【小説】遺言状・ザ・ベスト 第3話.どエロい女と川
東京で数日過ごした僕は、今、大きな川を見つめている。僕の目の前にある巨大な川は、日本三大河川に認定されているらしい。こんなに大きな川を見たのは生まれて初めてだ。大きすぎて水が停滞しているのか、しっかりと流れているのか判別がつかない。水に浮かぶ木やゴミが一方向に移動しているからきっと流れているのだろう。
東京での生活は、疲れた。生活と言っても数日間ホテルに泊まっただけだけど、せっかく都会に出てきたのにずっとホテルにいるのは勿体ない気がしたから、昼間は出歩いて、美味しいと話題のラーメン屋に行ってみたり、東京のシンボルとなっている電波塔を両方見に行ったりしてみた。食べ物は美味しいし、田舎には無い人工物に囲まれた風景にはなんとなく心躍ったが、とにかく疲れる。
上を見上げれば人工物、目の前をみれば人の群れ、常に何かしらの音が鳴り響き、それが誰かを楽しませるための音だったとしてもそこにいる多くの人間は陰鬱とした表情で歩き続けている。
目を休めようとしてもどこに目を合わせたらいいか分からず、カフェに座っても人の波に置いて行かれているような気がして、そんな都会の空気に喰らってしまった。自分にはまだ早かったのかもしれない、もしくは慣れていないだけか。
そう思って、昨日からは大きな川沿いにあるホテルに移り、少し足を伸ばして河川敷に座っている。ここは東京と違って空気に喰らうことはない。
遠くには高層ビルが立ち並ぶ東京の街が見えるが、ここに人は多くない。川沿いを歩く人も走る人もどこかを目指しているというよりは、どこかへ帰っていくような足取りで、安心感がある。
ゆっくりと流れる水、その水が流れる音や打ち付ける音、風になびく木や草の音、久しぶりに聴いた。昨日までいた都会には無い空気と音を肌と耳で感じる。
もし、将来的に一人暮らしすることになったらこういう場所が良いな。そう思いながら、自分史上最大級の川を眺める。
「君、大丈夫?」
急に声をかけられて振り返ると、若い女性が立っていた。見た感じ、25歳くらいだろうか。若さと大人っぽさが同居しているような人だ。
「え? いや、普通に大丈夫ですよ」
「ごめんね、急に声かけちゃって。なんかずーっとボーっと川見つめてるから大丈夫かなって思って」
そう話す女性はとても綺麗な人だ。顔は整っていて透明感がある。声はクリアで聞きやすい。そして、その身体は僕の目線を惹きつけ、僕の返答を一瞬遅らせた。
「あぁ、すみません。ちょっと考えごとしてただけです」
「ほんとにー? 最近、この川で流されてっちゃう人多いから心配なんだよね」
「大丈夫です、川に入る気はないですから」
この川がそんなスポットだとは知らなかった。確かに河川敷と川の間に柵はほとんどないし、入りやすそうな川ではある。
「君、高校生? この時期ってもう夏休みなんだっけ?」
「あ、はい。夏休みです」
「いいねぇ、高校生は夏休みあって。この辺の学校?」
「いえ、今は旅行に来ていて。住んでるところはここじゃないです」
「旅行? こんなところに旅行なんて珍しいね。家族と?」
「いや、一人で」
「一人!? 珍しいねぇ、高校生で一人旅なんて」
お姉さんは見覚えのある反応で驚いた。やはり高校生で一人旅は結構珍しいことなのだろうか。
「高校生で一人旅で、川を見つめてるなんていかにも悩みがあるって感じがするね」
「いや、別に悩みってほどでもないですよ。普通の旅行です」
「まぁまぁ、少年。話くらいは聞いてあげるよ。座るね」
僕の隣にお姉さんが座る。正直、困る。初めて会う人にこんなに距離感詰められて困るっていうのもあるけど、お姉さんのことを見れない。いや、さっきから見ちゃってはいるんだけど。直視したいけど理性がそれを抑えるような、自然と目に入ってくるけど不自然に逸らさなければいけないような。
