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『釜石ラーメン物語』:今関あきよし監督インタビュー

今回は公開中の映画(シアターセブン、シネマスコーレにて)『釜石ラーメン物語』の今関あきよし監督に取材させていただきました。

左:今関監督、右:映画チア部(かず)

―撮影の経緯を教えてください

釜石に最初に行ったのは2014年です。震災から3年経った時期でも釜石の町中に東日本大震災の傷跡が多々残っていたました。町には崩壊している部分があったり、仮設住宅があちこちに建てられている状況でした。なんで釜石に行ったかと言いますと、釜石の関係者の方から、最初は復興の手助けとして何か映画になるきっかけとなるものがないか、1度来てほしいと言われました。一番大きなきっかけは、“SL銀河”です。観光誘致のために、花巻から釜石までSLが2014年に通り始めました。それで、鉄道に乗るお客さんが増えるという構想もあって作品がスタートしました,でも、私自体はあんまり興味なかったんですよね。なので、呼んでいただいた方は少しがっかりされていましたね。僕はむしろ、SL銀河の終着点である釜石に興味を持ったわけです。震災後の傷跡が多く残っている町で実際に人々とお話をしますと、明るい方が多くて前向きで、とても悲惨なことが起こったという風には感じられなくて。町の風景と人々の、印象がまるで逆だったんですね。この町で、何か映画を撮れないかなというので、試行錯誤しながら8年ぐらい掛かりました。それで毎年通いました。映画はいろんなこと考えましたよ。実は大林宣彦監督の『時をかける少女』とか、 それを釜石でリメイクできないかみたいなことも考えていた時期もありました。町の構造がとても尾道に似ているところがあって、海があり山があり、大林さんの尾道シリーズみたいなものがここでできないかと試行錯誤しました。釜石ラーメンを作品にするきっかけは、釜石に行く度に町中にあるラーメン屋さんや中華屋さんで、釜石ラーメンを食べていたんです。釜石ラーメンは地元のソウルフードですね。それから7、8年後に、ふと、このラーメンを題材に 映画ができるのではないかと急に思いついたというのが『釜石ラーメン物語』のスタートですね。


―小川食堂さんは釜石に実在するんですか?

はい、実在しています。一応、名前は映画用には変えています。別に言っても構いませんので言いますと、小佐野町にある三重食堂です。小佐野町の雰囲気がとても良かったんですね。それから店内には食べるスペース、そして正美がゴロゴロ寝たりする居間が繋がっていました。お店自体が映画寅さんシリーズの雰囲気に似ていました。実は寅さんに関しては、僕が幼稚園の頃にアパートに住んでいたんですけど、隣に住んでいた方がたまたま寅さんのプロデューサーの高島幸夫さんだったんです。それもあって、『釜石ラーメン物語』を作り始める前から寅さんに対して親近感を持っていました。



-『釜石ラーメン物語』ではカツ丼のラーメンセットを注文してたのですが、実際に三重食堂さんのメニューにもあるんですか?


あ、そうなんです。映画で出てくるメニューのほとんどは実際にあるものです。カツ丼、ミニカツ丼セット、親子丼セット、ミニカレーセットなどがありました。向こうの方はセットで食べる方が多いです。それはなぜかというと、ラーメンが非常にあっさりしてるんです。東京で言うと駅の立ち食いそばのかけそばに近い印象なのです。


―映画ではYouTuberがお店に撮影に来た時、すごいテレビが来たかのように賑うシーンがあるのですが、なぜテレビではなくYouTuberにしたのかお聞きしたいです

YouTuberの方が今風ですし、実際にYouTubeで釜石ラーメンを作り上げている方々も多いです。やっぱり田舎なので、テレビや新聞取材やケーブルテレビとか、そういう取材が入るだけでとても大騒ぎしてしまう。なので、そこはオーバーにしたいなと。あとね、深作欣二監督の『蒲田行進曲』で、松坂慶子さんが演じるお嫁さんが嫁いで、平田満の実家(田舎)に行くシーンがあるんですね。そのシーンでは、お嫁さんだからみんな大騒ぎするんです。村の人たちが駅でオーバーに旗を振って迎えたりしています。そんな感じのイメージで、ちょっと大げさに描きたいなというので、ああいう表現にしています。


―小川食堂さんの壁に、お店のキャッチコピーが紙に書かれて壁に貼ってありますが、三重食堂にも実際にあるんですか?

