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映画チア部のおしゃべり会──『囚われの女』後編

こんにちは、映画チア部 京都支部のMです。
夏がいつの間にか通り過ぎ、外は少し肌寒くなってきました。前編から日が経ってしまいましたが、いかがお過ごしでしょうか?

映画チア部では初めての企画、
映画を観たあとにチア部のメンバーで集まり、感想や考えたことをシェアする「映画チア部のおしゃべり会」をひらきました。

今回のテーマとなる映画は、
シャンタル・アケルマン『囚われの女』(2000年)。
シャンタル・アケルマンは、1950年にベルギーに生まれ、18歳から、最後の作品(『No Home Movie』2015年)が完成するまでのほぼ50年間、社会の中で忘れ去られようとしている日常と個人を見つめ、撮り続けた映画監督です。
現在、京都みなみ会館では「シャンタル・アケルマン映画祭2023」が開催中です。出町座でも、今年の5月から7月にかけて行われていました。

『囚われの女』

おしゃべり会は、映画の感想から、個人的なわたしたちの悩み、他者との関わり、恋愛のことまで、幅広い内容となりました。
映画を観ていない方も、チア部のおしゃべり会にぜひ、ご参加ください。

今回の参加メンバーは、M、A、S、Rの4名です。(プライベートなお話も含まれているため、イニシャル表記にしております)

また、ネタバレも少々含まれておりますので、ご注意ください。

この記事は「後編」です。
前編はこちらから。ぜひ、あわせてご覧ください。

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M:好きってひとつの種類だけじゃないと思う。ときめく感覚とかも。映画の中でのシモンが、すぐに恋愛と結びつけてしまう感じが、それをわかっていない気がしてモヤモヤした。
女の子の友情って、独特のものがあるような気がしていて。付き合ってはいないんだけど、恋人同士かのようにいつも一緒に居たり、連絡を取り合ったり、他の人と遊んでいたら、なんでって少し喧嘩になったり、嫉妬と憧れとか、いろんな感情が混じり合っているように感じることが、私の経験の中ではあるんだけど。
中学生の頃、すごく仲良くしていた友達に「私はこんなにMのことが好きなのに、男と女だったらハグとかキスとかで愛情表現ができるけど、女同士だからそれができないことがつらい」って言ってもらったことがあって。今、思い返すと、男女間の愛し方と愛され方って、固定化されているなって。もっと、そこから解き放たれた、あなただからこうするっていう選択ができたらいいのになって思った。話が逸れたけど、話をしていて思い出したから話しちゃった。

S:愛し方って、男女では目に見えるものにできやすいよね。でも、難しい。女の子同士の愛情表現……。私は、結構手を繋ぎにいったりしちゃうかな。すごく会えて嬉しいから、そういうことをしてるなって思い出した。あとは、チョコレートを渡すとかも、愛情表現になるというか。
恋愛に繋がりやすいよね、全部のことって。誰かが勝手に繋げることもあるし、自分自身が繋げてしまうこともあるなって思った。自分の中で考えているときに、この気持ちは恋なのか?って思ってしまうことがあるなって。恋じゃない恋があっていいなって。

A:たしかに、べつに恋とか、愛情表現が先にあるわけじゃないし、これまでの社会とか、いろいろな蓄積から正解があるように思えてしまうだけで。そこに、自分を当てはめたり、すり合わせることは必要ないよね。色んなかたちがあるのに、名前をつけたりとか、こうじゃなきゃみたいな制限とか、規範みたいなものに無理して当てはめなくていいと思う。
感情にさえ名前をつけることで、(実際はそうでなくても)そう思おうとするとか、逆に感情が沸き立ったのに、抑え込んじゃうみたいなこともあるのかなと思って。そこで、コミュニケーションが言葉じゃなくて、肌への物理的な接触、手を繋ぐとか、そういうもので相手のことがわからないけど、きっとわかるだろうみたいな……きっとわかることができるよねっていう、最後の頼みにしている気もしてて。言葉じゃもう無理かもって思ったときに。

S:恋のあり方って、色んなかたちがあっていいって私も思うんだけど、すごくすごく悩んだ時に、やっぱり名前のついているものに安心してしまうところが自分にはあって。曖昧なものよりも、しっかりと関係や気持ちに名前がある方が安心するというか。そういうものに囚われている自覚があって。それでいいのか、それを解放するやり方はあるのかってすごく考えてて。それを他者に向けることは嫌だからないんだけど、自分ごとになると、やっぱり名前が欲しくなっちゃうことがある。その気持ちへの向き合い方に、今すごく悩んでいます。
例えば、恋人っていう名前がなかったら、なんか不安だなって。今、日本でも婚姻制度をなくそうとか、いろんな「結婚」のかたちをつくろうとしていると思うんだけど。自分に置き換えた時に、やっぱり自分にとって、結びというか、ある種、紙上でも一個契約することって気持ち的にも大事というふうに考えているところがあって。でも、それに捉われない関係も憧れるというか、信頼とか、気持ちのかたちで成り立っていると思うんだけど。みんなはそういう不安、あったりしますか?

