残留大学でノロノロ卒業した話



はじめに

 はじめまして。かなどめと申します。
大学卒業してすぐに書こうとしたままずっと放置していました。入職して1年が経とうとしており、時の流れに震えています。

このnoteは、名古屋大学法学部3年次編入試験を受験し、口頭試問で落ちた後、残留大学で私がどのように過ごしていたのかをまとめたものになります。不合格者がそのあと残留大学でどうなるのか、ちょっとは気になるでしょう。尚、落ちても大丈夫! とか、「置かれた場所で咲きなさい」のようなことを言うつもりは微塵もないです。落ちてすぐは気が動転して、月並みに時間とお金を浪費しました。安心して読み進めてください。

〇現在バリバリ受験生の方へ
頑張れ!!! 筆記や研究計画書は言うまでもないですが、面接練習は大事ですよ!!! 面接練習は何回やってもいいですからね!!

〇春からも所属大学に通う方へ
まずは今までの受験生活お疲れさまでした。自分を全力で労わってくださいね。後で詳しく書きますが、私は結果が出てすぐはショックで何もできませんでした。合否が出た後の2か月間なにをしていたのか今でも思い出せません。思い出せないというか多分本当になにもしていなかったと思います。
追記
思い出そうとしても、ショックでツイッターの投稿をすべて消去したので、当時の記録が残っておらず本当に何をしていたのかわからない。(20231004)

◯Twitterのフォロワーさんへ
いつも本当にありがとうございます。

やってよかったこと

1.受験生時代(大学進学直後)

①所属大学での講義を真面目に受講する
②片手でも余る程度の最低限の友人を作る
③所属大学内で尊敬できる先生を見つける

【①所属大学での講義を真面目に受講する】
これは「滑り止めで入ったところでさえ満足な成績が取れないのはよろしくない。仮にダメだった時に編入試験を理由に堕落していると這い上がるのが大変になるから」というのが理由だったと記憶しています。また、出願する際に成績証明書も出すことになるので在籍校での点数が高くて損することはないと思います。私が名大に提出した成績証明書はほぼSでした。ちなみに残留することが決まってからは必要最低限の単位をギリギリの点数で取り、卒業単位が充足したら興味のある科目を“好きなように”受講した結果、GPAは驚異の低空飛行となりました。履修登録すらしてなかった科目もありました。

【②片手でも余る程度の友人を作る】
 学籍番号が前後の女子5人と友達になりました。つかず離れずの距離感で大変心地よかったです。その中でも、お互い切磋琢磨できる友人を1、2名でも持つことが重要だったと思います。在籍校での勉強のモチベーションをある程度維持するためにも彼女と友人にいられて幸運でした。ちなみに彼女は、私が超低空飛行のGPAで大学生活を楽しんでいる間にも優秀な態度で講義を受講し、卒業時には優秀な成績を修めた学生で表彰されていました。
 残留することになった後のセーフティーネットではないですが、自分の居場所をある程度確立しておくのは割と大事なことだと思います。在学中は特につるむこと(同じ講義取ろうよ~みたいなのは一切なかった)はありませんでしたが、というか卒業してから初めて全員でご飯を食べましたが、こんなもんだよなと思いました。

【③所属大学内で尊敬できる先生を見つける】
 ゼミ生の有無に関わらず、早いうちから気になった講義の先生の研究室訪問をするのをお勧めします。私は1回生4月3週目で研究室訪問をしていました。大学教員の研究室、控えめに言って大変、極めて、頗る面白いです。
 私の大学は3回生からゼミが始まり、2回生までは半期ずつ少人数のゼミ擬講義を受講できます。つまり最低4回は大学教員を比較的近くで観察するチャンスがありました。当然ですが学生との交流や講義以外の学術内容問わず質問を嫌がる先生もいらっしゃいますので、合う合わないが当然発生しますが、ここで上手いこといくと研究室に住めます。大学教員の研究室、本当に面白いです。編入試験の面倒を見ていただいたのは、その模擬ゼミでお世話になった先生のうち1名です。ゼミ教員は1回生の頃の憲法(必修)の教授だったので、1回生の頃から定期試験対策、当時はロースクールも一瞬考えていたのでその相談等でよくお邪魔していました。その過程で「当然うち(憲法ゼミ)にくるんでしょ?」「それがかくかくしかじか」「そうなんだ。きっと受かるよ。もし残留したらうちのゼミにおいで」とのやりとりがあり、不合格後は試験結果を伝えて「はい、じゃあかなどめ君は憲法ゼミで尖っていこうね」と有難いお言葉を賜り、ゼミ教員のゼミに転がり込みガンガン鍛えていただきました。

