【インタビュー】『ある職場』舩橋淳監督|時代の無意識を捉える
現在でも大きな社会問題として日夜話題の絶えないセクシャル・ハラスメント。#MeToo運動をさらに一つの契機として、特に欧米ではそういった実態を告発する映画も増えてきている。
そんな中で公開されたある一本の映画はジェンダー後進国である日本の、あまりにもリアルでグロテスクなその現状をまざまざとスクリーンに映し出していた。『ある職場』。なんとも不穏なタイトルの本作、舩橋淳監督にオンラインインタビューを行いました。
取材・構成:おく
過渡期の日本をえぐり出す。
おく:よろしくお願いします。
舩監督:よろしくお願いします。
おく:まず、『ある職場』という映画を撮るにあたって監督がこの題材を選ばれたきっかけや経緯などを教えていただきたいです。
舩橋監督:そうですね。大体のことは、何て言うんですかね、チラシとかに書いてあるのでそれを少しずつ入れ込んで話しますね。
まずおくさんは、ご覧いただいていかがだったかというのを教えていただきたいですね。
おく:正直なところ、2時間15分ほどある中で、前半1時間あたりから見ているのがしんどくなってきて、ちょっと目を背けたくなるような時間が何度かありました。
舩橋監督:つらい時間だっていうことですね。
おく:そうですね。この映画のメインである話し合いというか、あの空間での会話がリアリティを持ちながらもずっと誰も得していない時間が続いていて、特に被害者女性の置かれてる身を思うとすごくつらい気持ちにはなりました。
舩橋監督:なんでこんなしんどい映画作ろうと思ったと思いました?
おく:おそらくホームページにもいろいろと書かれていたと思うんですが、『ある職場』というタイトルにもなっているように、これは日本のどこででも起こりうる、というか起きていることで、それをあえて切り取って映画としてメディアで流すことで、観客1人1人により自覚的になってもらうという部分が強いのかなと思いました。
舩橋監督:おっしゃる通りだと思います。とてもしんどくて見ていてつらくなるような映画をなんでそんな作るのかと言いますと…。元々はドキュメンタリーを作ろうと思ったんですよ。ただ、テーマを深めていくにあたって、セクシャル・ハラスメントについて、ジェンダー不平等の日本社会の中で何を描けるか、もしくは何を描くことに意味があるかというのを考えました。それは被害者にも加害者にもそれぞれの論理や正当化のロジックがあって周りの人にもそれぞれの考え方があって、それがぐちゃぐちゃな状態で何も整理されてないっていうのが日本の現状で。公的にも何が犯罪であるか、何が犯罪でないのかということもグレーのまま放置されてるのが一番の根源的問題なんですけれども、それゆえに人々が混乱に混乱を重ねていくというような状態が続き、だからセクハラがなくならない状況になっている。
例えば飲酒運転は今完全NGになりましたけど、なんとなく流されてた時代っていうのが、90年代前半まであったと思うんですよ。
おく:そうなんですね!
舩橋監督:ご存じないですか。
おく:はい、2000年生まれなので。驚きです。
舩橋監督:罰則はあるんだけど全然甘くて黙認されていた時代があるんですよ。警察に捕まったら「ちょっと今度から気をつけなよ」「すいません」とか言って流されてスルーされる時代があったんです。それはダメなんですよ。ダメだけど線引きが甘くて、ぼんやりとしたもので。ダメはダメなんだけど徹底的な取り締まりも厳しい罰則もないから、飲んでも見逃してくれるんだろうなと思って飲んじゃう人がいたって時代があって。
それが今は絶対NGだし、免許だって大きな減点を受け、停止や取り消しになる。刑事罰を科される可能性もある。そういう風に社会がやってはいけないことを認知していくのには時間がかかるわけです。セクシャル・ハラスメントもそうだと思っていて、あと20年後とかになったら「あの時代すごかったね」「こんなことやってたの?!」みたいになると思うんですよね。それが今過渡期で線引きがされてないからぐちゃぐちゃになっちゃってると。男性に「あんなのちょっとくらいいいじゃない」ってどっかで思ってるような人もいたり、「女の子は愛嬌があってなんぼ」とか言葉にするのも悪寒が走るような差別的な考え方を持つおじさん世代が、今はみんながセクハラっていうから口をつぐんでてでも実は言いたいことがある、みたいな、そういう人がいっぱいいると思うんですよ。そういう本音を全部ぶち撒けるような映画にしたいなと思いました。
おく:底みたいな部分を暴くと。
舩橋監督:これって会社組織じゃ起きにくいんですよ。みんな建前とポジションがあるから、そのポジションを弱体化させるようなことは言わないじゃないですか。「言っちゃいけない」というコードが蔓延してるから。それをあばきたくて。だからフィクションという構造が必要になったんですよ。