正直に言うと、お姉さんの身体がエロい。オーバーサイズのTシャツにデニムのホットパンツを履いているお姉さんの身体が描く曲線は、全ての部分が僕の目線を惹きつける。
僕はなんとか興味と性欲という本能に抗って目線を逸らす。こういうのはあまり見ちゃいけない、見ると女性からは嫌われるとネットに書いてあった気がする。
「で、なんで一人旅なんてしてるの?」
僕の目線と思考に気づいているのか分からないが、お姉さんは話を続けてくる。どうか気づいていないで欲しい。
「本当に大した理由はなくて、旅行なんて行ったことないから行ってみたいなって思っただけです」
僕は少しだけ嘘をつく。初対面の大人な女性に対して「遺言状に悩んだから旅に出てます」なんて言えない。
「そうなの? で、旅行に来て川を見つめてるの?」
「まぁ、そうですね……。こんなに大きい川見たことなかったんで」
「なるほどねぇ、ここが目的地にして来たわけじゃないんだ」
数秒の沈黙の後、お姉さんは口を開いた。
「実はね、川を見つめる君を見て、もしかしたら、死ぬつもりなんじゃないかって思ったの」
「はぁ、確かにそう見えるかもですね」
「こういう世の中だからいてもおかしくはないんだけどねぇ、ただ君は若くて未来がありそうだったから声かけちゃった」
お姉さんの表情を見ることはできなかったが、恐らく本当に少しは心配してくれたのだろう。なんだか申し訳なく思う。
「なんか勘違いさせちゃって、すみません」
「いやいや、私の早とちりだったみたいだから、こちらこそごめんね」
川沿いで頭を下げ合う男女、異様な光景化もしれない。頭を下げた時、男を魅了する谷間が目に入ったので急いで目を逸らす。
「今の高校生って、何が流行ってるの? インスタとか?」
「インスタはあんまりやってる人いないですね」
「じゃあ、YouTubeとか?」
「うーん、好きな人は見てるかもしれないですけど、流行ってるって感じではないです」
その後もお姉さんは色んなSNSや動画サイトの名前を挙げてくれたが周りで流行っているものは一つもなかった。どんな音楽が流行っているのか、友達といつもどんな話をするのか、学校行事はどんな感じか、学校は楽しいか。お姉さんは学校や流行りについての話を振ってくれたが、僕は会話を盛り上げることができない。
いや、盛り上げることが出来ないというよりは、お姉さんの話題についていけない。振ってくれた話題に返答できるだけの事実がなかった。
「ふーん、なんか今の子って無趣味なんだね」
「そうなんですかね、昔は違ったんですか?」
「私が高校の時はみーんなインスタで美味しいものあげたり、友達とどっか行ったーっていうのを載せたりしてたし、流行りの曲でダンスしたりしてたよ。今の子はそういうの全然ないんだ?」
「いや、全くないですね。少なくとも僕の周りでは」
「ふーん、そうなんだ……」
お姉さんは何かを考え込むような顔で黙った。知らない人と一緒にいる時、こういう沈黙が意外と辛い。なんとか沈黙を裂く話をしたいけれど、先ほどの会話でお姉さんと僕の間には大きなジェネレーションギャップがあることが分かった。そんな中でどんな話をすればいいのか、黙り込んだお姉さんの横で、僕は考えを巡らす。
「そういえば、お姉さんは何の仕事をしてるんですか?」
相手が大人なら万人に通用しそうな話題を振ってみる。
「仕事? あー、なんというか、夜の仕事かな」
よりによって一番触れにくい職種だった。話題を振ったくせに今度は僕の方が沈黙を生んでしまう。夜の仕事って、どこまで聞いていい事なんだ、と色々考えていると、今度はお姉さんの方から口を開いた。
「君さぁ、彼女はいる?」
「いや、いないです」
「そうなんだ、じゃあさ」
お姉さんは少し間をおいてから、真面目な顔でこう言った。
「セックス、してみる?」
それから、数時間後、夜、僕は今お姉さんが住んでいる部屋のベッドに座っている。
