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プロレスがそばにあった頃

プロレスとの出会い

子どもの頃から,プロレスが大好きだった。物心が付いたときには,金曜日の午後8時に祖母が興奮しながらモノクロテレビにかじりついて,三菱電機提供の「プロレス中継」を見ていた。昭和30年代の終わりの頃である。父も母も,そして私も一緒に観戦していた。だから,三代続いてのプロレスファンである。残念ながら,私の息子たちにそれは引き継がれなかったが。笑 書き出したらそれこそ際限がなくなるので,今回も概観的にプロレスについて気ままに書いてみたい。勿論,日本で「プロレス」と呼ばれるのは,「プロフェッショナル・レスリング」を略しての呼称であるが,アマチュア・レスリングとはルール等も含めて全くの別物であると,私は認識している。ミュンヘン五輪のグレコローマンで活躍したジャンボ鶴田が「全日本プロレスに『就職』します」と言った件や,レスリング世界大会で活躍後に新日本プロレスに入団した谷津嘉章が設立した「社会人プロレス」なども含め,今後,のんびりと書いていきたい。

吉村道明への思い入れ

子どもの頃に見ていたプロレスは,ポスト力道山の頃である。ジャイアント馬場やアントニオ猪木,大木金太郎,ザ・デストロイヤー,フレッド・ブラッシーたちが大活躍していた。その中でも印象に残っているのが,吉村道明である。前述のレスラーたちと比べれば,知名度や人気の点ではやや劣っていたかもしれない。今の試合は1本勝負がほとんどであるが,当時は60分3本勝負が多く,この形式でこそ,吉村道明がきらりと輝くのだ。1本目は相手の外国人レスラーにこてんぱんに痛めつけられて,負ける。2本目が苦戦の末にふらふらになりながらも何とか辛勝。勝負の掛かった3本目も苦戦を強いられながらも,相手の隙を突いて,得意の回転エピ固めで吉村が3本目を取って試合に勝利というパターンである。ほとんどがこのパターンであったから,子どもの私も「最後には勝てる,やられ役」としてしっかりと覚えている。余談であるが,この時代は日本人レスラー対外国人レスラーというフォーマットが定型で,日本人対決はその後のことだ。

地元のプロレス会場に向かう


昭和の終わり頃の入場券

テレビで鶴田や馬場,韓国人レスラーが活躍する全日本プロレス,そしてアントニオ猪木の異種格闘技戦を貪欲に進めていた新日本プロレスを見ていたが,徐々に生で観戦したい衝動に駆られ,大学生になると,地元の福島市体育館でプロレス興行があると見に行くようになった。お金のない学生であるから,取り敢えず,一番安い席のチケットを購入し,第一試合が終わったら,リングサイドの空席を探してぐいぐいっと前進していく作戦である。第一試合が終了しても空席ということは席が売れていない証拠だからである。今はチケットぴあのような発券システムがあり,前方の席から、そして椅子の番号の順番通りにチケットが売られていくが,昔はチケットセンターやスポーツ用品店ごとに,A店は会場の東側の席,B店は会場の西側の席の切符(!)を売る…と,販売するエリアが決まっていたからできたことである。また,現在はプロレス団体の地方興行が極端に減ったなぁと感じる。平成の初め頃までは人口が数万人程度の町の体育館にもプロレス団体が必ずやって来ていて,福島市の隣にある保原町や梁川町(どちらも現・伊達市)や桑折町にも観戦に行ったものである。

福島市出身の女子レスラー


矢樹選手はカラオケ好き!

平成6年のことである。ひょんなことから,一時期ではあるが,福島市出身の女子レスラー・矢樹広弓(やぎひろみ。本名の「柳沼広美【やぎぬまひろみ】」をよりシャープにしてリングネームとした)選手の後援会に交ぜていただいたことがある(交ぜていただいたというよりは,ホントは「間違って交ぜられた」が正解。笑)。所属していたのは,JWP。ジャパン女子プロレスが分裂したときの片割れである。ちなみに,もう片方がLLPWという風間ルミらが在籍した団体である。男子の団体以上に栄枯盛衰の波が大きい女子プロレスの世界は生き残るのが難しく,今はどちらの団体も消滅している。矢樹選手は高校時代の柔道の実績が認められ,実業団選手として柔道を続けようと東洋水産を就職先として選んだが,いろいろと柔道を続けていく上での困難にぶち当たったり,JWPの門を叩くこととなった。柔道出身らしく,雪崩れ式の一本背負いが最大のセールスポイント。矢樹選手の出身高校は福島市から100kmほど南に位置する棚倉町にある。つまり、親元を離れて下宿し,柔道強化のための高校生活を送っていたのだ。そこは私の妻の実家のすぐ近所でもあったので,いろいろと共通の話題も多かったし,矢樹はとっても筆まめなかたで手紙を出すと,直ぐに返事をくださった。特定のレスラーのファンとなり,何らかの交流が持てたことは自分にとって初めての経験であった。後援会では矢樹選手にゆかりのある方々と一緒に試合会場で応援したりとホントに楽しい時間を過ごすことができた。また,試合会場や矢樹の出演するイベント等で他のJWPの選手たちとお喋りすることもでき,キューティー鈴木の毒舌やダイナマイト関西の男らしさには舌を巻いたものである。不思議なことに,女子プロレスラーには不良少女出身か,お嬢様出身かの両極端しか存在しないように思えた(←あくまでも個人的な意見)。平成6年の夏,福島県原町市(現・南相馬市)のリング上で矢樹選手に花束を渡す機会があり,この経験は後にも先にも,このときだけであった。貴重な経験である。ただ,後援会は夜遅くまでの飲み会があったり,後援会を金銭的に支えるために広告取り(スポンサー探し)の作業があったりと,教育公務員の端くれの私には荷が重く感じられ,長く参加することはできなかった。

花束贈呈後に握手を


水着を卒業し、レスラーらしいコスチュームに
(後楽園ホール)

平成6年の10月8日には,後楽園ホールで全日本女子プロレスと他団体の対抗戦の火ぶたが切られ,多分,第2試合で矢樹が出場し,私はそれを応援している。ちなみにその日の夜に公開放送が予定されていたニッポン放送「浅草キッドの奇跡を呼ぶラジオ」の最終回特別企画「ハガキ職人グランプリ」に参加するために上京していて,昼間には後楽園ホールへと向かっていたのである。今,考えれば,この当時の学校週休2日制は不完全なもので,第2土曜日だけが休業土曜日となっていた。第1・3・4・5土曜日ならば普通に授業があり,それが終わってからの上京では非常に大変だったろうし,特別企画へのオファーを断っていたかもしれない。たまたま10月8日が第2土曜日で休業日だったため,福島市からも都内へと向かえたのだ。これも,一つ一つの星同士を結び付けて意味を持たせる「星座」なのかもしれない。(←北野誠さん風に言えば,「それって,上手く出来ているんやなぁ~!」)

今後は

プロレス界は,突然にデスマッチブームがやって来たり,格闘技ブームに襲われたり,プ女(プロレス女子)が時代の言葉となったりと,絶えずいろいろな荒波にもまれている。現在は,男子が新日本プロレス,女子がスターダムの一強のように私の目に映っているが,まだまだプロレスの潜在能力は高く,多種多様な展開ができると思う。今後に期待である。


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