葛藤でどうにかなりそう。映画「陪審員2番」
公 開:2024年
監 督:クリント・イーストウッド
上映時間:114分
ジャンル:法廷/ドラマ
これほど、うまく葛藤を描いた作品もありません。
「陪審員2番」は、もうすぐ子供が生まれるお腹の大きな妻と暮らしている男が、ある日、陪審員として招聘されるところからはじまります。
日本でも、裁判員制度があるとはいえ、まだまだ遠い世界な気分がありますが、アメリカであれば、陪審員になる人は、それほど珍しくないそうです。
主人公のジャスティン・ケンプは、女性を川から突き落として殺したとされる男の裁判に、陪審員として参加することになります。
ちなみに、陪審員を描いた古典的名作といえば、「12人の怒れる男」です。
親殺しの少年の有罪について、誰もが疑わなかったところを、一人の男が異論をはさむことによって、陪審員たちの考えが変わっていくというものになっています。
「陪審員2番」が面白いのは、事件の外野から、事件の是非を問うはずの陪審員に、当事者が混ざってしまっていることです。
本来であれば、陪審員になる資格そのものがないはずですが、事件の真犯人が自分だったならば、どうやってそれを証言できるでしょうか。
自分が犯人だとはばれずに、男を無罪にすることなんてできるのか。
犯人とされる男もまた、元は悪党なのですが、決して悪い男というわけではなさそうだったりするのですが、自分のせいで裁かれてしまう。
もしも、主人公に家族がいなければ、良心の呵責に耐えかねて、自分が犯人だ、と認めてしまったかもしれません。
ですが、彼には、大きなお腹をかかえた妊婦の奥さんがいたのです。
自分じゃないかもしれない。
主人公であるジャスティンは、1年ほど前、雨の中で何かを車ではねました。
シカか何かだと思って気にしないでいたのですが、陪審員となった事件の内容を知るにつれて、あ、これ自分だわ、と気づくのです。
「陪審員2番」は、事故による殺人ですので、自分にはそんなことは起きない、と思うかもしれません。
しかし、規模の大小はあるかもしれませんが、誰しもみな潔白と言うわけではないはずです。
会社の資料を作っていて、間違いに気づいてしまったけれど、上司には報告しなかった。
何かを壊してしまったけれど、知らないふりをした。
人間ですから、一度のミスもしないで生きるというのは、難しいものです。
自分自身ですら、ミスと思わないこともあるかもしれません。
でも、完璧だと思っていた自分が、何かをやらかしてしまっていたとしたら、それを、隠すことができそうだとすれば、その誘惑にどう立ち向かえばいいでしょうか。
ジャスティンは、自分ではあるはずがない、と思ったりはするのですが、どう考えても、被害者である女性の命を奪ったのは、自分だと気づいてしまうのです。
有罪にはしたくない。
事件について説明を受けた陪審員たちは、あっさり、有罪にしようとします。
陪審員といっても、一般の人たちから集められていますので、それぞれの生活があります。
悪そうな男が、痴情のもつれで恋人を殺してしまった。よくある話だと思うのも当然です。
そして、さっさと終わらせて日常に戻りたい、と思うのが、人情というものでしょうが、ジャスティンはつい言ってしまうのです。
「彼の人生がかかっている。もっと話し合うべきだ」
彼の人生だけではなく、主人公であるジャスティンの人生もかかっているのです。
自分の不注意のせいで人を殺し、あまつさえ、無実の男を刑務所にいれてしまう、という良心の呵責に悩まされつづける、という人生に。
途切れない緊張感
本作品は、その大半が会議室で進みます。
陪審員たちの話し合いであるとか、現場検証みたいなことも行いますが、大盛り上がりするような作品ではありません。
ただ、緊張感だけは、終わる瞬間にいたるまで、ピンと張り続けています。
監督は、90歳を超えているクリント・イーストウッド監督です。
数々の名作を作り出してきた監督ですが、制作に入ったのが監督93歳の時だというから驚きです。
一人の男が、自分の罪と、身重の妻であるとか、自分の過去、無実の男や、周りの状況など、あらゆる角度から葛藤しつづけているのですが、常に緊張感が保たれています。
もしも、自分が同じ立場だったら、罪悪感でとっくに押しつぶされてしまっているだろうと思います。