もちろん、性行為の誘いを受けてからすぐに了承したわけではない。初対面の人とそういうことをするのはなんか良くないと思うし、補導とかされたらどうしようという不安も少しはあった。
でも、高校生で思春期真っ盛りな僕にはそれなりに性欲があるし、セックスへの憧れもある。そして何より、こんなに性的な魅力に溢れる女性からの性行為への誘いは、僕の理性や迷いを吹き飛ばした。
河川敷からお姉さんの部屋に行くまでの道中、お姉さんの名前が二階堂 舞衣(にかいどう まい)であること、いわゆる風俗店で働いているということ、一人暮らしで旦那さんや彼氏さんはいないこと、舞衣まいさんについての色々な話を聞いた。でも、今から行われることやなんで誘ったかについては一切教えてくれなかった。
到着する前に予約していたホテルにキャンセルの連絡を入れ、夜ご飯に焼肉を奢ってもらった。東京で会った幸さんの言っていた通り、焼き肉はパニーノとは比べ物にならない値段がした。
緊張と興奮と多少の不安に押しつぶされそうな僕の下に、シャワーを浴びた舞衣さんが歩み寄ってくる。歩み寄り、隣に座り、お互いの身体が少し触れているくらいの距離感で、口を開く。
「じゃあ、やろっか」
その後にした会話は、
「ゴムはつける?」
「はい、一応、危ないので」
「ふふっ偉いね」
「もう少し、下」
「わ、かりました」
という2回だけで、それ以外ははっきりとした言葉にもなってない声と息を交わしただけだ。初めてのセックスは、気持ちいいかどうかはよく分からなかったけど、人の熱を感じた。あと、普段使わない筋肉を使わなきゃいけなかったから、体力的にしんどかった。
舞衣さんとセックスをした翌朝、舞衣さんの隣で、僕は起床する。昨夜、今までやったことのない運動をしたせいだろうか、足を中心に筋肉痛で身体全体が重い。
思いがけずとんでもない経験をしてしまった。一晩経って改めて実感する。
セックス、しちゃった。
僕が身体を動かしたためか、舞衣さんが目を開けた。
「あれ? 嶺れいくんが先に起きてたか。ベッド狭かったでしょ、身体痛くない?」
「全然大丈夫です」
咄嗟に強がってしまった。本当は筋肉痛が割とキツイ。でも、たとえ相手が経験豊富な年上でも男としてちょっとはカッコつけていたい。たとえ昨夜、リードと手解きをしてもらった相手でも。
その後、舞衣さんはシャワーを浴びて、目玉焼きとベーコンが乗ったトーストを作ってくれたのでありがたくいただく。
なんとなく気まずくて会話ができない僕は、与えられたものを俯きながら咀嚼する。舞衣さんはそんな僕を気にする様子はなく、ボーっとスマホを眺めながらコーヒーを飲んでいる。
気まずい、何か会話をしなきゃいけない気がするけど、話す内容が全く浮かんでこない。
「セックス、どうだった?」
気まずい沈黙が、更に気まずくなる質問によって破られる。
僕は少し考えた後、意を決して口を開く。
「良かった、です。なんか熱を感じて。でも、正直よく分からなかったです」
「そう? 気持ちよくなかった?」
「いやっ、なんというか、気持ちよかったと思うんですけど、初めての感覚過ぎてよく分からなかったというか」
「そっか、まぁ初めてなんてそんなもんだよね、終わっちゃえばあっという間というか。でも、好印象だったみたいで良かった」
それから少し沈黙。今度は僕の方から、僕はもう一度意を決して口を開く。
「あの、なんでこういうことさせてくれたんですか?」
「うーん、なんだろう、なんとなく、というか。あ、誰とでも見境なくしてるってわけじゃないから誤解しないでね、えっとね」
舞衣さんは少し考えた後、僕を誘った時と同じ真面目な顔で口を開く。
「今の高校生の話を聞いたから、かな」
「高校生の話……?」
僕にはなんのことかさっぱりだ。高校生の話を聞いたから、見ず知らずの高校生とセックスする?
