左側の音
左に体が傾いていく、
左手が力強く動いていく、
鍵盤を弾き、低い音が私の中心を射抜く。
私の体の中で波紋が広がって、どんどん上へと上がってきて、涙腺を刺激する。
眼の中の粘膜に、透明の水が混じっていく。
私の目の前でピアノを弾いている人は、究極の自己表現をしていた。
此処に居るんだという叫びが聞こえてくる。
ピアノの音ってこんなにも、響き渡るものだったのだと感じずにはいられなくて、
この人の自己表現から目を離せなくて。
空中に広がる音を感じることに必死で身動きがとれない。
ピアノから宙を舞って、音符が、音が、こっちへやってくる。私の体はまるで、音を吸収する専用の細胞があるかのようにそれらを受け入れていく。
同じ場所で動く右手とは違って、左手は動く、もっと動いて、奏でていく。
演奏が盛り上がっていくその瞬間、左指にぐっと力が込められる。
その後ろ姿には、羽が生えているようだった。
真っ白な羽が。
何処へでも行ける羽が。
何者にでもなれる羽が。
キャンバスのように真っ白な無地のTシャツを着ているその人は、この空間で一番"自由"だった。
俺とか、私とか、そういう"誰か"を超えていた。
「素敵な演奏でした」
私は、その一言を伝えるのに必死で、自分がどんな表情をしていたのか覚えていない。
演奏に感動しながら、咄嗟に買いに行ったリンゴジュースを手渡した。
小さなコミュニケーション、
そして大きな勇気。
そんなことがテーマだったある日の夜。
この世はもっと自由だ。
そう思った。
私だって、もっと飛べる。
そう思った。
だって、
だって、あの人だって、飛びたくて、飛びたくて、思いっきりしゃがんで、ああやって叫んで、葛藤して、そして、羽ばたいていたから。
だから私たち、もっと飛べる。
もっと"自由を目指せる"そう思ったんだ。
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