〜価値について考える〜 2024/08/26
今日は辛い一日だった。何がとは言えないけど、「これはおかしくないですか?」ってメールを送ったり「それはおかしくないです」というメールを返されたり。楽しかった昨日が嘘のように、一日中うーんうーんって思い悩んで結果良くないことになってしまった。
良くないことが起こった結果、親に迷惑をかけてしまう結果となった。最悪だ。なるべく親に迷惑はかけたくないのに、こんなことになってしまって申し訳ない。
一日中悩んだり相談したり考えたりしてたから今日やったことの記憶があまりない。多くの時間を悩んでいた。でも、ちょっとnoteを書いた。
あと、犬の世話もした。いつも通り、何回か遊んで、おやつあげたりブラッシングしてあげたり歯磨きをしてあげたり。犬はこっちがどんな気持ちでどんな状況でもいつも同じように接してくれる。気を遣ってくれる人間より正直で好きだ。
犬のように正直な人間ばかりなら少し気が楽かもしれない。いや、逆に傷つくことも増えるかな。
最近自分の価値について考えてしまう。他人から何かを享受して、他人の何かを消費して、それでも生き続ける価値。自分にはあるだろうか。他人の何かを享受して消費して、というのはお金だけではない。他人からの思いやりだったり他人の時間だったり、そういうものを費やしてもらってまで自分が生きている価値があるのだろうか。
単純なお金の面だけ見たら、価値は無いと思う。俺は他人の、主に親のお金をたくさん使わせてもらっている。これまでもそうだし、恐らくこれからもそうだ。それを返したり還元したりすることは今のところ出来ていない。俺がいない方が周りの人は潤うだろう。
でも、人と人の繋がりや世の中はお金だけじゃないことも分かっている。でも、そのお金じゃないものは俺には見えないから価値があるのかどうなのか判断がつかない。
親は俺がいることにどんな価値を感じているだろうか。俺がいて嬉しかったり助かっていたりするのだろうか。友達は僕にどんな価値を感じているだろうか。他の人ではなく俺と遊ぶことが楽しいと思っているだろうか。飼い犬は俺がいることにどんな価値を感じているだろうか。俺がいないお留守番の時間、俺がいない夜、俺が不在の期間に俺のことを必要としてくれるだろうか。
考えれば考えるほど自分の価値が分からなくなる。俺は親がいてくれて助かってるし友達がいてくれて楽しい時間を過ごせているし犬がいてくれて癒されている。犬に関しては少し手を焼くこともあるけれど、それを含めて可愛いし癒される。
俺が感じている価値を、周りの人たちに返せているだろうか。返せていないのだとしたら俺に価値は無いということになる。
生きている価値は俺が決めるんじゃなくて、俺の周りの人たちが決める。生死っていうのは他己評価なのだ。結局、自分が周りに何をして周りがどう感じたかで人の価値は決まる。
今の俺はリサイクルもできない塵同然、当然そんなことはわかってる。せめてリサイクルできる塵くらい、いつかは一端の人間くらいに価値を高めたい。
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