「言葉で説明するのは難しいんだけどね、昨日君から今の高校生の間で何が流行ってるのかとかどんな会話をするのかとか、そういう話を聞かせてもらったじゃん?」
僕は黙って頷く。
「その話聞いて、今の若い子たちって窮屈で可哀想だなって思ったの。思春期真っ只中の高校生の間で流行ってるものが無いなんて、君たちからしたら普通なのかもしれないけどおかしいよ」
唐突に、哀れみと悲しみを混ぜたような深い目で語るお姉さんの話を黙って聞くことしかできない。
「私たちの頃は活発な子とか大人しい子とか色々いたけど、ほとんどの子が流行りに乗ったり趣味があったり学校行事に熱中したり、楽しみを持って生きてた。でも、今の子たちは楽しみが無いように見える。今のこの世の中と雰囲気に、子供たちも飲まれちゃってるのかなってそう思った。それに、」
舞衣さんは僕の目を見た。
「そんな空気の中で、一人で旅行して、何もない川沿いにいた君から話を聞いて、今の子たちは楽しみが無くて窮屈な思いをしてるのに、本人たちはそれに気づいてもいないんだって思ったんだよ。だから、私が君の楽しみの一つにでもなれたらいいなって思って誘ってみたんだ」
「そう、なんですか」
意外と、と言ったら失礼だけど舞衣さんがここまで考えて僕のことを考えていてくれたことにびっくりする。歳がそこまで離れていないから今まで精神年齢も大体一緒だと思っていたけど、急に舞衣さんのことが大人に見える。
「昨日会った時にも言ってたけど、川沿いにいるだけで自殺するんじゃないかって思うぐらい覇気も生気もないんだよ、君は。バリバリの高校生なんだからもっと生気を漲らせなきゃ」
「はぁ、そんなこと言われても困るんですけど、頑張ります」
僕は急に失礼なことを言われて気の抜けた返事しか返せない。
それにしても、今の高校生には楽しみがなくて、僕には覇気と生気が無い、か。そんなこと全く思ったことも言われたこともなかったけど、大人から見ればそう見えるのかな。それとも、舞衣さんは特別で、大人の中でも感受性が豊かだからそう感じるのだろうか。
「まぁ、そんな感じだよ。真面目な話しちゃってごめんね。余計な心配だったかもしれない」
「いや、心配してくれてありがとうございます。そんな考えてくれてたなんて」
「いやいや、こっちが勝手に誘ったんだから気にしないでー。とりあえず嶺くんは何かに思い悩んでいるわけじゃなくてよかったよ」
そう言われて、昨日舞衣さんについた嘘を思い出す。昨日、僕は舞衣さんから旅行の理由を聞かれ、「旅行なんて行ったことないから行ってみたいなって思っただけ」と答えた。これは嘘で、本当の理由は遺言状のためだ。
今になって舞衣さんに嘘をついたことを後悔する。舞衣さんは僕の話を聞いただけでこんなに僕を心配してくれて、セックスまでさせてくれたのに、僕は「変に思われるかも」というだけの理由で嘘をついてしまった。それを今更申し訳なく感じる。
それに、今なら舞衣さんに正直に話してもいいと思えてくる。こんなに優しくて人のことを考えてくれる人なら変に思ったりはしないだろう。
僕は少し迷った後に昨日の嘘を訂正することにした。
「あの、昨日話した旅行の理由なんですけど、あれ嘘です」
「え? 旅行に行ってみたいからってやつ? そうなの?」
「はい、すみません。旅行に行ってみたいっていう気持ちも無くはないんですけど、本当はもっと別の理由で旅行することにしたんです」
「それって、聞いていいやつ?」
「はい」
僕は一息吸い込み、少し間を置く。
「本当は、その、遺言状を書くためでして」
