【小説】遺言状・ザ・ベスト 第6話.少年と火
旅行から帰って3日、遺言状を書き上げた僕は家の近所の河川敷にいた。街全体が寝静まった夜、周りには誰もいない。僕の目の前には大きなドラム缶と家から運んできた灯油がある。
僕は灯油を頭からかぶる。臭い。最悪に近い気分だ。耐え難い匂いが鼻腔を刺激する。僕はその匂いから逃げるようにドラム缶の中に入り、ポケットから取り出したチャッカマンで服に火をつける。指先ほどの大きさだった火は一瞬にして身体全体を包み込む炎へと変わり、上へ上へと昇っていく。
全身が焼けるように熱い。実際に焼けているのだから当たり前だけれど、本当に焼ける感覚というのは今初めて知った。どんどんと身体が失われている感覚だ。足の先から頭のてっぺんまで炎に包まれ、まさに火だるまといった状態。僕は静かに目を閉じ、身体が燃え尽きるのを待つ。遺言状は、学校に提出することは出来ないので自室の机の上に置いてきた。恐らく、母が一番最初に読むことになるだろう。
中々の自信作だと思うけど、あれを読んだ人はどう思うだろうか。それを知ることはできないし、知る権利もない。
自分の命が炎へと変わっていくのを感じながら、僕は頭の中で自分の書いた遺言状を思い返した。
拝啓、僕の周りの方々へ
誰かがこれを読んでいるということは僕はもうこの世にはいないでしょう。周りの方々にとっては僕の死は予想だにしない突然のことだったかもしれません。まずは感謝と謝罪とお別れを、今まで僕のことを大事に想い接してくれてどうもありがとう、僕の死が誰かを悲しませてしまっていたらすみません、さようなら永遠に。僕の死は、僕の決断と結果です。どうか悲しまず、僕のことは気にせず日々を過ごしてください。
この遺言状を書くにあたって、僕は多くの日々を費やし多くのことを考えました。今まではただの宿題としか思っていなかった遺言状ですが、今はその意味を理解しているつもりです。遺言状は、故人からの文章。書いた本人が死んでいなければ、遺言状としては成り立ちません。この文章は、僕の命をもって遺言状に成ります。
この遺言状を書く直前に行った旅行では、今まで見たことのなかった海や山、都会、川を見て、色々な人に出会いました。その経験を経てことで今この文章を書くことが出来ています。そんな旅行の中で僕が考えていたことは二つ、『人生』と『生きる意味』です。人生とはなんなのか、生きる意味とはなんなのか、色々な物を見て色々な人と話し、答えを見つけようとした旅路でした。最初はそんなこと考えてはいなかったので、だいぶ時間を無駄にしてしまいましたが。
旅の途中で出会ったある人は言いました。人生はただの流れ作業だと。同じことの繰り返し、供給して消費してまた供給して、その繰り返しこそが人生だと。僕はその人がまるで檻の中にいる囚人のように思えました。またある人は言いました。人生は川みたいなものだと。逆らえない時間の流れにどう身を任せるか、どうやって自身が心地のいいように流されるか、どうやって泳ぐかこそが人生だと。僕はその人がまるで草船のように思えました。またある人は言いました。人生は木のようなものだと。みんな誰かと関わりながら強く生きていく、けれど死ぬときは誰にも見向きもされずに醜いと。僕はその人が鉢植えのように思えました。またある人は言いました。人生は劇のようなものだと。自分は劇の主人公で、それを誰かに見てもらうから意味があるのだと。僕はその人が光に集まる虫のように思えました。
出会った人はみんなそれぞれの全く違う人生観や生き方を持っていました。同じ国に生まれた同じ人間、それでもそれぞれ違うことを経験し、違う考えを持つ。僕はそれこそが人生だと思います。
僕の今までの人生は、投げ上げられたボールのようなものです。生まれた瞬間に空高くへと投げられ、真っ直ぐと地面に向かっていく。なんの障害もなくただただ落ち続け、やがて静止する。これこそが、この考えを持つことこそが僕の人生だと思います。
しかし、色んな人の人生を知って、自分の人生についても考えても、『生きる意味』とはなんなのかは分からなかった。それぞれ全く違う人生を歩み、違うものを目指す。その意味はなんだろうか。その答えだけはどうしても見つかりません。
