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「勉強だけできる」エリートの台頭とモラルのゆがみ―格差が生む社会の不安定性を考える

「頭部がたくさん並んでるよ😊
「いざ Fresh cadaver(新鮮なご遺体)解剖しに行きます!」
解剖が行われている様子を背景に、笑顔でピースサインをしている記念撮影写真

問題となったnstagram投稿

美容整形クリニックの医師が起こした、医療現場におけるSNS炎上は、単なる一医師の言動にとどまらず、社会全体が抱える「モラルのゆがみ」を浮き彫りにしているように思えます。

私たちの社会では、かつて尊敬の対象とされていた医師や政治家などのいわゆる「高給取りエリート」の一部が、モラルを欠いた振る舞いで世間を騒がせる事件が後を絶ちません。
しかも、そうした不祥事が一度報じられれば、SNSを介して瞬く間に拡散され、「高学歴・高収入の人間は本当に信用ならない」という風潮をますます加速させます。
その背後にあるのは、学歴社会と資本主義が結びつき、一部の人たちが飛び抜けた地位や収入を手にする一方で、モラルが置き去りにされてきた構造的な問題だと思われるのです。

資本主義と学歴社会の因縁

戦後日本の経済発展は、世界的に見ても目覚ましい成功物語といえます。
しかし、その成功を支えていたのは、「試験に勝つ者(高学歴者)が高い所得とステータスを得る」という仕組みであり、それ自体がいわば“功利主義的”な考え方と強く結びついていました。
努力や勤勉さの結晶として学歴や資格を得ることが、個人の向上心や社会発展に寄与してきたのは事実です。

しかし現実には、家庭環境や親の経済力が「学歴を得るための下支え」として極めて大きな影響を持ちます。
高学歴者が高収入を得て、その子どももまた豊富な教育資金や情報、コネを得やすいという好循環(見方を変えれば格差の固定化)を生み出す構造があります。逆に言えば、親の経済力が弱い家庭ほど教育投資の機会が限られ、結果として格差が再生産されるのです。
これらは「教育格差」として研究されたり、最近では親の所得や文化資本によって子供が影響を受ける「体験格差」としても取り上げられています。

近年話題となった「教育格差」と「体験格差」

「勉強だけできる」秀才のモラル欠如

このような学歴至上主義のもとで、必然的に「ペーパーテストの点数を取ること」に特化したエリートが量産されやすくなります。
しかし、テストで優秀な成績を収めることと、人間性や道徳観の成熟とは必ずしも結びつかないのはご承知の通りです。
もちろん多くの場合、学力と人間性は一定の相関性があるでしょうし、今回の騒動しかり、稀なケースであるからこそ取りざたされていることは間違いありません。
しかし、高度な技術と職業倫理、誠実性が要求される専門職(医師、弁護士、会計士等)や、政治家などが、純粋に注目を集めるためだけに過激な投稿を行ったり、炎上する実態があります。
医師や政治家という高い地位を得た人間が、SNS上で信じがたい軽率な投稿をしたり、利権にまみれた不正に手を染めたりするケースは、決して珍しくなくなったのです。

さらに、富裕な家庭や家柄に育った人物は、多少の過ちがあっても周囲のコネや家族の財力によって「失敗がなかったこと」にされてしまう場合さえあります。
近年、医学生の性的暴行事件などが取りざたされていますが、多くの場合示談が出来ず決裂したものが報道されます。
逆に言うと、裏では表面上報道されている事件よりも遥かに多い同様の事件が発生しており、それらは「金持ちの親に示談金を払ってもらうことでもみ消してもらう」という形で闇に葬り去られてしまうのです。
(以下の高須クリニックの高須幹也院長の動画をご覧ください)

こうして「セーフティネットとしての家族・コネ」が暗黙のうちに機能することで、モラルの欠如があぶり出されないまま社会の上層へ登り詰めてしまう。
そして、真面目に道徳や倫理を重んじる人ほど「何だか損をしている」という感覚を抱き、社会全体がひずんでいくように思われるのです。

長期的に生じる社会的不安

この構造が放置されると、いずれ社会の分断が深刻化していく可能性があります。
「エリートはやりたい放題」「どうせ上級国民だけが得をする」という不信感が広がり、民主主義そのものへの疑念やポピュリズムの台頭を招く危険性があるのです。
政治への関心が冷め切り、投票率が下がる一方で、社会階層ごとに分断・対立構造が生まれ、特定の過激な言説や陰謀論がSNSで広がれば、人々は感情論に流されてしまい、社会全体が非合理的な方向に舵を切る恐れもあるでしょう。
既に闇バイトや組織的詐欺などという形で、「持たない者は、持つ者から収奪してもよい」というような思想に基づく犯罪が生まれていることを考えると、分断が深まっていることを感じられます。
”持たざる者”は”持つ者”から収奪を行い、逆に”持つ者”はなるべく”持たざる者”と関わらなくてよいように家に防護壁を作り、海外に脱出する。
これはまさに格差先進国であるアメリカを中心とした諸外国で起きていることです。
日本もついにその道に足を踏み入れてしまったのでしょうか。

