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ハガキ投稿という趣味があった頃

メインはハガキ

何か用事があれば電話やSNS等で済ませてしまい,昨今は封書やハガキを投函することがめっきりと減った。だが,Windows95が爆発的に普及する以前は雑誌社や放送局などに投稿する方法はハガキが最も一般的であった。言い忘れたが,私は1960年(昭和35年)の生まれである。ハガキ投稿にまつわる一つ一つの出来事が非常に濃く,そのときの気持ちにも触れながら細かく書きたいところではあるが,今回は初めてのnote公開でもあるので,まずは概観的にあっさりと書いてみたい。

憧れのニッポン放送

ハガキを投稿することにより,ラジオでお便り,お笑いネタが読まれ,それが全国に向けて放送されることを意識するようになったのは,ニッポン放送の「欽ちゃんのドンといってみよう!」を聞いてからである。地元・福島市のラジオ局では飽き足らず,バラエティに富むニッポン放送を毎晩聞くようになった。ローカル局から東京のキー局を聞くようになるとは,一種の中二病と言えるかもしれない。高島秀武のような人気局アナ,フォーク歌手たちが最新の音楽を流しながら,楽しげにおしゃべりをしていた。そして,「日本沈没」「怪人二十面相」のようなラジオドラマもあって,私にとってはラジオの黄金時代であった。ニッポン放送はパラダイスであった。その中でも輝いていたのが,コント55号を休止し,ピンでの活動をいろいろと模索中であった萩本欽一のリスナー投稿番組である「欽ちゃんのドンといってみよう!(以下,「欽ドン」)」である。

ラジオ版「欽ドン」

五千円の振込と、欽ドン宣伝用EP

多くの中高生が「欽ドン」にハガキを出しているようで,私も挑戦してみることにした。曜日ごとにハガキのテーマが決まっていて,私の投稿が初めて採用されたのが,「欽ドン・スクープ!」。芸能ニュースを基に架空でありながら,芸能界にありそうなネタを考えるものだ。何枚かハガキを出していたが,これで番組に採用され,欽ドン賞の五千円を獲得したのである。自分の作品がラジオで読まれ,中学二年生としては大金の五千円を手にしたのである。ただし,私はこの放送回を聞いていない。昭和49年7月9日,野球中継の巨人戦が長引き(川上哲治監督が判定に猛抗議して試合が長時間中断したから),ニッポン放送では流れなかったからである。翌日,他のラジオ局で「欽ドン」を聞いた知人から採用された件を聞くことになった。まさか自分の作品が読まれるとは考えていなかったので,ニッポン放送以外の他局で雑音混じりの「欽ドン」を聞くことまではしなかったのが悔やまれる。

「欽ドン賞」を獲得

そのときのネタは,「萩本株式会社が一株8,000円の大台に。エネルギー危機のために,胆石が燃料として見直されたためか?!」というもの。時事ネタというものは時代が変われば,何のことだか分からない。そういうものだ。蛇足を覚悟で説明すると,この頃は第1次石油ショックがあり,省エネやエネルギー危機という言葉が頻繁に叫ばれていた。また,日本経済が順調に躍進し,株価がぐんぐんと上がっていた時期である。そして,欽ちゃんが胆石の手術で一時休養した直後であった。それらを組み合わせて,上記のネタとなった。ハガキに書いた数行で賞金がもらえ,全国に自分の作品と名前が流れる…。この夢のような,ハガキ投稿のおもしろさに目覚めることとなった。

「糸井重里の萬流コピー塾」の頃

単行本第一号

社会人になってから本格的にハガキ投稿を再開することとなったのは,週刊文春の「糸井重里の萬流コピー塾」である。夏休みにサークルOB会(←英作文ゼミ。笑)で,時代の寵児・コピーライターの糸井重里が読者向けにコピー入門を始めたことを後輩から聞き,早速,投稿開始。学生時代には糸井さんの「ヘンタイよいこ新聞」やNHK「YOU」はマストアイテムであった。投稿開始したのは,昭和58年夏のこと。初めのうちは傾向がつかめず,なかなか採用されなかったが,少しずつ採用されるようになり,昭和61年には「名取」のランクとなり,「コピー塾」のことを教えてくれた後輩に名取の免状を見せることができた。ちなみに,コピー塾が始まったばかりの頃はラサール石井さんや小野正芳さん(浅草キッド・水道橋博士の本名)の名前も時々載っていた。この「コピー塾」投稿仲間は「萬流界」という親睦会を作り,主に都内でイベントを開いたり,月刊の会報誌を発行したりしていた。私は福島市在住のため,数回しか参加していないが,会員たちの命懸けで趣味に邁進する姿に心を打たれた。街中を仮装行列をしたり,バンドを組んで「イカ天」に出場したりする姿に,「真剣に遊ぶ」ことを教えられた。これについては,別の機会にまた詳しく書いてみたい。マイベストは,お題「卓球」での「こもれ,青春!」。