その中でふとあることを思いました。そんなものは最初から無いのかもしれない。生きる意味について考えても無駄なんじゃないかと。無いものについて考えてもしょうがない。そう考えた時に気づきました。どの人生も行き着くところは同じということに。
囚人のような人生を送ればその先に理想や希望があるのかも分からないままやりたくないことをやり続けて楽しくもない時間を過ごし、満足いかず贅沢もできない生活を続けなければならない。草船のような人生を送れば難しいことは考えなくていいけれど、時の流れに流されるだけで自分で進む道を決めることができず、勝手に進む方向を決められる。たとえそれが理想から遠のく道だとしても流され進み続けなければならない。鉢植えのような人生を送ればある程度は自由に伸びることはできる。でも、ある程度までしか成長できないことは分かり切っていて、最初から自分の大きさを決められた状態で、最後には成長を諦めただ枯れるのを待たなければならない。光に集まる虫のような人生を送れば強く光る希望見つけることはできるけれど、それを信じて目指したところで何も手に入らずに目指すだけで終わってしまう。
どの人生もただただ死に向かっていくことだけが共通している。死を待ちながら生きて、生きながら死を見据える。どの人生にも先が無く、みんな希望を持っているように見えてゆっくりと絶望している。そんな人たちばかりです。恐らく今の大人はみんなそんな感じなのでしょう。
自分なりの経験を積んで気づいたことはそんなこと。人それぞれの人生があり、生きる意味なんて無いということ。そんなことを知りながらどうやって生きれば、何故生きなければいけないのか。そんな疑問が湧いてきます。
誰だって理想の生き方をしたいのに誰もが理想に生きられない。映画の主人公のように生きて、大木のように人に優しく力強く、澄んだ川のような心地よい時流に乗って、努力と成長を繰り返す。そんな誰にとっても理想的な生き方が誰にもできない、そんな世界が広がっているのが今の世の中でした。
生きる意味が無いのなら、生きた先がただの絶望ならば、何故頑張って生きなければいけないのか。頑張って生きる意味が無いことにみんな気づいているから最近は自殺者が増えてるのかもしれません。
僕にとっての理想の生き方は、『火』です。火のような人生こそが僕の理想。いつか消えると分かっていても、周りを照らし温め続け、上へ上へと昇り続ける。今のボールのような人生とは真逆な生き方こそが理想です。延々と落ち続けている今の僕には実現できそうにはありませんが。
ここまでが僕の経験と死ぬ理由、どうせだから最後は自分の理想に近づくために、火に包まれて死のうと思います。生き様とは真逆の死に様で自分の理想を体現してみることにする。調べてみると、焼身というものには色々な意味が込められているらしいけれど、政治的・宗教的な意図は全くないのでそういうことは気にしないでほしい。僕の焼身はただの自己満足です。
最後に、できればでいいのですが、この遺言状をある小説家にも見せて欲しいです。この遺言状の傍にある小説を置いておくのでその作者の方にコピーを送ってください。恐らく、まだ生きてらっしゃると思うので。プロの小説家に自分の遺言状を評価してもらうのは中々ドキドキしますが、読んでみたいと言っていたので読ませてあげてください。
それでは、お父さんお母さん、友達の皆さん、その他諸々の僕と関わってくれた方々、さようなら。あの世という場所があればそこで会いましょう。
敬具 志島 嶺
炎に包まれながら、遺言状の内容を振り返る。自分の考えと伝えたいことを何度も考えて書いてみたけど、厚みのある遺言状になっているだろうか。少し不安だけど、これが僕の人生であの遺言状が僕の人生の結果だ。良い遺言状になっていることを願おう。
嶺を養分にして大きくなった炎は夜明けには消え、灰だけが残っていた。これが火のような人生を願った少年の、人生の意味。
人には人の僕には僕の、人生色々あるけれど、まっすぐ行くか紆余曲折あるか、それも人それぞれだけど、結局最後は灰になる。
灰になることに意味があるのか、灰になるまで人意味があるのか、そのどちらにも意味はないのか、それは誰にも分からないのに、今日も誰かが生きていく、今日も誰かが死んでいく。
そんな空虚な世の中が、今日明日も続いてく。
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