さらに、社会の構成員同士が「どうせ誰も信用できない」「自分さえ良ければいい」と考えるようになれば、ソーシャルキャピタル(社会的信頼)を失っていく流れも止められません。
いざ大きな災害や経済危機が訪れたとき、互いを支え合う力は脆弱化し、混乱がより大きくなりかねないのです。
日本人は災害時や緊急時に結束し、他国では見られないような団結力と突破力によって難局を乗り越えてきたように思われます。
例えば、震災時に電車が止まった時も誰も大騒ぎせず階段に整列して座る。
混乱の中でも、秩序を保つことが出来る文化的基盤がありました。

東日本大震災で交通網がまひし、階段に座り込む人たち=平成23年3月11日、東京・新宿
(三尾郁恵撮影)

これらの秩序がもし、日本人一人一人が持つ「我々日本人は、常に他者を思いやり、気を使いあうことが出来る。私はもちろん、他者も同じである。」という暗黙の社会的信頼を基に形成されたものだとするとどうでしょう。
現在の日本では、一部のエリートによる経済弱者を見下した態度や、現実的な金銭面での社会の分断、そして相互不信により、日本における社会的信頼が崩れてきていると見ることも出来ます。
社会的な信頼が崩れた国では、もし大震災などの緊急事態が発生すると秩序を保つことが非常に難しく、各人が暴れ、わめき、混乱に乗じて犯罪が多発するような国に向かっていると考えることも出来ます。
今回のような炎上問題が相次ぐことで、これまで日本の経済的繁栄を支えてきた社会の安定性が揺らぎ、その結果として社会秩序や経済面において、日本全体が深刻なリスクに直面する可能性も否定できません。

モラルハザードの現代に求められることとは

では、私たちに何ができるのでしょうか。
もちろん、簡単に「倫理教育・モラル教育を行い、さらに格差是正も行えばよい」と考えることも出来ますが、事はそう簡単ではないでしょう。
倫理・道徳やモラルは点数化することが非常に難しく、仮に点数化できるような試験を実施したとしても、少し賢い人であれば「モラルがある人がやるであろう答え」を学習します。
そして、自分が実際にそれを行うかは別としてとりあえず試験に合格するための「社会的に要求されそうなモラル」を示し、専門職などに潜り込むのです。
おそらく、今回話題になっている医師や、世間を賑わす政治家たちもそのようなタイプの「受験勉強的な方法でモラルがあるように見せてきた人々」といえるでしょう。

社会全体におけるモラル低下の危険性や、モラル教育・倫理教育の難しさについてさらに踏み込み、なぜ「一度モラルが崩れると負のサイクルに陥りやすいのか」を考察した記事を貼っておきます(12/30現在作成中)。
家庭や社会の中でモラルが自然に育まれる土壌を取り戻すのは、専門教育での倫理講義よりはるかに根源的で、かつ重要なテーマなのです。

みなが生きやすい未来へ

私たちは資本主義の中で競争し、技術革新や経済的成長による恩恵を受けてきました。
その一方で、「勉強だけできる一部の秀才が突き進んだ先」にあるモラルの空洞化が、社会の根幹を揺るがしつつあるのです。
このまま放っておけば、エリートと非エリートの間に横たわる溝はさらに深まり、多くの人々が社会に不満を抱えながら生きることを強いられるでしょう。

しかし、構造的な問題であるからこそ、教育から税制、政治制度に至るまで見直しを図り、「モラルと公共善を大切にする」価値観を再び中心に置くことで、ゆがみを正せる余地もあるように思えます。
一部のエリートが享受しているような利得を、誰もが適切なチャンスと責任をもって手にできる社会。
もしそのような社会が実現すれば、そこにはただ「勉強ができる」だけでなく、他者の尊厳を守り、自分の利益と同じように社会的責任を重んじるリーダーが増えていくはずです。

この課題は、一朝一夕に解決できるものではないでしょう。
むしろ、このままモラルハザードによる負のループが拡大し、相互不信社会が到来した際には、課題を解決できない可能性すらあります。
閉塞感の漂う日本で、我々がどこに向かっていくのかはとても興味深く、私たち日本人の人生設計に大きな影響を与えるでしょう。
これから私たちが向かうであろう日本の行く末は、別の記事で考えてみようと思います。

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もやもやノート
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