名取のお免状とお地蔵くんバッジ

「ダジャ協」へ流れる

週刊文春の編集方針変更により,「コピー塾」は平成を目前にして唐突に終了。「コピー塾」投稿者は路頭に迷うこととなったが,一部のメンバーは平成3年から始まったアサヒ芸能の「三遊亭小遊三ダジャレ芸術協会(ダジャ協)」へ雪崩れ込むことになる。国際プロレスが崩壊して,新日本プロレスや全日本プロレスの狭間を行き交う国際血盟軍のようなものである。小遊三さんから毎週「野菜」「漫画のキャラクター」「職業」のような課題が出され、それに関係ある言葉でダジャレを作るコーナーであった。定期的に投稿はしていたが,投稿コーナーの常で,常連さんのネタが次第にタコつぼ化し,一般の読者には理解不能なページとなってしまい,読者アンケートの結果から数年間で打ち切りとなる…というありがちなパターンに突き進んでいった。マイベストは,お題「ボクサー」の「家庭フォアマン」(←勿論、「家庭訪問」のダジャレ)。

浅草キッドの「アサヒ芸能人」へ

最初の単行本「バカ丼」
アサヒ芸能に連載されている「アサヒ芸能人」

「ダジャ協」に限界を感じていた頃に,同じ週刊アサヒ芸能に連載中の「浅草キッドの週刊アサヒ芸能人」へ目が向くこととなる。芸能人が実際にやらかしそうな事件をでっち上げるコーナーだ。たけしさんやたけし軍団は大好きであったし,「スーパーJOCKEY」も「テレビ演芸」も見ていて,しゃべりのできる浅草キッドにはとっても興味関心があった。平成5年の春頃から投稿を開始する。採用されれば,ニッポン放送の「奇跡を呼ぶラジオ」でキッドに読んでもらえ,アサヒ芸能誌に掲載され,最後にナンシー関の消しゴムハンコカードがもらえるるという一粒で三度おいしい投稿である。前述の「コピー塾」「ダジャ協」は本名での投稿のため,私は下ネタ等を封印しなければならなかった。なぜならば,ずっと小学校に勤めていたので,下ネタや政治ネタで保護者や教育委員会ともめ事を起こしたくなかったからである。ところが,「アサヒ芸能人」はペンネームでの投稿が可能であったので,大好きな劇作家・井上ひさしに勝手にあやかった「井上もやし」をペンネームにタブーなき投稿を続けた。単行本「バカ丼」に掲載していただいたり,「奇跡を呼ぶラジオ」最終回でニッポン放送の銀河スタジオにも呼んでいただいたりした。この辺のことは,後日,詳細に書いてみたいと思う。マイベストは「原日出子と結婚した渡辺裕之。プロポーズの言葉は『わいと,一発』だった!」。

ナンシー関さん制作の消しハンカード

雑誌連載が続かない,私の根気も…

アサ芸関連誌の投稿コーナー

ラジオで浅草キッドにハガキを読まれることに大きな幸せを感じていたため,「奇跡を呼ぶラジオ」が終了すると,徐々に熱が冷めてしまい,アサヒ芸能にはほとんど投稿しなくなった。コンビニでアサヒ芸能を立ち読みすると,「アサヒ芸能人」の連載が現在も続いていて,私が知る当時の常連さんが採用作のうちの4分に1くらいを占めているのを見ると尊敬の念をいだいてしまう。その後は,アサヒ芸能で連載されていた北野誠の「全日本言い訳グランプリ」,なぎら健壱の「平成ことわざ脳力塾」,姉妹誌の月刊アサ芸エンタメ!連載の「松尾貴史の有名人キャッチフレーズ」などに細々と投稿してきた。

最後に

パソコンやスマホで瞬時に投稿ができる時代となり,ハガキ投稿やハガキ職人などの言葉は今となっては死語である。時の流れは残酷で,入力方法の多様化で「キーボード職人」という言葉さえ使われなくなった。昔は,都内と地方との時間差,つまり,地方は都内よりも雑誌が発売されるのが数日遅れ,おまけに郵送するとなるとまた余計に日数が掛かることに泣いて我慢するしかなかったが,通信や物流の発展で,このハンデはかなり縮まったように感じる。定年退職を迎えて,ほぼ無職となった今,次は何に投稿しようか。


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