それは僕が考えたオリジナルのキャッチコピーです。東日本大震災で傷ついたりもし、ラーメンって細いけども、 食べ物って人を繋げると思うんですね。温かいものなのでほっとしますし、家族で焼肉を食べたり、みんなでバーベキューをしたり、今だったらファミレスでご飯を一緒に食べたり。1人で食べるお子さんもいるとは思うんですが、 食が人を繋ぐ気持ちの温かさをキャッチフレーズにしたかったんです。それが映画のキャッチフレーズにも使われるようになったという経緯があります。


―津波を想像するようなシーンがあり、東日本大震災の背景が作品には見られるのですが、なぜ震災を描いたのでしょうか?

僕は震災以降、福島によく通っています。福島は原子力発電所の事故があって、今も住民の方には避難している方もいます。取材も随分としています。その前に、僕はウクライナのチェルノブイリ原発にも行っています。 やっぱり、そういう被害のことに反応してる部分が僕自身にあるんで、自然災害からの流れで人工災害にもなったし。先程話しましたが、釜石市を知ったのはSL銀河の連絡があったからです。 それをきっかけに東日本大震災の被害を多く目の当たりに見たので。多くのドラマができてしまうぐらい大きな感情がここにはありましたね。


―配役について伺いたいです。井桁弘恵さんが“正美”の役に選ばれた経緯を教えていただきたいです

井桁くんは『恋恋豆花』の際にオーディションに来ていただいてたんです。そのオーディションの最終選考に残ったのが、モトーラ世理奈と井桁くんだったんです。最終選考では2人を呼んで最終的にいろんなお芝居も含めてやっていただいきました。お芝居とか存在感は、ほぼ同じぐらいだったんですね。あとは役に合うかどうかでした。ただ、その時は泣く泣くと言うと失礼ですけど、あのー、井桁はとても惜しかったんです。結果的に『恋恋豆花』ではモトーラ世理奈に出てもらったんですが、その後もずっと僕の記憶に井桁が残っていました。いつか井桁で作品を作りたいっていう思いがありました。それで、今回の映画の時に井桁を思い出して、「あ、そういえば彼女がいるな」と。役柄的には男勝りな役なので、実際の彼女は他の映画とかテレビでやっているキャラクターとは真逆なので、彼女にとってはチャレンジだと思いました。あえて、いわゆるそういう感じじゃない子がやった方が、面白いしインパクトがあるんじゃないかということでチャレンジしていただきました。

―本編では正美の破天荒なキャラから成長していく様子が見られました。キャラクターについて工夫したことはありますか?

映画では、正美のお母さんは津波で亡くなっています。だけど、正美はお母さんが死んだのは自分のせいだと思い込んでるわけです。YouTubeで見ていただくとわかりますが、市役所前の悲惨な津波の映像があります。人々が巻き込まれる。被災者の方には今も映像を見れない方がいます。町中の建物の中には、ここまで津波が来ましたというプレートがありました。そのプレートを映像で出すだけでも大半の方は震災のことだと理解するので。ですから、本編ではそのプレートと逃げまどう人たちの声がちょっと入るぐらいにしています。それが結果的に多くの方に見てもらえていると思っています。正美のキャラクターは、そんな多くの被災地にいる「自分が原因」で、愛する人を亡くしてしまったということを背負った重荷を下して優しく穏やかになって行くということをシナリオ上でも意識しています。


―今関監督が学生の頃とかに見て、影響が受けた、あるいは見といてよかった作品を教えてください。

僕は大林宣彦監督が大好きで当時見ていました。監督のデビュー映画でもあります『HOUSE ハウス』という映画があるんですね。これはホラー映画だけど全然怖くない。これは別にね、誰かにお勧めされた訳でも、見ようと思って見たわけじゃないです。むしろ、そんなに見たくない映画だったんです。見たきっかけは、たまたま見に行った映画館で二本立ての一本だったんです。それで、大林監督の作品に出会ってからもう映画に対する考え方とか思いが変わりました。好みじゃない作品もちょっとチャレンジしてみたり、人がつまんないっていう作品をあえて見てみるとか。うん。そうすると意外な出会いもあるんじゃないかなと。その後ですが、僕は大林監督の現場でカメラマンもしましたし、大林さんがプロヂュースしてくださり「アイコ十六歳」という映画でプロの映画監督としてデビューさせていただいています。


―学生にメッセージをお願いいたします。

とにかく行動を起こした方がいい。 今なんでも計算してみるとほとんどのことはわかっちゃうけど、やっぱり動くことで わかることや感じることっていっぱいあるので。ぜひ好奇心を持って行動してみてください。


執筆:映画チア部(かず)

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