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(ネタバレ)『恋する寄生虫』を見ました
ストーリー
高坂賢吾(林遣都)は、幼少期の出来事がきっかけで極度の潔癖症だった。そんな賢吾はある日、ある男(井浦新)に佐薙(さなぎ)ひじり(小松菜奈)の面倒を見て欲しいと依頼される。ひじりは幼少期の出来事がきっかけで極度の視線恐怖症だった。そんな二人が依頼をきっかけに出会うことになる。出会うことにより二人は恋に落ちるのだが、この恋には寄生虫が働いていたのであった。
「精神障害=寄生虫」の設定が気持ちを軽くした
「精神障害=寄生虫」
これが映画を観て気付く設定であった。
今作の映画の設定は、脳に寄生虫が寄生することにより精神障害になるというものであった。あらゆる現代社会の精神障害が寄生虫によるものだとし、恋までもがそのせいだとされていた。
この一種の”SF映画"のような設定により、私が日常生活の中で抱く悩みは「寄生虫のせい」と思えた。そんな妄想の中で生きるのであれば、悩みは外在化され、あらゆる悩みは軽減できそうだ。
映画の設定に浸り同じように考えて気持ちが軽くなる人もいるだろうが、脳内に寄生虫が存在していることに気持ち悪さを覚える人もいるかもしれない。
しかし、いずれにしろ寄生虫を取り除けばいいだけである。
すべての悩みが寄生虫に起因しているのであれば、それがいなくなれば悩みがなくなるのである。
悩みがあれば、脳内の悩みを寄生虫に外在化し、それが出ていくところをイメージすれば気持ちが軽くなりそうだ。
これこそが、この映画の設定の魅力に思えた。
恋は精神障害なのだろうか
先程述べた今作の設定として気付いた「精神障害=寄生虫」であるが、ここには恋が精神障害として含まれるのだろうか。
そもそもタイトルに『恋する寄生虫』とあるため、「精神障害=寄生虫」なのであれば恋も精神障害になる。
映画でも恋が寄生虫のせいとされ、賢吾とひじりから寄生虫を取り除いていた。しかし、最後にはお互いの寄生虫が脳内に卵を産み、お互いの気持ちは繋がっていた。
そして最後には、二人は再会しハッピーエンドに終える。
つまり映画では恋は良いものとされていたのだ。
たしかに精神障害は問題である。
しかし、社会的に障害がなければ問題はないかもしれない。
精神障害には潔癖症、視線恐怖症、対人障害、うつ病など様々なものがある。これらのものは、社会に適応することに障害になる場合が病気となる。言い換えれば、適応できていれば障害ではないのである。
そして、この適応の判断は主観なのである。
精神障害の症状に当てはまっているとしても、主観的に社会的に問題がなければ障害ではない。
このように考えれば、恋は精神障害でないかもしれない。
寄生虫を取り除いた後の絶望
社会的に適応できないことが精神障害であれば、治療をすることが賢明である。それなのにもかかわらず、賢吾やひじりから寄生虫を取り除いた世界には、すぐに幸せは訪れなかった。むしろ賢吾は「絶望」と言っていた。
たしかに映画では潔癖症や視線恐怖症だけではなく、恋する気持ちも取り除いた。ここに賢吾の言う「絶望」が含まれるかもしれない。恋する気持ちは二人にとって障害ではなかったからだ。それを取り除かれたのであれば絶望かもしれない。
そして、私はここに「幸福とは何か」を考えさせられた。
映画では客観的に寄生虫が悪いとされ取り除かれた。だが、この客観的に見た寄生虫が悪いとする考えは、賢吾とひじりにはなかった。むしろ、彼らは恋する気持ちを幸福に考えていた。
アメリカの心理学者ローレンス・コールバーグの道徳的推理の段階によれば、私達の道徳的判断には6段階ある(今回は1~4段階の説明は省く)。
この考えによれば、段階5は社会的に正しいことを道徳と考える。一方で、段階6は個人にとって主観的な正しさを道徳と考えるのである。この段階は1~6の順に発達するのである。しかし、段階5で留まり人生を終える人もいる。
つまり、私達が幸せだと考えることが、他人にとって幸せかどうかの問題がある。
このことが二人を悩ませたように思えた。
私達も社会的に正しいものに劣等感を感じることがある。
しかし、私達は周りに流されず、個人にとっての幸せを追い求める必要があるかもしれない。
作成者:(かず)