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「憐みの三章」と「ジョーカー2」:秋の注目作と来年のオスカー候補作について

*今回の記事は映画評論家の町山智浩が発表したYouTube動画「『憐れみの三章』完全解説」と「町山智浩とDr.マクガイヤーの『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』復習回」を参考文献の1つとしています。いつも深く分かりやすい解説を提供してくれる町山さんに心から感謝します。ありがとうございます。

カバー画像:「憐みの三章」第二話の「犬が人間で人間が犬の世界」より
ギリシア神話には人間が動物になる物語が多いらしい。


・「憐みの三章」について

最近、一人暮らしを始めた。

主な理由は親から自由になるためだった。知り合いの中にはお金を節約するために僕よりも10歳年上で実家に暮らしている人も少なくないので、別に社会人になったからといって、必ずしも1人で暮らす必要はない事は早くから学んでいたが、親と暮らす負担は、僕にとって、経済的に不安定になる負担を超えていたので、今回の決断は早かった。

しかし、望んでいたはずの「自由」は思っていたような自由ではないとすぐに思い知る。

お金を稼ぐためにレストランで働けば次から次へと命令が飛んできて、失敗すると叱られる。飲食業は向かないと思い、憧れのハリウッドとコネがあるプロデューサーの下で動画編集を始めたが、条件としては給料なしで代わりに食事を奢ってもらえるという物。「これはいいのか?」と思っていた矢先、彼からもたらされるタスクは飲食業のそれを上回っていった。そして、彼なしでは食べていけないので必死にしがみつく。

「このままでは色々とまずい」と思い、今度は外国から来た観光客に街を案内するビジネスも始めるが、今回もまた、条件は給料なしで観光客が食事を奢ってくれるというもので、僕の生活はドイツ人の観光客が何を奢ってくれるかに依存することになった。

ようやく、ある程度の自由を手に入れた時には今度は何をしたらいいか分からない。気づくと新しい仕事をパソコンにしがみついて探している自分がいた。パソコンを開くと、欲しくもないサービスや商品の広告に広告。彼らはこちらが彼らの物を買うようにコントロールする。実際にそうした食品や物を買っても、見たくもない動画を見ても、心に残るのは虚しさだけだ。これが本当に豊かさなのか?どうにかできないのだろうか…。

彼らは彼らの思い通りに動いてくれる人を求めているのだ。今回の一連の経験から感じたのはこんな事だ。

人は他人をコントロールしたくて、また同時にコントロールされたがっている(そうでないと生きていけない)。

待てよ、これってどこかで聞いたことがある気が・・・。

Some of them want to use you
Some of them want to get used by you
Some of them want to abuse you
Some of them want to be abused

あなたを利用したい人もいるし
あなたに利用されたい人もいる
あなたを虐待したい人もいるし
あなたに虐待されたがっている人もいる

"Sweet Dreams" Eurythmics 
「スウィート・ドリームズ」 ユーリズミックス(訳:MOVIE JUNCTION)

そう、ヨルゴス・ランティモス監督最新作「憐みの三章」の冒頭で流れるこの有名な曲はそうした人間が持つ本質的な欲求を見事に歌い上げている。

そして、待ちに待ったサーチライト・ピクチャーズ配給の「憐みの三章」という作品は、この歌で歌われている事を3つの物語として紹介する、そんな作りになっている。普段、我々は操り、操られ、生きている。この映画体験が特別なのは、そんな自分たちの姿をかつてないほど客観的に見れることだ。

ヨルゴス・ランティモス監督「憐みの三章」ポスター

親がいない子供は生きていけない。だから子供には親が必要だし、彼らに操られる事も時には必要だ。会社は人を必要としているが、いざ人が入ったら彼らに会社の望むように行動してもらいたい。社訓を読ませ、研修を受けさせ、忠誠心を試す。

3つの物語のうち1つ目はそんな現代のビジネス文化を描いている。高層ビルが立ち並ぶ大都会に生きる一見裕福で社会的地位の高いビジネスマンが、実は全ての権限を社長に握られているという話。家は豪邸で、奥さんもいて、頼むカクテルは高額だ。

「社会的地位が高い」と聞くと聞こえは良いが、これは逆を言うと「社会に極度に忠実」と言う意味でもある。良い大学で良い成績を取るためには、受験制度や教師の指示にとことん忠実である必要があるし、会社内で上に上り詰めるには、やはり上司の命令を真面目にこなす必要がある。