この作品は職場の保養所というところに社員たちで行く物語ですが、オフの日なので無礼講なわけですよ。冗談言ってもいいしどんな話をしてもいい。その中でちょろっと誰かが冗談っぽく「あのセクハラ事件もいろいろあったけどさ、結局なんとかなってよかったよね」と軽口を叩いたつもりが、「なんとかなったってどういうこと?」とカチンと来る人がいて、温度差が露出してだんだん本音が出てきてしまう・・・という設定はあり得るのかな、と。
この保養所自体の設定は僕が考えたフィクションです。当初の話をしますと、実際のあるホテルチェーンでフロントの女性が同じ部署の上司の男性にセクハラをされたという事件を聞きつけまして、僕が取材に行きました。それが2016年から2017年ごろのことだったんですけれども、いろいろと取材をさせていただいて、被害者の方、周りの同僚の方、同じホテルで働いていて噂だけ聞いたことあるけど本人のことはあまり知らない距離感の人、最後に加害者の上司に話を聞き、そこで最後に「次回、カメラを持ってきていいですか?」と聞いたら「それは勘弁してください。できないです」と言われて、ただ本人たちはちゃんと映画として誰かに訴えて社会を変えてほしいという思いは抱えてて。じゃあどうしましょうねとなったところでこのフィクションの形を思いつきました。名前も場所もバレないような形で劇映画として作る。本人たちの言葉はものすごい熱量を持ったもので、特に被害者の女性が伝えてくれた言葉はいろんな想いが込められていて、これは映画として伝えたいなと思いました。
そこで1つ出てきた問題は、監督が男だということでした。これは女性の監督にお願いした方がいいんじゃないかと思ったんです。もしくは女性の脚本家を起用したりとか。いろいろ考えたんですけど、それもそれで難しくて。何が難しいかと言うと女性が監督をするとそれはそれでまた女性目線になってしまうんですね。このセクシャル・ハラスメントが問題なのは1人の女性がセクハラを受けて可哀想だという映画にしても問題の本質が見えてこない点なのです。このセクハラを受けた女性がとてもつらい思いをしたということをただ悲劇として描いても全体を描いたことにはならない、男性がどうその状況を捉えているのかということがあまり見えてこないなと思って。男性だからこその本音の部分を抉り出したいと思ったんですね。さらに女性側も女性側で思ってることがあると思うからそれも抉り出したいと。そうするにはどうすればいいかと考えた時に、女性の被害者の方が言ってたことを思い出しまして。彼女は「セクシャル・ハラスメントを受けて本当にに辛かった。でもそれと同じくらいその後に会社の中で生きていくのが辛かった。」と僕に言いました。ずっと誹謗中傷を受けたり二次被害、三次被害を受けたり、少し距離のある人は本人から聞いたわけではないので情報がハレーションを起こしてるんですよ。
欧米、とくに僕のよく知っているアメリカの組織と日本の組織で違う部分があります。アメリカの組織だとある程度の透明性をもって公表するが、日本はそこまでは言わない。幹部がブラックボックスの中で出した結論や処分を当事者だけに通知して社内には言わなかったりする。そうなるとセクハラの場合何が起きるかといえば情報のハレーションなんです。人が急にいなくなったりしたら噂するわけじゃないですか。噂が噂を呼んで被害者の方があることないこと言われるわけで。映画の中でもあったように日本独特の同調圧力があって、被害者が責められるという状況になる。「会社の雰囲気が悪くなった」「会社が上手く立ちいかなくなった」と言ってなぜか被害者に責任の一端があることにされてしまうような状況が生まれてしまうのも非常に酷いなと思いまして、被害者を守ることができない組織の欠陥が出てるわけです。
被害者がセクハラを受けた時と同じくらいその後生きていくのが大変だと思った「その後」の時間にフォーカスしようと。守られるはずの被害者が徐々に痛めつけられていってしまうような状況を描こうと思ったんです。
おく:ありがとうございます。例えば先ほどおっしゃったように飲酒運転が昔はなあなあにされていたような状況に今のセクハラがあって、それが最悪の形で被害者に降りかかってくる状況、被害者の方に二次加害・三次加害を与えるような人間を男性の監督が抉り出すことによって、観客が画面の中にいるかもしれない自分をまざまざと見せつけられ、そういった行為がどれほど被害者を痛めつけるのかを再確認させられるような作りになっているんだなということを、今のお話を聞いて思いました。
キャラを理論武装させることで生まれるリアリティ
舩橋監督:僕は監督として自由に発言できる場所だけを作ろうとしたんですよ。女性の意見、男性の意見それぞれ自分の言葉で言ってもらう、即興スタイルで撮影を行っていきました。