A:私は結構不安になるかもな……。恋人と結婚とか、その名前に関係性を抑え込むこととは違うんだけど。制度を利用した方が、利点が色々とあるっていうこともあるから、それだけで利用することもできるだろうし、結婚したから関係性がこうでなきゃいけないとか、結婚と関係性は拘束し合わなくてもいいのかなと思ったり。それは、名前は恋人だけど、お互い変わっていくだろうし、色んなかたちにこれからなっていくだろうっていう覚悟が、お互いにあるよっていうことの約束のような。恋人っていう名前も、違うものに変わっていってもいいだろうとか思ったりした。二人で関係性を築きたいっていう気持ちが一緒だよっていう確信は欲しいから、今は恋人っていう関係性だと思わないと、確かに不安かもしれない。自分を預けたり、向こうの人生を背負うことが、やっぱ難しいんじゃなかなって。

S:名前の中で自由に動くっていうのができたら一番なんだけど。恋愛っていう名前から派生するものを、規則とかルールみたいに捉えるのは、違うなとは思ってて。名前を授かって、その中で動くのは自由だって思ってていいことだよね、きっと今は。

A:そうだね、授かってるだけって思ってるかも。

M:恋人っていう言葉のニュアンスと、パートナーっていう言葉のニュアンスと、彼氏彼女っていうニュアンスって違うから、その関係により合う名前がつけれたらいいなっていうのはずっと思ってて。

S:わかる。

M:恋人のことを誰かに話す時に、彼氏って言うのはなんか合わない、恋人もちょっと違和感ってもやもやしながら紹介することがある。例えば、Sちゃんと私の関係って「友達」っていう関係で表せるの?とか。それを超超単純化して、本当は全然違うけどここではこう言っとこうかみたいな(笑)そういうことが日常にありすぎて、感覚が麻痺してるなって思うんだけど、本当はもっともっと言葉がほしい。

S:つくりたいよね!

M:パートナーって言葉が、今は広い意味で使われている気がするから、一番使いやすいかもしれない。

S:その中で、また自由にやるっていうのを自分の中で決めておいた方がいいんだと思う。例えば恋人だから手は繋がないといけないとか、必ずしもないというか。恋人だから自分の秘密のポッケを見せないといけないとかはない。それは二人で話し合うこと、関係の中でつくっていくものだなってすごく思った。もやもや解消かも(笑)

R:すごくわかる。

A:シモンも、自分の中でこうあるべきっていう男性像に囚われていたんじゃないかなって思ったりして、お互いだったのかなって思ったり。

S:階級とか高くなってくると、より囚われることが多いのかなって思う。決まっていることが多い気がするというか。

A:自分の家が持っているブランドとか、両親からの理想とかに対して縛られることもありそう。あとは、男性が強くなければいけないとか、弱音を吐いちゃいけないとか。もっと女友達のように、シモンがアリアーヌにコミュニケーションを取ることもできたんじゃないかって。シモンが、女性同士の友情に嫉妬していたのは、僕がその友達たちとなんで違うんだっていう部分の分かり合えなさに対して、簡単に割り切れないからなんじゃないかなって。そう思うと、やっぱり自分自身が縛られているっていう感覚があったんじゃないかなと思った。

S:最後、紳士的にアリアーヌの荷物を持とうとするところとかも「囚われ」を感じたかも。それが、アリアーヌに対しての愛情からだという風にも考えられるんだけど、決められた感じがすごくして。決められた役割にはまってしまうっていうのは、男女の関係にはあり得るなって思ったかもしれない。

R:色んな人が、それぞれの固定した価値観とか考えに囚われてて、自分の今の気持ちを伝えたい時に、男として荷物を持つ、とかの行為に自分の好きだよ、みたいな気持ちを乗せる時もあれば、男とか女とか決められたもので表現したくなかったり、できないものもあるし、囚われてる時に、自分の心をオープンにできたらわかりやすいけど、それは違うし、すごく難しいなって聞いていて思いました。

A:愛情表現であっても、踊り出したいけど、そんなことしたら変だから……とかこんなことがしたいけど、変だから誰かの真似をして愛情を伝えるしかないんだ、みたいなことあるよね。もっと違うのにって。

S:改めて、「囚われ」って大きい言葉だな。

M:本当は、バスでもどこでも大きな声で泣きたいけど、泣けないしね。

S:常識みたいなものに囚われてしまうこともあるよね。大人は泣かない、とか。全然泣くんだけど(笑)
そんなことはないっていう解放をしていきたいよね。やっぱり、誰かと話したりすると、囚われてることに気付けたり、解放していいんだって思えたり。そういう瞬間がある気がする。

A:囚われていることに、どれだけ自覚的になれるかってめっちゃ大事だなって。誰かの前で、全部解放しちゃおうって、みんながそれをすると社会が壊れてしまうかもしれないけど。それでも自分を守りつづけるためには、囚われを自覚した上で、大事な人にはこれは見せてもいいかなって探ってみたりとか、誰かのちょっと変だって思われているようなこととかも、受け入れてみたりとか。受け入れるって偉そうだけど……。

