もっと熱いファイトを観たかった気持ちはすごくあるが、それでも初見時の「あ、やっぱり最後はゼットン……デカくね!?」の衝撃は忘れられそうにない。逆立ちしても敵わないと思わせるだけの迫力がある。
最後、間を置かずにエンドロールに入ってそのまま終わったのはちょっと気になった。あっさり感が増しているというか。『ウルトラマン』の物語なんだとしたらああするのも理にかなっていると思えるけれど、せめてあと2・3秒ぐらい間を置いてからでも良かったんじゃあとは…。
モーションアクターとかもやってた庵野秀明。何かもうエンドロールが小島秀夫のゲームのそれと同じなんだよ。
総括
「随喜渇仰」、私の好きな言葉です
ほぼ確信めいて言えるのは、この内容で80億は無理でしょってことね。現時点でウルトラシリーズ最高の興行成績を叩き出していて何よりだが、オタクの主張を貫き通した、この変な映画で10億超えってだけでも相当だぞ。
(不本意なところもある、というのはさて置いて)2時間という人間の集中力の適正限界まで詰め込んでもなお収まりきらない、彼らの「好き」がどれほどのものか、それを散々に見せつけられる作品だ。初代『ウルトラマン』を観て彼らが感じ取った「空想と浪漫。そして、友情。」がいかに反映されているか。まずは母親のように、最初から最後まで受け止めてあげよう。
それでもって、誰とて自分の中の「好き」を持っている。本作と同じくするものも、価値観に相違があるものも、全く相反するものも、『ウルトラマン』を知っていようがいまいが存在する。そのことで、盛りに盛って終わりの見えない子供たちの妄想のように、論議に花を咲かせるもよし、ただ胸の内に秘めておくのもよし。
こんな感じで観るのがいいんじゃないかな、と思う次第です。良くも悪くも、純然たる「好き」で作られた『シン・ウルトラマン』は、観賞する人の想いをも膨らませるエネルギーに溢れている。
2時間じゃ足りない! と言ったけれど、それだけに(野暮かもわからないが)この物語の終わりの先、始まりの前を観たいと思う気持ちは強くなったし、これまでに触れてこなかった過去のウルトラシリーズを(元ネタ把握も含めて)観てみたくなった。それだけでも本作は役割を十分果たしているのでは?
ゾーフィが捉えた、リピアの「好き」に色んな意味が込められているように、私が『シン・ウルトラマン』を「面白い」と評したのには、excitingもfunnyもinterestingもawfulの裏返しも、色んな意味を込めている。それらを総合して、時間と席があればまた観に行こうかなぁと思える作品だった。
とまぁ、ちょっとヒネたことも言ったけど、ヒーローものとしての『ウルトラマン』を本作にも求めているのであれば、(ウルトラ見識の浅い輩が言ってもだが)熱く応えてくれるはず。
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まぁ、姑息だなって我ながら思うのね。ウルトラオタクはどう思うだろうかとか、新参者はどう思うだろうかとか、庵野ファンだったら、当時リアタイ勢だった大人たちだったら、子供たちだったら…。とにかく、他者に評価を委ねるような物言いをするのが。
パロディを理解している重度のオタクだったら楽しめるか? むしろなまじ細部の知識があることで観賞を妨げられやしないか。全然知らない新参者だったら楽しめるか? ウルトラシリーズあるいは特撮全般の"お約束"を知らないなら、全く理解しがたい、奇々怪々なものに見えるとは考えられないか。
それでも他者の評価が気になるというのは分かる。例えば本作を母が観たらどう思うだろうか。そもそも観に行きたいと思うだろうか。
あ、『ヱヴァ破』を途中でリタイアしたから厳しいかもしれない。山本耕史目当てで観たい気持ちが、ワンチャンあるかもしれないが…。
《了》
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