自分が犯人であることを誰にも言えないまま、進行していく裁判。
いつまでも続く悪夢が、実に見事です。
それぞれの葛藤
本作品には、もう一人の主人公が存在しています。
それは、トニ・コレット演じる担当検事であるフェイスです。
彼女は、この事件で勝訴すれば、検事長になることができるとされています。
裁判というのは公平な正義によって行われるべきものではありますが、フェイスは、少なくとも今回の事件においては、真実ではなく、自分の勝利を求めてしまっています。
彼女は、犯人の有罪を確信していましたが、検事長になるかならないかという瀬戸際の裁判ということもあり、浮足立っているのが、物語の冒頭でなんとなくわかるのです。
無罪の気配
ジャスティンは、自分自身が犯人なので、裁かれている男が、本当は無罪であることを知っています。
ですが、検事であるフェイスは、まわりの事実からわかっていってしまいます。
「犯人は悪党です。彼女の死亡時刻、現場で目撃されています」
そのように言っていたのですが、現場を目撃していたという老人は、優しい警察官が、犯人が写真の人物で間違いないですよね、と聞いてきたから、協力するために、安易に、見たと、言っただけでした。
無実の罪で裁かれようとしている男、ジェームス・サイス。
「人の役に立てたことも、すごく気分がよかった」
老人は言います。
「ジェームス・サイスが、殺したんだよな?」
その表情は不安げです。
そんな証言の積み重ねが、えん罪をつくりだしているということも知らずに。
フェイスは、もっとも大事な裁判で、自分自身の正義がゆらいでいるのに気づきます。
この先からは、ネタバレを描きますので、映画をみた人がご覧になっていただけると幸いです。
正義と真実の狭間で(ネタバレ)
「陪審員2番」で面白いのは、正義や真実、正しさとは何かを、問いかけてくることです。
ジャスティンは、陪審員にさえならなければ、自分が車で轢いたのが人間だったとは思わないまま過ごしていたことでしょう。
そして、よくある作品であれば、きっと真実は暴かれて、主人公は刑務所で罪を償っていたかもしれません。
しかし、検事長になろうとしているフェイスにしてもそうですが、ここで敗訴するわけにはいかなかったのです。
一つの不正義の為に、これから自分が行わなければならない、より多くの正義を犠牲にするわけにはいかない。
ジャスティンもまた、自分が真実を話すことで、心に傷を負っている妊婦の妻や、お腹の中の子供を不幸にするわけにはいかない。
無実の罪を負わされることになるジェームス・サイスという男は、刑務所に入れられて当然の男なんだから、いいんだ、と言い聞かせながら。
ただ、ジャスティンからすれば、彼の無罪を主張するために、彼を知れば知るほど、彼と、かつての自分が重なっていってしまうこともまた、葛藤の原因になっています。
おびえて暮らす
ジャスティンは、パトカーのサイレンが聞こえる度に、家の外をつい見てしまいます。
事件の真相がわかって、逮捕されてしまうんじゃないか、という恐怖。
これは、何か罪を犯し、隠し続けている人には、等しくやってくる恐怖でしょう。
また、検事長となるフェイスは、事件が閉廷する直前に、真犯人に気づきます。
そして、自分が間違っていたことにも。
さらには、犯人が、ごく普通の男であったことも。
「正義はどうなるの?」
「真実が正義とは限らない」
物語のラスト10分のやり取りが、観客の心を揺さぶってきます。
クリント・イーストウッド監督というのは、本当にA級の作品をつくってくれる監督です。
どちらか一方だけで語れる正義などありはしないということ教えてくれますし、正義や真実が必ずしも全員を幸福にするものではないことも。
ラスト1秒まで、本当に目が離せない作品となっています。
そして、映画を見た後に、何かもやもやしたものをグサリと残してくれます。
単純な正義であるとか真実が、正しいとは限らない時代になったこと、90歳を超えたクリント・イーストウッド監督は、最後まで緊張感を失うことがない絶妙な作品を作り上げています。
本作品は、まさに必見の一作となっていますので、クリント・イーストウッド監督が好きな人は、映画「クライ・マッチョ」も、是非見てみてください。