「……どういうこと?」
理解されないのも無理はない。僕は今高校で行われている遺言状制度に関して説明する。
「……っていうのがあって、それを書くのに迷っちゃって。人生の意味とか、なんのために生きるのかとか、そういうのを考えるのに僕は経験が全然足りないなって思って、それで一人旅でもしようかなって思ったんです」
「なるほどねぇ、今の高校生ってそんなことしてるんだ」
少し考え込むような顔をして、舞衣さんは呟いた。やっぱり変に思われたりはしなかったようだ。舞衣さんを信用してよかった。
「答えは出た?」
「いや、まだまだ全然です」
「そっか、そうだよね。高校生が考えるにしては難しすぎるよね」
舞衣さんはそう言ってから立ち上がり、机の上の食器を片付け始めた。僕も手伝おうと思って立ち上がったけど、やんわりと断られ、手持ち無沙汰になってしまった。
舞衣さんが食器を洗い終わって、お互い歯磨きを済まして、朝ごはんを食べた時と同じ場所に座る。もうこれ以上やることはない。後は僕がここから出ていけばこの関係も終わる。一宿一飯一性行為だけだったけど、とても濃厚で長い時間を過ごした感覚だ。
そう思って出ていくタイミングを見計らっていると、舞衣さんは僕の方を見て、
「私、人生っていうのはさ」
と話し始めた。何を言われるのかは分からないけど、舞衣さんの目見て真面目な話だということは分かる。
「川みたいなものだと思うんだよね」
「川、ですか?」
「そう、川ってさ、たまに氾濫したりする時はあるけど一方向にずっと流れていって、その流れは普通止められないじゃん? 人生もそれと同じだと思うんだ。人生もずっと一方向に時間が流れてて、それを止めることはできない。その時間に身を任せちゃうのが一番楽なんだよ」
舞衣さんは話すというより語る感じで続ける。
「その流れの中で、どう逆らうか、どうやって流れを変えるか、自分にとって心地の良い流され方をするかっていうのが人生。大元の流れを変えることなんてできないけど、自分がどう流されるかを決めることはできるから人生は十人十色なんだって思う」
「時間っていう川に流されることが人生、ってことですか?」
「そういうことだね、今までの君がどう流されてきたのか、どう泳いできたのかは分からないけど、これから、若しくはこの旅行でで色々経験して、考えれば考えるだけ良い泳ぎ方が見つかると思うよ」
そう言うと舞衣さんは真面目な表情を崩し、笑う。
「なんてね、嶺くんが意外と大きい悩みを持ってたから私も真面目に考えちゃった。あくまで私が思ったことだから参考程度に聞き流しといてよ。あ、ちなみに、人生が川みたいなものっていうのは前に読んだ小説に書いてあった表現で、それをモロパクリしちゃった」
どうやら急に真面目な話をして恥ずかしくなったらしく、少し早口でそう言った。さっきまでの真面目な語りとはずいぶんと違う。そんなギャップがとても可愛らしい。
そんな舞衣さんを見ながら、先ほどの舞衣さんの話を咀嚼する。人生は川、確かにそうかもしれない。運命という言葉があるように、その人の人生は生まれた時点である程度決まっている部分がある。どんな川に生まれるかは誰も選べない。でも、自分が生まれ落ちた川でどんな泳ぎ方をするのかは選べる。きっとその泳ぎ方によって人生に厚みが出るんだ。
舞衣さんは見た目や職業のイメージと違い、深く硬く繊細な考えを持っている。一体どんな泳ぎ方をしたら舞衣さんみたいな人が出来上がるのだろう。
「舞衣さんはどうやってその川を泳いできたんですか?」
