〜悪は全て撲滅封殺〜 2024/10/16
今日、このようなツイートを見かけた。
つまり、この人は未成年飲酒を受け入れない(咎める)という行為は間違ってはいないけれど、それをわざわざ指摘したり否定したりする行為は正しいとは言えない。そもそもそれくらいの悪事は受け入れないと社会で生き残れないよ(受け入れる方が正しいよ)。
と言いたいのだと思う(多分)。
私はこのツイートには全く同意しないけれど、「そう考える人もいるのか」と思った。
私は未成年飲酒というものは絶対的な悪だと思っている。罪に問われる程の重大な犯罪行為ではないけれど、間違いなく悪ではある。そして私は悪というものは許容するべきではない存在だと思う。
そのため、悪を糾弾する発言(ここでは未成年飲酒を咎める発言)は正しいものであるし、積極的に行なっていくべきだと思っている。
悪というものは人間が人間である限り決して無くならないけれど、無くす努力は常にしなければならない。それをしないと社会というものが崩壊する。
動物と人間の決定的な違いの一つは善悪の区別があることだ。日々毎分毎秒状況が異なる自然環境で逞しく生きている動物には善悪の区別などなく、『生存』のために全てを捧げている。
それに対して、人間は社会というものを築き、ある程度安定した暮らしを手にしている。そこには善悪の区別がある。そしてその中でも法律というものは絶対的な善であり、法律を破る者は悪なのだ。
悪を野放しにする(法律に意味をなくす)と、途端に社会は崩壊するだろう。人間は野生動物に一歩近づくことになる。
社会を形成する上で、悪を許さないというのは必要なことであり当たり前のことだ。
私にはそういう意識があるので、どんなに小さな法律違反であっても、未成年飲酒であっても自転車の右側通行であっても、排除されるべきだと思う。
悪自体も排除されるべきだし、悪を隠す行為も排除されるべきだ。そして、悪を失くす為の行為は推奨され、社会の一員であるならば皆が行うべきだ。
つまり、未成年飲酒は排除されるべきだし、未成年飲酒を咎める行為はもっと行われるべきだと思う。
こういうことを言うと必ず「未成年飲酒で誰に迷惑がかかる」「どうでもいい」みたいなことを言う人がいる。
私からしたら、何がどうでもいいのか分からない。誰かに迷惑がかかっているかどうかなんてどうでもいい。相手は法律に違反しているんだぞ。法治国家であるここで、唯一悪か善か判断できる物差しが法律だ。その法律が悪と言っているのだから、それは排除するべきだろう。
例えば、未成年者飲酒と殺人は何が違うのか。両方とも法律違反であるし咎められることだ。どちらも悪であることには変わらないだろう。なのに何故殺人は悪として未成年飲酒を悪としないのか。
殺人が悪であり未成年飲酒が悪ではない理由を誰か説明できるだろうか。
殺人だって、誰かに迷惑がかからない人であり誰にとってもどうでもいい人に対してだったら行なってもいいのだろうか。
『法律』という絶対的な善を物差しにしないとこういうことになる。
未成年飲酒はいいけど殺人はダメ、未成年飲酒はダメだけど殺人はいい、強盗はいいけど殺人はダメ、恐喝はダメだけど殺人はいい、強姦はいいけど窃盗はダメ。
こういった多様な価値観の人間が一つの社会を形成できると思うだろうか。無理だろう。しかし、法律という善を無視するのであればこういう世の中になる。確実に。
私はこれを極論だとは思わない。未成年飲酒を許す理由を考えれば、これは起こり得ることであり、やっていることはこういうことだ。
こういう理屈で私は未成年飲酒を許せない。未成年飲酒を許せないというか、悪を許せない。
上記のツイートをした人は、我々を「その無菌室レベル」と揶揄したが、私は無菌室にいるのではない。私は防護服を着て殺虫剤を撒く駆除者だ。
善という名の防護服と法律という名の殺虫剤で悪を駆除するのだ。
人類は皆そうなるべきだと思う。
これは危険思想の類なのだろうか?
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『藻野菜/@Moroheiya0225』