おく:設定だけ与えたとHPにも書かれてましたね。
舩橋監督:そうなんですよ。女性は女性として自分の考えが言えるような、男性は男性として自分の考えが言えるような環境を作って、それが噛み合うか噛み合わないかという状況を作りたかった。僕の取材に基づいて、被害者の女性がいて、セクハラは絶対にあってはならないという強い想いの人がいて、自分は管理職で本音では騒ぎすぎだと思っている年配の女性がいて。めいめいのセクハラに対する考え方に温度差があって、男性の中には「セクハラ罪という罪はない」という、これは麻生太郎の言葉なんですけど、実はセクハラなんて大したことないんだと思っているが今の時代の流れを見てあまり言わないようにしている人がいて、だけどお酒が入って盛り上がってくるとポロッと言っちゃったりとか。それぞれの本音をキャラで設定して、それだけでは浅いので「なぜそう思うのか?」というのを徹底討論したんですね、カメラを回す前に。例えば今の男性だと「なんでセクハラは騒ぎすぎだと思うか?」と聞いて、「いやセクハラは良くないと思いますよ。でも加害者は反省したと言ったのに部署異動になって職場で居場所がなくなって会社を辞めるような立場に追い込まれてしまうと。それを考えると彼は人生を棒に振ってることになる。どっちが大変なのか考えたらそれは男性の方が大変なんじゃないか。」というようなところを考えてもらったんです。
おく:理論武装させたということですか?
舩橋監督:そうです。それぞれの役がなんでそう思うのかを理論武装させる。理論武装してるから自分を強固に信じるわけです。女性は女性で「どうして若い子だけ騒ぐのか。私だって通った道だ。そこはのし上がって自分が変えてやろうくらいになって初めて乗り越えられるんだから。」という割り切り型が出てきたりとか。彼女たちの精神の歴史を紐解いてそれぞれが何を信じてるかを追求してキャラにしていきました。
そして、誰がどう話し始めるかとか、順番は一切決めずに用意ドン!で回したんですね。
おく:なるほど。保守かリベラルかの縦軸と、セクハラを擁護するかしないかの横軸の分布図の上にキャラを散りばめて、放ってからカメラを回したということですね。
舩橋監督:それぞれが自分のことを正しいと思ってるから、ぶつかるわけですよね。どうぶつかるかが見ものだなと思って。段取りせずにドキュメンタリーのように撮ったんです。
おく:実験みたいですね。
舩橋監督:途中でカメラをワッ!って振ったりとか、ガクガクになって振ったりしてるでしょ?僕が撮影してるんですけどあれは本当に自分もびっくりしてるんですよ。この人が怒るんだ、とか。フレームの外で誰かがキレてるが聞こえて、カメラが遅れて来るとか、その臨場感も面白いだろうと思ってやってました。
面白いのが、これ海外の映画祭でも多く上映されたんですけど、アメリカで「なんか…日本の人ってこんな嫌な感じの雰囲気なんだね」って、空気が伝わるんですよ。「言葉が分からなくても空気感が伝わるのは初めての感覚だ」ってよく言われました。
おく:撮ってみるまでそのシーンがどれくらいの長さになるかも分からなかったということですか?
舩橋監督:そうなんですよ。2時間ワンテイクとかもやりましたし。
おく:そうなんですか?!
舩橋監督:2時間喋りっぱなしですよ。激論で。みんな熱くなってくると絶対に負けないぞって火がつく人もいるんですよね。そうしたら火がついた同士で喧嘩になっちゃって、僕は傍観者になるわけです。そこをそのまま伝えたかったんですよね。
僕は「時代の無意識を捉えたい」という言葉をよく使うんですけど、それがまあ半分くらいはできたかなとは思ってます。つまり、本当の根っこのところでどうでもいいと思ってるとか、自分はこれは許せないと思ってるとか、そういうのが出る瞬間っていうのはやっぱりグサッと来るんですよね。そういったグサッと来る瞬間がいくつかこの映画には散りばめられていると思うんですが、そういうものを追い求めて自分は映画を撮ってるところはある。みなさんが薄々は思ってるんだけど口にはしていないこと、「時代の無意識」が出る瞬間が現れたんじゃないかなとは思います。
ジェンダーの不平等を良しとしちゃってる、仕方ないと思ってる、受け入れてしまっている社会の不条理というのがありまして。やっぱりジェンダーの不平等はおかしいよねとなって欲しいな、と。
後編へ続く
映画『ある職場』は2月17日(金)より京都みなみ会館、2月18日(土)より元町映画館にて各館1週間限定上映。
2月18日(土)、2月19日(日)には各館、舩橋監督、主演の平井早紀さんをゲストにお呼びしてトークショーを行います。
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