普通とは何か?
インスタで友人の大学卒業しました〜投稿を見て思った。
写真は卒業証書を持った友人と家族との写真でこの時期によく見る投稿である。
普通とは、という問答はかれこれ2000回くらい繰り返している。
スタイル、個性、これらを考える中で自ずと行き着く『普通』。
普通だったらこうするけど、こうしたら?
普通はこうだからこっちに逆張りしたら面白い?
こんなことばかりを考えている。
しかしその基となる『普通』は何なのだろうか。
一定のものではなく、その時々に変わる無色無形の定規のように感じる。
または自分がこれまで生きていきた中で蓄積されていった経験則に基づいて出来るフレーム。
そのフレームに沿って普通か否かをジャッジする。
さて冒頭に戻るが、友人の投稿を見てこう思った。
普通に就活して普通に大学卒業してたら楽だったんだろうな。
家族に普通、安定した安心を与えられて親孝行にもなったんだろうな。
定まった生活は幾許か心が楽だ。
社会の一般的なレールに沿っていけば、ひとまず不安なことはないだろう。
自分のような心が弱い人間にはそちらの方が向いていたかもしれない。
ただそういう生き方だとか大多数の方向に向かって歩くことに何かひっかかりを感じてしまう。
そう、厨二病か捻くれ者だ。
『普通』はしばしば『一般』『常識』などと置き換えられる。
学生の頃に普通ではない/貴重な経験をしてきて、自分は普通じゃないかもと勘違いしてしまったのではないのかと思う。
人と比べることで普通という概念が形成される。
比べることで違い、差がわかる。
その差に優越感を感じていたのかもしれない。
優越も比較。
比較は本当に厄介なものだと思う。
基本的に比較が人間の感情を左右しているような気がする。
わかっているはずだが、いつの間にか人と比較する自分がいる。
仕方のないことだ。
学校や社会からずっと『比較』を刷りこまされて生きてきたから。
しかし学校や社会は悪くない。
比較しなければ抽象的すぎて訳がわからなくなるから。
しかし外国人と日本人の思考特性の違いはここで生まれるのだろう。
周りと違えばおかしいと思う環境。
謙虚さと働きすぎが美徳とされる日本。
普通に馴染んで寄り添っていける人間も
普通という重圧に耐えられる人間も強い人間なのだと思う。
どっちつかずの自分は中途半端だ。
集団行動をしつつも、どこかで馴染みきれない。
一歩踏み違いたい、でも踏み切れない自分です。
あ、別に病んではないです。
才能云々とかではなく、自分には大多数の普通は受け入れられない、
なんか無理だな〜という話でした。
普通じゃないってのが何なのかもよくわからないけどね。
普通への憧れと普通でないことへの憧れのシーソーゲーム。
友人よ、卒業おめでとう。
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