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映画「福田村事件」〜エンタメとドキュメンタリーとの間で〜

遅ればせながら、映画「福田村事件」を10月12日(木)にフォーラム福島で鑑賞しました。テアトル新宿などと比べて、3週間遅れの公開で、こちらの公開期間は2週間だけでした。私が見たのは、フォーラム福島での最終上映回ということになります。

一言で言うと、重苦しい映画でした。ドキュメンタリー映画が専門の森達也監督が初めて撮った劇映画とのことです。何故、重苦しいかと言えば、史実に忠実に描こうとしているためか、ほとんど笑いがないのです。昭和の映画には「涙と笑いと裸」がありました。映画の途中に、堺駿二や品川隆二、東八郎らがちょっくら登場し、観客を笑わせ、場を和ませてから引っ込んでいったからです。だから、本作は教科書や史料を読んでいるような感じで、ふっと脱力する場面が非常に少なかったです。

森達也監督は今までにオウム信者や望月衣塑子さんをハンディカメラなどで追いかけてきた人ですから、監督自身にも戸惑いがあったことは理解できます。ドキュメンタリーは台本や配役があって成り立つものではないからです。ドキュメンタリーなら、多少の手ぶれやケラレ(広角にした時、レンズフードやフィルター枠が映り込み、画面の四隅が暗くなる現象)は気になりません。でも、劇映画なら、カメラワークの基本であるパンとチルト(水平移動と垂直移動)が滑らかに動くことが要求されるでしょうから。

内容的な話をすれば、関東大震災での朝鮮人虐殺や共産主義者、無政府主義者への弾圧は今までに聞いたことがありますが、香川の行商人も惨殺された事実があることは初めて知りました。また、関連して、他の地区でも方言などが原因で虐殺が起きたことも知りました。兎に角、この千葉県の福田村で起きた事件を題材に映画化されたことに感謝しかありません。たった100年前にこんな不条理なことがあったことを多くの方々に知らしめることができました。現在は、どうかすると負の歴史を改竄してしまおうと言う「1984」の真理省のような勢力も強く、このご時世での映画公開は大変よかったと思います。

話は変わりますが、公開当初、ネットでは、本作を「おっぱい映画」と呼んでいるポストがありました。映画を見てみると、死んだ義父に乳房を押し付けるシーンはありましたが、胸の谷間が短時間見える程度で、私が高校生の頃に見た、知らない間に乳房やお尻をあらわにしている原田美枝子や森下愛子が主演の映画と比べるべくもありません。正解は、今村昌平監督の「にっぽん昆虫記」に同様なシーンがあり、それへのオマージュとのことでした。

また、当時の村ではこんなに不倫が行われていたのかという感想も多くありました。主に、船頭の田中倉蔵についてと、井草貞次と嫁のマスとの関係。ここからは私の想像になりますが、性交渉にもハレとケ(特別なものと、日常のもの)があったのではないかと思います。私が就職した頃、40歳近く年上の上司が、「八朔(はっさく。旧暦の8月1日。月齢1日は新月で夜空は真っ暗ということ)祭りはホントに無礼講で、自分が気にいった人のところに行って、自由にべっちょ(福島弁でも千葉弁と同意)してよかったんだぁ」と言っていました。私が「今もそうなのですか?」と聞いたら、上司は「今ではできないなぁ」と答えました。どうやら、いつでもフリーセックスという訳ではなく、80年ほど前の福島県南部の一部の農村では、限られた期間でならOKだったのです。たとえて言えば、プロレスの5秒間までなら反則が許されるようなものです。福田村でも似たようなことがあったのかも知れません。

登場キャラクター的には、在郷軍人会分会長・長谷川秀吉(しゅうきち)を演じた水道橋博士が目を引きました。チョイ役かと見始めたら、遺骨を抱えた島村咲江を野田駅で迎えるシーンから登場し、「デモクラシィ」を訴える村長・田向龍一と対比的に描かれるキーパーソンでした。余談ですが、秀吉という名は「ひでよし」とも読め、朝鮮出兵した豊臣秀吉を意識したものかもと思いました。長谷川の一貫した軍人らしい言動は…、とは言っても虚勢を張っている感が半端なく、観客のブーイングを浴びそうなほど憎々いヒール役を水道橋博士が上手く、無骨に演じていたと感じました。それだけに、惨劇の後の「この村、この国を守るため…」という男泣きが非常に生きてきて、私たちの胸に迫ってきます。

ただ、それだけに、正直言って、澤田智一・静子夫妻が、私にとってはとらえどころのない、ふわふわしたものに感じられました。16日に高円寺パンディットで開かれた「森監督と水道橋博士とのトークショー」で質問を募集していたので、そこへ送信した質問をそのまま、載せます。

森達也監督、博士、こんばんは。私は福島市の井上もやしです。福島市は公開日が少し遅く、10月12日に「福田村事件」を鑑賞いたしました。

エンタメと、歴史上事実とを融合させる必要上、森監督は大変苦労したことと思います。ただ、この映画のメインとなる澤田夫妻の位置付けが、正直言って、私にとってふわふわとしたとらえどころのないものに映り、監督の意図をお聞きしたいと思いました。

作中で、智一は「韓国で虐殺を目撃したこと」、静子は「親が財閥」であることは語られますが、二人の関係性がはっきり言ってよく分かりませんでした。智一の虐殺目撃のためか夫婦の営みは既になく、智一は妻と倉蔵との情事をただ眺めているだけ、そして、妻の情事を目撃しながら、自分の背に乗せようとするし…。遠くに行こうとした静子が戻ってきても、以前同じように向かい合って食事をしているし…。仮面夫婦と呼ぶにしても、二人の関係性にやきもきし、感情移入できないものを感じました。

対する博士が演じる長谷川秀吉のように一貫性のある人物像なら、在郷軍人として生きてきた悲劇性がとても分かります。ラストの「お上の言うことに従ってきたら…」の男泣きは、イタリア映画「道」のザンパノの喪失感に通ずるものがあります。

澤田夫妻をこの映画のメインに据えた意図と、森監督がこの夫妻に背負わせようとしたものを教えてください。お願いいたします。

以上が質問です。質問タイムが短く、残念ながら、この質問は紹介されませんでした。だから、この答えはまだ分かっていません。ネットでの記事や感想を読んでみると、「静子が船頭と不倫したのは、行動に移さない智一への当て付け」「虐殺の場で通訳したことで不能となった」などのコメントはありますが、あの形だけの夫婦関係をずっと続けさせた意図を監督自身の言葉で語っていただきたいと思っています(ま、脚本家の構想かも知れませんが… (^◇^;))。あのふわふわのまま、ラストは夫婦で渡し舟に乗って流されていきます。私はとっさに、何度も何度も見た映画「小さな恋のメロディ」のラストシーンを思い浮かべてました。トロッコを二人で走らせて教師らから逃れ、野原に消えていくメロディとダニエルです。ただ、香川で再会した信義とミヨと違い、澤田夫妻には明るい未来が感じられませんが…。

いろいろな意味で異色作です。公開館数がじわじわと増えているようですので、さらに多くの人が「福田村事件」に触れ、自国の黒歴史であっても冷静に見つめ、同じ誤りを二度と起こさないようになってくれればいいなと思っています。

追記(令和5年10月29日)
この「福田村事件」の、フォーラム福島上映は、私が見た10月12日が最終上映回であると告知されていたのですが、予想外なことにまだ上映が続いています。全国的に「確実な波」となってきたようです。今のところ、少なくても11月2日までは昼間1回の上映を行っています。

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