M:受けとめたいよね。

S:私は結構、感情が捉われやすいことがあって。今いる環境の中で、誰かと比べて、私はここにいて大丈夫なのか、私は自分のしたいことをやっているのかとか、すごくその考えに囚われちゃったりとか。けど、苦しくなっている時、話さなくても解放されることがあるなと思っていて。誰かに会って、気持ちがほぐれたり、自分の環境の中での囚われにも気づく、みたいな。

A:わかる。

S:自分が見えているもの、膜が氷みたいにカチカチになっているものが、みんなに会うことで、雪解けみたいに垂れていくみたいなことがある。
振り返ると、『囚われの女』って他者の存在が少なかった気がして。アリアーヌにとっての他者は結構いたかもしれないけど、シモンにとっての他者が本当に少なかった。家か、身近な人で固められた世界で生きていて。そこから一歩引いて見える世界が、囚われには必要なんじゃないかって思ったりしました。

R:一人で考えてたら、塞ぎ込んでしまうかもしれないけど、友達とかと会ったら楽しいし、ちっぽけな悩みだったなってなることもあるから、一人で考えることが大事な時もあるけど、他者と関わることで解放されることも同じくらい大切だなって思います。

M:ふっと風が通る感覚になるね。

S:風が通って、ぱらぱらぱらって自分のからだの周りにまとわりついていたものが取れていく感じがあるかも。

S:お部屋にて
R:フライヤーと
       M:半券たち、パンフレット、手帳
A:母のチューリップと

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編集後記✒︎
はじめてのおしゃべり会は、個人的なものを、安心できる少しひらけた場所で話してみることの実践として、企画しました。
シャンタル・アケルマンは、社会の中で、聞かれることのなかった小さな声、日常と個人を見つめ、撮り続けた映画監督です。私は、今年の5月から7月にかけて、出町座で開催されていた映画祭で出会い、それからずっと、監督と作品に心をつかまれています。
生活の中で、違和感を抱えても、ものすごいスピードで過ぎ去る日々に、じっくり考える時間を持てず、そのままになっていること。それを、映画をきっかけに思い出し、一緒に立ち止まって考えることができたのではないかと思います。
記事の最後には、みんなの映画チケットの写真を並べてみました。(みんな捨てずにとっておく派でした☺︎)ちなみに、出町座のチケットは、映画のタイトルが印刷されないので、後ろに手書きで、観た映画の名前を書いてとっています。なんの上映だっけ……と手帳を照らし合わせたりしながら思い出すのも楽しいです。
次のおしゃべり会はまだ未定ですが、違う映画で、違うテーマで、またひらく予定です。また、部員だけでなく、誰でも参加できるイベントも開催したいと考えています。そのときはぜひ、会っておしゃべりしましょう❁


シャンタル・アケルマン
1950年6月6日、ベルギーのブリュッセルに生まれる。両親は二人ともユダヤ人で、母方の祖父 母はポーランドの強制収容所で死去。母親は生き残ったのだという。女性でありユダヤ人でありバイセクシャルでもあったアケルマンは15歳の時にジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』(65)を観たことをきっかけに映画の道を志し、18歳の時に自ら主演を務めた短編『街をぶっ飛ばせ』を初監督。その後ニューヨークにわたり、初めての長編『ホテル・モンタレー』(72)や『部屋』(72)などを手掛ける。ベルギーに戻って撮った『私、あなた、彼、彼女』は批評家の間で高い評価を得た。25歳のときに平凡な主婦の日常を描いた3時間を超える『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』を発表、世界中に衝撃を与える。その後もミュージカル・コメディ『ゴールデン・エイティーズ』や『囚われの女』、『オルメイヤーの阿房宮』などの文芸作、『東から』、『南』(99)、『向こう側から』(2002)といったドキュメンタリーなど、ジャンル、形式にこだわらず数々の意欲作を世に放つ。母親との対話を中心としたドキュメンタリー『No Home Movie』(2015)を編集中に母が他界。同作完成後の2015年10月、パリで逝去。

『囚われの女』
監督・脚本:シャンタル・アケルマン|撮影:サビーヌ・ランスラン出演:スタニスラス・メラール、シルヴィ・テスチュー、オリヴィエ・ボナミ2000年|フランス|カラー|117分
祖母とメイド、そして恋人のアリアーヌとともに豪邸に住んでいるシモンは、アリアーヌが美しい女性アンドレと関係を持っていると信じ込み、次第に強迫観念に駆られていく。マルセル・プルーストの「失われたときを求めて」の第五篇、「囚われの女」の大胆で自由な映像化。嫉妬に苛まれ、愛の苦悩に拘束される虜囚の境地をアケルマンは洗練された表現で描写する。ジャン=リュック・ゴダールの『軽蔑』(63)やアルフレッド・ヒッチコックの『めまい』(58)をも想起させるこの傑作は公開年の「カイエ・デュ・シネマ」ベストテンで2位に選ばれた。

シャンタル・アケルマン映画祭2023公式HP


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