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誰かの期待じゃなく、自分のために生きる

大人の都合のいい子に育った私


子どもの頃、私は「いい子」だった。

いつも大人の言うことを聞き、反論せず、静かに笑顔で頷いていた。

「偉いね」「本当にお利口さん」と褒められるたび、胸の中で小さな火花が散るような嬉しさを感じた。

けれど、その火花は私を燃え立たせるものではなく、むしろ、心の奥にある「本当の私」を覆い隠す霧を濃くするものだったのかもしれない。

振り返れば、私は「大人の都合のいい子」に育っていた。

周囲の期待に応えることが、私の存在価値だと思っていた。

自分の意見を持たず、怒りや悲しみを表に出さず、言われた通りに行動する。

それが「愛される」条件だと信じて疑わなかった。


なぜ、私は「都合のいい子」になったのか


私の家庭は、表面上は穏やかだった。

父は無口で仕事熱心な人、母は几帳面で完璧主義者だった。

母は家の中をピカピカに保つのが日課で、私にも「ちゃんとした子であること」を求めた。

「靴を揃えなさい」「宿題は早めに終わらせなさい」「大人に失礼のないように」。

母の期待に応えることが、私の使命のように思えた。

学校でも同じだった。

教師やクラスメイトから「おとなしくて良い子」と見られることで、安心感を得ていた。

他の子が叱られるのを見て、自分もそうならないようにと一生懸命に周囲の空気を読む癖がついた。

反抗する子を見て、「どうしてそんなことをするのだろう」と不思議に思いながらも、心のどこかで羨ましく思っていた自分がいた。


ある違和感との出会い


そんな私にも、成長とともに違和感が芽生え始めた。

特に大学に進学してからは、「いい子」でい続けることの苦しさを感じるようになった。

友人と意見が対立しても、波風を立てたくない一心で「そうだよね」と同意してしまう自分。

講義で感じた疑問も、恥ずかしくて質問できない自分。

そんな自分が嫌だった。

ある日、親しい友人から「本当にそう思ってるの? いつも私に合わせてくれてるけど、たまには自分の意見を言ってもいいんだよ」と言われた。

驚きと同時に、胸の奥がズキズキと痛んだ。

私はその言葉を受けて、初めて自分がどれほど「都合のいい子」であることに執着していたかを認めざるを得なかった。


自分を取り戻すまでの道のり


社会人になり、「都合のいい子」でいることの弊害はさらに顕著になった。

上司の無理な依頼に「はい」と答え、同僚のフォローばかりして自分の仕事が後回しになる。

それでも、誰にも迷惑をかけたくないという思いで頑張り続けた。

その結果、心身のバランスを崩し、体調を崩すことが増えた。

そんなとき、偶然手に取った本に「自己犠牲は自分も他人も不幸にする」という一文が書かれていた。

その言葉に、ハッとさせられた。

私は自分を抑え込むことで、大人たちの期待に応え、職場の平和を守っているつもりだった。

けれど、それは本当に「幸せ」だったのか? 自問自答を繰り返した。

それから少しずつ、私は「いい子」をやめる練習を始めた。

最初は小さなことからだった。

カフェで注文を間違えられたとき、「これ、違います」と言ってみる。

上司に無理な依頼をされたとき、「今のスケジュールでは厳しいです」と正直に伝える。

最初は恐ろしくて仕方なかったけれど、少しずつ、「自分の声」を出すことの心地よさを感じるようになった。


今の私、そしてこれから


「大人の都合のいい子」であった過去は、私に多くの気づきを与えてくれた。

あの頃の私を否定することはできない。

それは私が環境に適応し、生き延びるための方法だったのだから。

ただ、今はその枠を超えて、新しい自分として生きる選択をしている。

自分の本心を伝えることは、最初は怖い。

でも、それは他人と本当の意味でつながるために必要な一歩だと気づいた。

今では、自分らしく生きることの大切さを胸に抱きながら、少しずつ前進している。


このエッセイを読んでくれた人が、自分の中にある「都合のいい子」の存在に気づき、少しでも解放されるきっかけになれば幸いです。


終わりに


人は、他人の期待に応えるだけでは満たされない。

自分自身を大切にすることで、初めて本当の幸せを手に入れることができるのです。

どうか、あなたも「自分らしさ」に耳を傾けてください。

そして、それを大切にしてください。



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わたなべまなみ | 芸大生卒制はじめた
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