 余談ですが、私は先述した通り滑り止めの大学に進学しました。今でこそこんなnoteを書いていますが、入学してすぐは「こんなク○大学の学生はク○」「俺はあなた方とは違う」ムーブメントをかましており、例によってTwitterの質問箱で「同じ大学に学歴コンプがいて草。お前のことみんな嗤ってるよ」のようなコメントも頂戴していました。ちょうどそのころに研究室訪問をして心身を入れ替え、受験勉強と所属大学での学問探求を始めることができました。運が良かったです。

2.不合格後

合否が出た直後は
「なーーーーーんもなくなったぞ!!!!!お先真っ暗だっはっはh!!」
これを泣きながらツイートしていました。そのあと合格者のツイートを見ていられなくてあらゆるワードをミュートに設定して全ツイートを消し、アカウントを消しました。

①お世話になった先生への報告
②ゼミ教員との面談
③やりたくないことをリスト化する

【①お世話になった先生への報告】
 合否が出たその日のうちに先生に報告と謝罪をしました。痛みが強いうちに今後について考え大まかな指標を作り、傷が深くなるころには黙々と勉強し続けられる状況を作り出すためです。3年近く経過した今でも当時のことを思い出すのはすごく辛いです。当時は書類審査の倍率が大変高く、そこを突破しうる研究計画所を作れたことに喜び、気が抜け、面接対策を怠ったのが原因だった(と思う)ので、恩を仇で返すようなことをしていました。研究室で泣き、謝罪し、途方に暮れ、今後について相談しました。

【②ゼミ教員との面談】
 合否が出て数週間後にゼミの合否判定が出ていたので、年内に報告しました。私はゼミの面接の段階で編入試験を受けていることをお話していたので、(指導教員がゼミ教員に話したのではと思うほどに)話が大変スムーズにすすみました。また、当時は青筋が立ちましたが「君は名大で何を研究したかったの」と異なる研究分野の大学教授から口頭試問のようなことをされ「その研究本当に楽しいの?」と笑いながら言われたことで、ある意味踏ん切りがつき残留大学で別の研究テーマを探すきっかけになりました。学問探求のプロ相手に自分の研究テーマについて「面白い」と思わせることができなかったことが意識の切り替えの面で大きかったと思います。そのあとは無事に研究テーマを見つけ、「大変良い。○○先生にも見せたいくらい良い。これはすごいぞ」と冗談交じりでも「面白い」と言わしめる研究活動を行うことが出来ました。私も非常に楽しかったです。

【③やりたくないことをリスト化する】
 これは指導教員から教えていただきました。やりたくないことをリスト化していくと、いまやらなければならないものが見えてきます。消極的ですが非常に有益なアドバイスでした。
私のリストは今思うとただただ浅くて反省の嵐ですが、当時は本気で思っていました(恥ずかしさしかない)。

私が1番やりたくなかったことは、就職活動でした。4年間好きなことを勉強をするはずが、早い人は1年生のうちからインターンに参加、2年生はインターン、カンボジアで学校を云々、バイト先ではバイトリーダーに云々、3年生は就職活動が忙しくてゼミに参加できません、4年生は就職活動云々……の流れがどうも嫌で、これをしないで済む方法を模索していました。「私文は遊んでいるんでしょ」という社会の風潮に抗いたかったのもあったと思います。

就職活動したくない→編入の試験勉強があるからそんな余裕ない
就職活動したくない→公務員を目指そう/大学院で引き続き研究しよう......みたいな。

 幸いにしてゼミ教員、指導教員は就職活動懐疑派の方たちだったので、無責任にも面白く応援してくださり、ゼミ教員にいたっては公務員試験に暗雲が立ち込めたころに、大学院進学を見越した卒論の添削をしてくださり、大学院の2年間の過ごし方や、そこにたどり着くまでに学部生の間にやっておくことを教えてもらいました。

結局公務員試験も最後までうまくいかず、大学4年の9月から就職活動を始めました。これについても後ほど軽く追記します。

やらなくてもよかったこと

1.受験生時代

特にないと思います。

2.不合格後

①焦って〇藤塾に入塾(入信)する
②無理に試験勉強し続ける環境を作ること
③編入不合格に固執すること
④ツイッターの投稿をすべて消すこと


【①焦って伊◯塾に入塾する】
【②無理に試験勉強をし続ける環境を作ること】
合否が出たのが11月で、そこから年末までは廃人のようで、気が抜けたら涙が出てくる日々を送っていました。私は浪人もしていたので、ここ何年も受験勉強をしていたのが当たり前で、それが急になくなる不安から「何か受験勉強をしている」という環境を作ろうと伊藤塾に入塾しました。高い入塾費と講座費を入金した私は“晴れて”再び受験生になり、編入試験不合格の哀しみを勉強で紛らわしていました。しかしながら、その実態は受験勉強ではなくただ脳と手を動かしているだけで、本当に勿体無かったと思います。それをやるなら太宰でも写経していた方が幾分かマシでした。
この良くない流れが公務員試験まで続きます。