「私はね、そうだなぁ、全然泳ごうともしてないよ。流されてただけ」
そんなわけはない。ただ流されているだけで舞衣さんのような人物が出来上がるわけはない。
僕はそう思ってもう一度聞いてみる。
「僕には、そんな風に見えないんですけど、謙遜ですか?」
「いやいや、謙遜じゃないよ。本当に流されただけなの」
一呼吸おいて、舞衣さんは少し遠い目で話す。
「私さー、別に今の仕事しかできなくて今の仕事してるわけじゃないんだ。他にできる仕事も今より楽な仕事もあったんだけど、普通の生活をしたいから今の仕事してるんだよね」
「普通の生活って、今のこの生活ですか?」
「そう、都会の近くに一人暮らしで部屋借りて毎日ちゃんと食べてちょっと本読んだりしてっていう生活。それが今じゃ他の仕事だとできないんだよ。簡単に言うと稼げるから夜の仕事してるってこと。高校生にする話じゃないかもだけど、私の思う普通の生活をするには身体で稼がなきゃいけない社会なんだよね」
高校生の僕にも今の社会があまり良い流れではないことは知ってる。でも、こうやって現実味を帯びた話を聞くのは初めてだ。
「今の生活に大満足ってわけじゃないけど、そこそこの生活をできてると思ってる。私は、普通の生活をするために、ただ時世に身を任せてこうなってるだけ。泳ぎ方がーとか流され方がーとか偉そうに言っちゃったけど、あんまり私のことは参考にしない方がいいよ」
なるほど、舞衣さんは人生ではなく社会という流れに身を任せてしまったみたいだ。僕にとっては意外な事実だったけど、もうそれが当たり前になっているらしい。必死に泳いでるように見えてもただ流されているだけの人が、大勢いるのだろう。
「そうなんですか、でも、僕は舞衣さんのことすごいと思います。なんというか、ちゃんと自分で道を決めてる感じがして」
「そうかな? ありがとうね、高校生に褒められると嬉しいけどなんか恥ずかしいな」
舞衣さんはまた少し恥ずかしがった。やっぱり可愛い。
そう思っていた僕の視線に気づいたのか、舞衣さんはいたずらっ子みたいな笑みを浮かべた。
「褒めてくれるのは嬉しいけど、一回セックスしたからって人のことを好きになったりしたらダメだぞ」
自分でも意識してなかった本心を急に突かれ、今度は僕の方が恥ずかしくなる。あんな体験をさせてもらって好きになるななんて、非情じゃないか。
その後、少し雑談をしてから僕は身支度をし、舞衣さんの部屋から発つことにした。濃密な時間を過ごしたこの部屋ともお別れだ。舞衣さんは玄関先まで僕を見送ってくれた。
「じゃあね、嶺くん、一人旅気をつけて」
「はい、ありがとうございました。色々と」
「あはは、私が言っても説得力ないけど知らない女の人に誘われても簡単に付いていっちゃダメだよ。美人局とかもあるからね」
「……肝に銘じて置きます」
少し悪そうな笑みを浮かべて説得力のない注意をしてくる舞衣さんに、僕は苦笑いをしながら少し安堵する。舞衣さんが悪い人じゃなくてよかった。もし、悪い人だったら今頃身ぐるみ剥がされてフルチンで川に捨てられてたかもしれない。
舞衣さんに別れを告げて、アパートを出る。とりあえずの行き先は、昨日予約を変更したホテルだ。今も時間は川のように流れている。僕はこれから、どうやって流されようか、どうやって流されることができるのか。それを考えなければならない。
昨日も眺めた川を見ながら考える。逆らうことができない流れに、僕は囚われている。
Twitterで繋がりたい。
『藻野菜/@Moroheiya0225』