トップの成績を取るエリートが大学が終わると何をして良いか分からないかったり、燃え尽きてしまったり、自分が何をしたいかを見失ってしまうと言う話はよく聞くものだが、この物語でジェシー・プレモンス演じるビジネスマンが自分を縛る上司を無くして、路頭に迷う姿に非常に似ている。

たとえ無茶な要求でも、従わないと生きていけないのか。そんな疑問を残して、この第1話はマーガレット・クアリー(「ナイスガイズ」「ワンスアポンアタイムインハリウッド」に次いで非常に性的なシンボルのように登場する。そもそもの物語が彼女の下半身から始まるのだから。)

ヨルゴス・ランティモス監督「憐みの三章」の一場面

または「国民には社会が必要で、国も国民に従ってもらいたい」といった構図もある。こうしたルールは本当に守らなくてはならない物なのか?こうしたルールに従っている我々は果たして正常なのか?ヨルゴス・ランティモスらしい深く哲学的な問いが本作を貫いている。

彼の作品にはルイス・ブニュエルの「皆殺しの天使」と言う作品が根底にある事も触れておくべきだ。この60年代にシュールな作風を得意とする監督から生み出された今作は、「晩餐に呼ばれたブルジョアが急に部屋から出られなくなると言う内容で、逆にそれを助けようとする部屋の外の人々も部屋の中に入れない」といった内容だ。非常にシュールなストーリーラインだが、別にファンタジーではなく、現実の私たちが社会や人間が定めたルールから自由ではない事を寓話的に表現しているのだ。部屋からいつでも出れるのに、ルールから自由になれない人はたくさんいる。

なぜ過労死が起こるか?なぜ、ストレスが溜って自殺に追い込まれるか?あるいは、なぜDV夫から、いじめから逃げられないか?理由は様々だが、いずれにしても自分以外の誰かが勝手に定めた「〇〇をしてはいけない」と言うルールに無意識のうちに縛られているからだろう。ルイス・ブニュエルが描きたかったのはそれで、ランティモス監督は自身のギリシャ人としてのルーツを引用しつつそれを現代に継承しているのだ。

監督作品の「籠の中の乙女」では文字通り子供達を閉じ込め、親の思い通りの教育をする事が描かれ、観客に「あなた達も同じ籠の中にいるのでは?」と訴えかけ、「ロブスター」ではどこへ行っても不条理な決まりで溢れた世界を描き出す事で「ルールに従う事」の不条理さを描いたこのギリシャ人の監督は、そうした「誰かが誰かを操る」もしくは「そこから自由になろうとする」と言う事を描き続けてきた。

これは2つの事を想起させる。1つはギリシア哲学だ。哲学者として知られるプラトンが書いた「国家」には非常に有名な「洞窟の比喩」という話が出てくる。洞窟の中で手足を縛られた人が洞窟に映る影だけを見て生活し、それを実態だと信じ込む物語だが、この世で見えているものは全てこれと同じく実態がなく、別の世界(イデア界)に本質があるのだとプラトンが説明するために出した比喩だ。

「籠の中の乙女」や「哀れなるものたち」で自分はどんな存在か、外の世界がどんな場所か正確に教えてもらえないキャラクター達はまるで洞窟の影を見ているかのようだ(なお、後者の作品で主人公のベラはそこから脱出し、自立する)。ヨルゴス・ランティモスがギリシア出身である事からその影響が伺える。

「憐みの三章」においてもキャラクター達は、誰であれ必ずしも真実とは言えない、洞窟に移された影のような物に非常に忠実だ。心理学者のキャロル・ドゥエックは「何を信じるかで人生は変わる」と言ったが、彼らの人生は彼らが信じているものに完全に支配されている。

そして、もう1つ想起させるものがある。今回最も背景としてある、そんな信仰を中心に広まった「宗教」、特にキリスト教だ。

「忠誠心を信者に示させ、ルールを守らせ、不合理でも信じ続け、教祖の発言に全て従う」これほどまでにユーリズミックスの曲を体現したものがあるだろうか?3つあるエピソードのうち、第三話は特に分かりやすくカルト教とその信者の物語だった。

ヨルゴス・ランティモス監督「憐みの三章」
カルト教祖に操られるエマ・ストーン演じる女性

ウィリアム・デフォー演じるカルト宗教の教祖は、死者を蘇生させる力を持つ女性を探しているが、「死者の蘇生」は「聖書」の中で何度か描かれてきたことだ。キリスト自身の復活やイタリアの監督アリーチェ・ロルヴァケル監督の映画にもなったラザロの復活などだ。そして、物語の後半で復活するある人物が第1話目と対をなすように作られている。

