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混沌と愛の国インド、美しき冬のラダック⑨どたばた帰国編

 12月1日(木)。いよいよインド最終日。今日は何より、帰国のためのPCRを受けなければならない。私は検査の予約時間、8時ちょっと前にフロントに降りた。
 ところが、待てど暮らせど、一向にそれらしい人物が来ない。8時を10分過ぎ、友人夫婦が降りてきた。フロントに、検査がもし来たら知らせるよう伝え、とりあえず朝食に向かうことにした。
 朝食はインドの伝統料理とフルーツが充実した豪華なビュッフェだった。何もなければ両手を上げて喜んでいるところだが、PCR検査を受けられないという可能性が濃厚になりつつある最中、とてもじゃないが優雅なブレイクファーストを楽しめる気分ではなかった(言うまでもないことだが、PCR検査を受けられないということは、帰国できないことを意味している)。
 30分待っても来る気配がないので、友人が医療機関に連絡を取ると、なんといきなり「検査にはいけない」と言い出した。私は友人夫婦に会ってからすっかり緩んでいた気持ちが、徐々に焦りに変わっていくのを感じた。
 話を聞くと、今から病院に直接行けば、19時ごろまでには結果を出せるということだった。場所はそれほど遠くないが、フライトは20時。チェックインの締切が1時間前であることを考えると、ギリギリ間に合わない可能性が高かった。
 一気にゴムみたいになったパンをごくりと飲み干し、ひとまず準備をしようと友人夫婦と別れて部屋に戻った。荷物を持ってロビーに降り、近隣の検査機関についてかなり拙い英語でフロントとやりとりをしたものの、残念ながら有益な情報を得ることはできなかった。到着時にwi-fiがつながらなかったときと同じ温度の汗が背中を伝って流れた。
 チェックインは陰性証明なしで押し切り、飛行機に乗る直前までに示す形が通れば可能か……とも思ったが、そのようなことが果たして可能なのか、インターネットの情報では「搭乗時」としか書かれておらず全く不明であった。もはや状況は絶望的。私は密かに帰りの航空券を再購入する覚悟を決めた。

 ひとまずダメ元で当初予定していた医療機関に向かっていたところ、友人が駐在者用の問い合わせ先からgoogleの口コミなど、ありとあらゆるツテを使い、なんとか「間に合わせられるように頑張る」という医療機関を引き当てた。20分後までに到着すれば17時までに結果を出すと言い切る漢気である(信頼度はさておき)。タクシードライバーに目的地の変更を伝える。Google map上あるはずの場所になかったりと直前まで翻弄されたが、なんとか辿り着き、検体を提出した。指定の時間には間に合わなかったが、スタッフは、95%の確率で17:30までに出せると言ってくれた。これでもし残りの5%を引き当てたら、それはもう神様がデリーをもっと知れと言ってるってことだろう。私は友人夫婦と医療機関に心より感謝した。やるだけやった。こんな達成感をインドで得ることになるとは思わなかった。

 もうあとはデリーを観光するだけだ。タクシーはアプリで8時間の貸切にしていたので、いちいち料金を交渉することなく、デリーの主要な観光スポットに行くことができ、非常に便利だった。
 まずは有名なレッドフォートに向かう。永遠のように続く赤い城壁、その規模感にひたすら圧倒されるばかりだった。デリーへの期待値があまりに低かったせいで、友人夫婦共々大はしゃぎで歩いた。

全てこの色で統一されている
でかい 観光客もかなりいた
大理石で作られたモスク

 続いてレッドフォートから歩いて間もないジャーマー・マスジドへ。途中のマーケットがものすごい熱気だった。それほど広くない道路に、4列もの露店の列ができ、サングラスやコスメ、洋服、靴、ありとあらゆるものが売られていた。そして隙間なく敷き詰められた商品と同じくらい窮屈そうに、人がひしめき合っていた。(おじいちゃんがブラジャーを売っていてちょっと笑えた)。
 道端でミカンにスパイスをかけたものが売っていた。インドでは、塩胡椒の感覚でクミンを使うらしい。