【③編入不合格に固執すること】
いまお前がやってることじゃん、そう言われたらその通りですが、これはただの備忘録なので。固執しているわけではないです。南無南無。学部にいる間はなんだかんだで不合格や、当時の研究内容に縋りつこうとしていました。あの頃は自分が心血注いだ時間を失いたくない一心の行動でしたが、いま思えばもっと違う頭の使い方があったでしょうと思います。一応すがりつつも、ゼミの研究をモリモリ楽しんだり、図書館で好きなように本を読んでダラダラ過ごしていたので、不合格後は不合格のみの大学生活にはならなかったですが、なんにせよちょっとどうなんと思います。

【④Twitterの投稿を全て消すこと】
マジで後悔しました。Twitterは日記。それこそ心血注いだ時間をエンターキーで一瞬で消してしまいました。私はなんて愚かだったんでしょう。

編入試験を受験してよかったか

私は受験して良かったです。
私が名大に入りたかった理由は、勉強しているのが当たり前、前を向いてコツコツすることが特別なことではない人と遭遇する確率が高いからでした。「えっ、勉強してるんだ……すごいねw真面目だねwww」「私たちとは全然違うねwww」「ゼミの報告すごいちゃんとしてて、私なんて1冊しか本読んでないのにwww」とか一切言われない環境が懐かしく、喉から手が出るほど欲しかったです。(名大に進学するからと言って、それを言わない人がいないわけではない)
学問探求は楽しい。これは真理で、ぶっちゃけ志望大学に行けなくても研究それ自体はできます。大学は納得のいく環境でないかもしれないけど、そこで教授職についている先生は受験生の大半が受験する大学で修士なり博士号を取得した猛者です。私は浪人して滑り止めに進学し、その時点で編入試験を受験することを考えていました。大学入学してすぐ、在学中、編入不合格後、その後の3回生4回生の間も、何度も「先生方はプロ。学問探求に真摯な方たち。大学生はクソ(な割合が多いかもしれない)でも、先生はプロ」と自分に言い聞かせていました。置かれた場所で咲く必要は全くありませんが、いつか望んだ場所で咲けるように図書館を始めとする大学設備は学費を吸い尽くす勢いで利用しましょう。

さいごに(おまけ/就活について)

なんだかんだで大学4年の9月から民間企業の就職活動を始めました。就活がしたくなくて走り続けた4年間だったのに、結局最後は就活をするというね、我ながら哀れです。

大学2年まで/編入対策
大学3年/迷走
大学4年/公務員卒論大学院試験対策
私の4年間は基本的に勉強と怠けることに勤しんでいたので、カンボジアに学校を建てバイト先でバイトリーダーになり利益を上げインターンに参加するような時間はありませんでした。最初は「履歴書に勉強のことを書いたら通らない」という“神話”を信じていたので、やってもいないバイトリーダーの話をしていましたが、途中から長所、自己PR、学生時代に力を入れたことを全て研究のこと(編入試験のためのそれ、ゼミ)で書きました。だってそれしかやってなかったから。
編入試験については直接は触れませんでしたが、「ゼミとは別で個人研究に取り組み、学内外の関連分野の教授と意見を交わし考えを深めていった」と視点を変えて履歴書に落とし込んでいました。受験勉強の一環で行っているので失念しているかもしれませんが、編入の受験生の皆様はゼミに入る前から個人的に専門的な研究活動(に近いこと)を行っています。これは何物にも代えがたい財産です。その研究の中で何を培ったのか等々を視点を変えて口当たりよくしたものを履歴書に突っ込みます(不合格でもこれしかやってなかったんだから出汁くらい出ろよと思っていました)。よくツイッター(現:X)では、大学の研究はガクチカに使えないという言質を拝見しますが、これについては考え方次第だなと実感しました。
幸いにも私の勉強塗れで一部誇張表現のある履歴書を面白がってくれる団体に拾ってもらい、12月26日に内定が出ました。そのあと院進の勉強もしましたが、また2年後に就活をしなければならないことに気づき、さっさと内定承諾書を提出、無事に(?)社会人になりました。大学の先生からは「君が就職?!」と驚かれましたが「いつでも戻っておいで」と仰っていただきとても嬉しかったです。

どのレベルの大学であれ、ガンガン学問探求を楽しみゴリゴリ論文を読んで、鞄には貸出冊数上限の本を詰め込んで紐が切れる不安を抱きながら泥臭く卒業しましょう。学問を楽しむすべての編入受験生に幸あれ。

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