「今年、あまり学べなかった」それでよい理由
私はかねがね「学び」という語に対して、一種の疑惑を抱いていた。
書店に足を運べば、"教養としての"歴史、地理、哲学が並び、今や落語、ワイン、相撲までもが学習の対象として陳列される。
インターネットを覗けば、"コスパ良く"、"効率的に"という文字が踊り、「一番コスパの良い学問」などという言葉までもが飛び交う。
現代社会は、「学び」をあまりにも安易に進歩や向上と結びつけ、ついには立身出世の手段へと貶めてしまったのではないか。
私たちは何かにせかされるように、焦って"学ばされている"かのようだ。
田内学さんの『お金の向こうに人がいる』に感銘を受け、氏が投稿した記事を読もうとNoteに登録したその日、偶然にも國學院大學による「♯今年学んだこと」という企画に出くわした。
その時、私の心に潜んでいた違和感は、より深い問いとなって浮かび上がってきた。
果たして「学び」とは、本当に進歩や向上を意味するのだろうか。
この素朴な問いかけは、次第に私の思索を深い迷宮へと誘っていった。
人は誰しも、己の居場所となる生態系を求めて彷徨う。
資格の勉強も、大学受験も、あるいは恋愛や友人関係も、結局のところ私たちは自分の属すべき場所を探し求めているのだ。
そう考えれば、これらはすべて、己の居場所を見出そうとする営みの一つの形であり、生態系への適応と見ることができる。
しかし、この適応の過程において、私たちは往々にして「向上」や「進歩」という幻想に囚われているのではないか。
自然界に目を向けて、蝶の幼虫が蛹(サナギ)となり、やがて羽化する過程を考えてみよう。
それは決して単純な「向上」ではなく、己の形態を根底から変容させる、壮大な生命の営みである。
この変容自体に意味があるのであって、より良き存在への"進歩"、"成長"という観念は、むしろ「学び」の本質を見失わせるものではないだろうか。
では、資格試験や受験勉強といった実利的な学びではなく、哲学や天文学のような、直接に経済的利益との関わりを持たない学問はどうだろう。
これらは純粋な知的好奇心から発するものと考えられるかもしれないが、その実、これもまた「宇宙という巨大な生態系からの疎外感」に端を発するものではないだろうか。
私たちは遠大で崇高な宇宙を見つめ、己の存在の矮小さに慄き、その慄きを克服しようと、これらの知的営為に身を投じる。
それは古代の天文学者たちが、夜空に神々の物語を見出そうとした営みに通じるものがある。
つまりここでも私たちは、巨大な宇宙という生態系の中に、己の居場所を見出そうと彷徨っているのだ。
数式の中に、星座の中に、哲学的思索の中に、私たちは自らの存在の意味を探し求めている。
そして、この探求の過程においても、私たちは進歩という幻想を持ち込んでいるのではないだろうか。
道元の説く「修証一等」の思想に倣えば、私たちの「学び」とは、学ぶという行為そのものが既に完成であり、目的でもある。
道元は、悟りを得るために坐するのではなく、坐することそのものが仏性の現れであると説く。
私たちは「学び」において、その過程そのものが既に真理であることを忘却し、いたずらに向上を求めてはいないだろうか。
雲水が寺で日々の作務に励むことそのものが、既に悟りの実践であるように、「学び」もまた、その営みそのものの中に真実が宿るのではないだろうか。
さらに目を転じれば、現代社会において学び」という概念それ自体が、私たちの思考を縛る枷となってはいないだろうか。
フーコーの権力論のように、「向上」や「進歩」という社会的価値の下で、私たちは己の「学び」を狭隘な枠内に押し込めてしまっている。
冒頭に挙げた書店に並ぶ数々の学習書、インターネット上に溢れる"効率的な"生き方、これらは皆、社会という名の権力装置によって巧妙に構築された「正しい学び」という幻想ではないだろうか。