ジャーマー・マスジドからマーケットを望む
半信半疑で食べたが美味しかったスパイスがけオレンジ

 なんとかたどり着いたジャーマー・マスジドは、かつて行ったウズベキスタンでみたモスクに似た作りだった。ゆっくり建築美を堪能しようとしたが、日本人がめずらしいのか、三歩に一回はインド人に記念撮影をお願いされ、全くゆっくりできなかった。彼らは日本人というだけで写真を撮りたがる傾向がある。全然知らない人との写真をどのように利用するのか、理解に苦しむばかりである。

しかも修理中

 そして、何よりこの場所で覚えていること。ジャーマー・マスジドの入り口、階段下に、小さな布切れの塊があった。何だろうと不思議に思い、じっと見る。
 ふと、黒く大きな瞳が、布切れの奥で光った。
 布切れのように見えたのは、2人の子供だった。仰向けになっている子供と、それを守るように覆い被さる、もう1人の子供。隙間から僅かに見える腕は階段の手すりみたいに細く、不自然なほどまっすぐで、少し震えていた。その震えが、かろうじて彼らが生きていることを、通行人に知らせていた。

 インドでは、車が停車するたびに窓を叩いて10ルピーをせがむ物乞いたちがたくさんいる。たったの10ルピーだが、それによって彼らは、その日なんらかの食事を手にすることができる。きっとこの子供たちも、そうした生活を続けた果てに、今ここにいるのだろうと思った。
 不思議と、かわいそうという感情はなかった。今ここで私が彼らに食べ物を渡して、お金を渡して、それで何になるというんだと思った。誰かに何かを言われたわけでもないのに、頭の中で必死に言い訳をする自分がひどく滑稽だった。
 あの情景はーー月並みな表現で恐縮だがーー二度と、忘れないと思う。

 お腹が空いたので、バックパッカーの集まる安宿&マーケット街として有名なパハールガンジに向かった。前評判通り、一歩奥まで入ったら財布の隅に入れたレシートに至るまで搾り取られそうなチープな露店が所狭しと並んでおり、狭い路地には大量の電線が子供のよだれみたいにだらしなく垂れ下がっていた。
 知らない街では、ローカルな人間で混雑する店を選んでおくのが吉である。ハエはブンブン飛び交っていたが、やたらと混雑しているインド料理屋で、北インドらしいチキンターリーを頼んだ。盛り付けはかなり豪快だったが、歯応えの良いチキンで大変おいしかった。

ハエがいるくらいで臆してはローカル飯を口にすることはできない


何が何だかまったくわからなかったがおいしかった


 そして最後に向かったのが、クトゥブミナールである。最初は、ミナールなんてアホほどウズベキスタンで見たしな〜という気持ちだったが、これがいざ目の当たりにすると大変美しかった。ウズベキスタンのミナールは、白を基調にしたシンプルなものが多いが、クトゥブミナールはは真っ赤なミナールで、タイルに施された細やかな装飾が夕日によく映えていた。
 そしてこのミナールに辿り着いたタイミングで(正直言ってその場の全員がちょっと忘れていたのだが)、PCRの検査結果が送られて来た。結果は、無事に陰性。私は空の高みに向けて、帰国の喜びを込めたガッツポーズを送った。

このときだったらいくらでも写真撮影応じるよ!と言う気持ちだった
いつまでも見ていられそうな建築美だった

 空港までタクシーで送ってもらい、友人夫婦と解散(お世話になりっぱなしで何も返せなかった……)。
 締め切りギリギリにチェックインし、遅々として進まない出国手続きにヤキモキしながら、ゲートクローズ7分前に無事出国。
 最後までドタバタだったが、このようにして私の初の1人海外旅、初のインド訪問はなんとかフィナーレを迎えた。
 ほとんど街を移動しない旅ではあったが、美しくそして圧倒的な自然に触れ、それを魂が求めていることを理解する、尊い時間だった。

 インドビザは5年有効である。次は、きっと夏のラダックに来ようと思った。

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