私たちはその檻の中で、本来「学び」が持つ素朴で力強い引力から、表層的な生産性へと遠ざけられているように思われる。
「学び」の可能性は、あるいは、この「学び」という概念自体の解体にこそ存するのかもしれない。
それはあたかも、『もののけ姫』で描かれた大いなる変容の瞬間のようだ。
シシ神の消滅という破壊の後に、大地に新たな生命が萌芽する。
その神秘的な瞬間こそ、私たちが見失っていた学びの風景を映し出しているのではないだろうか。
この破壊と再生の循環こそが、より豊かな学びの姿を示唆しているのかもしれない。
それは単なる進歩や向上ではなく、既存の認識体系の崩壊と、より深き認識への変容という、絶え間ない生成の過程である。
ここまで考えて私は思う。
天体の観測に似て、学びとは個々の知識の集積や技術の向上ではない。
無数の星々の間に星座を見出すがごとく、それは己と世界との関係性を紡ぎ出す営みである。
そこには定まった道筋などなく、ただ星々の輝きに導かれるままに、私たちは己の物語を織りなしていく。
星々は個々に輝くけれど、その意味は星座という物語を通じてのみ現れる。
私たちの「学び」もまた同じである。
個々の知識は、己と世界との関係性という文脈において初めて、その真価を発揮する。
そしてその星々に星座を見出す営みこそが、私たちの内なる世界と、外なる世界とを結ぶ深い対話なのだ。
私たちは長い人生において、時として後退し、時として迂回し、あるいは這いつくばることすらある。
そうした運動の全てが、実は「学び」という営みの本質なのだ。
この歩みは、必ずしも上り坂ばかりではない。
時に谷底へと降り立ち、暗闇の中を手探りすることもある。
しかし、図らずも辿り着いた谷底で、私たちは思いがけない発見をする。
谷底から見上げる景色は、頂から眺めるそれとは全く異なる様相を見せる。
木々の根が這う地面に目を凝らせば、朽ち木から芽吹く新芽が、腐葉土の中で蠢く生命が、新たな理解への手がかりを私たちに示してくれる。
そうして降り立った場所で見出す気づきこそが、新たな地平を開く契機となるのだ。
私たちの「学び」とは、そうした上昇と下降、前進と後退の絶えざる律動の中にこそ存する。
振り返れば、昨年より確かに私は多くを学んだ。
そしていま、「学び」とは何かを問い続けている。
ただ、その結果、「学び」という概念自体が掌の中の水のごとく、すり抜けていってしまった。
これこそが私の「学び」の現在地である。
しかし、この「すり抜け」こそが、学びの新たな地平を開くものなのではないだろうか。
それは丁度、禅の公案において、論理的思考の限界に突き当たった時にこそ、真の悟りが訪れるかのようだ。
このように記すと、「これぞ学びとは言えないもの」との誹りを受けるかもしれない。
けれど、老子の言う「知れりと言う者は知らず」の言葉が示すように、知識を確かなものと思い込む態度こそが、私たちを学びから遠ざけるのかもしれない。
この迷宮に迷い込んだような短い思索が、老子の語る言葉に足るとは思わない。
ただ、このもやもやとした不確かさの中にこそ、「学び」という営みの深い味わいが宿っている。
そして、私たちを新たな学びへと誘うのかもしれない。
おわりに
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は初投稿ということで、実験的に”カジュアルなタイトル” & ”硬派な本文”というテイストで書いてみました。
当初は本文もカジュアルに書いていたのですが、私の抱えるもやもやが思い通りに表現できない気がしたので、本文は硬派に書いてみました。
ただ、タイトルまで堅いとNoteっぽくないですし、そもそも誰もこの「もやもや」を読んでくれないだろうと思いましてこの形に落ち着きました。
後続の「もやもやノート」たちは、その時の気分で適当に書いてみます。
日々のもやもやと考察を書きなぐりますので、同種族のもやもや勢はフォローよろしくお願いします。