おそらく「聖なる鹿殺し」と同様、ギリシア神話とキリスト教を読み解けば、この物語の謎がもっと分かるのかもしれないが、ポイントはそんな大昔から今まで、人はあまり変わっていないという答えなのかもしれない。

かつて乗り回された戦闘馬車は今作ではエマ・ストーンが乗り回し、ドリフトする車になり、シェイクスピアのような古典文学・戯曲の導入として登場する語り部の詩は、ユーリズミックスの曲の詩になる。この作品は、3つの異なる作品全てに同じ俳優が登場し、別々の役を演じる事でかつてないほど、これが「演技」や「物語」である事をメタ的に強調する作りになっているが、かつて映画というものはこの世になく、観客は3DCGもない舞台装置や仮面を被った役者を「物語のキャラクター」だと信じ込まなくてはならなかった。

こうした点で「憐みの三章」は非常に伝統的で、普遍的な作品なのかもしれない。

サーチライト・ピクチャーズ30周年おめでとうございます!
「サーチライトピクチャーズ」ロゴ

「ジョーカー2」

フランク・ハーバートのど真面目なSF小説の映画化がワーナーブラザーズの財政を危機に立たせたコロナ下から数年後、バービー人形が歌って踊るポップな映画が、そんな会社を蘇生させた。

低迷中のディズニーも、赤と黄色のスーツを着たヒーロー達が踊りながら人を殺しまくる「デッドプール3」で蘇生し、頭の中のカラフルな感情がポップに活躍する「インサイド・ヘッド2」で息を吹き返した。今度は喋るライオンの続編を作るらしい。ユニバーサルは、黄色いバナナと月泥棒が歌って踊る「怪盗グルーのミニオン超変身」で何とかやっている。

映画好きとして、こんな興行収入を見て色々思う事がある。でも、今回は胸にしまっておいて代わりに「ジョーカー」の続編について話そうと思う。なぜなら、この映画の酷評と興行収入の低さが現代の世界中の観客が何を求め、何を求めていないかをはっきりと示しているからだ。

全世界で酷評されているらしいが、声を大にして言いたい。
「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」はかなり良い作品だ。

「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」より

観客、特にバットマンシリーズファンの多くはエンドロールを眺めながら「なんでこんな映画を作ったんだ?」と思ったと思うが、それは良い問いだ。なぜならトッド・フィリップス監督には、この映画を作った明確な理由があるからだ。

この作品の切り口はたくさんあり、「バンドワゴン」や「ダンサーインザダーク」のようなミュージカル映画史を紐解くのが一番妥当で、次が「ハングオーバー」を中心としたトッド・フィリップスのフィルモグラフィー、さらに「ダークナイト」のようなDC映画史だが、その辺りは多くの人が話しているので少し触れつつも、今回は少し別の切り口からこの映画について考えてみたい。

「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」より

「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」と言うドキュメンタリー作品を見たことがあるだろうか。「アメリカ社会に危機を感じたマイケル・ムーア本人が世界各地を回って、それぞれの国が持つアメリカにない良い要素を学習していく」と言う内容のコミカルなトーンのこのドキュメンタリーだ。そして、今作ではアメリカの独房文化の過酷さが目を覆いたくなるほど描かれ、北欧の刑務所と対比される場面がある。

アメリカには犯罪者を極度に罰する仕組みが長らくある。問題は「その人物が社会的に悪いことをしたから裁きを与える」と言うそのあまりに単純な考えが根っこにある事だ。それは、西部劇のような「正義が悪を倒してハッピーエンド」と言うアメリカンヒーロー的な勧善懲悪の物語をハリウッドが長年作ってきた事からもわかるようにアメリカ文化の1つなのかもしれない。

最初に紹介したハリウッドの一連のヒット作を見て、胸に感じる事がある理由もその点で、はっきり言えば、「観客皆が考える事ができていない」もしくは「考えることができていないと制作者が考えている」んじゃないかと思わされるラインナップだ。

ヒーローと悪の関係が曖昧だったり、何が起きているか分かりづらい作品は本当に好まれないし、作られないし、そもそも儲からないから作れない。でも、現実には善も悪もなく、「憐みの三章」についての時に話した通り、人の心情も信条もずっと複雑だ。

今作は一見作品全体を通して、アーサーを罰する映画にはなっているが、トッド・フィリップス監督は「罰したい」訳ではなく極めて現実的に、そうした社会を描きたかったのではないかと思う。実際にアメリカ社会で一級犯罪を犯してどういう場所にぶち込まれるかは、マイケル・ムーアが描いて示した通りだ。

さらに、この作品は明らかに「信じていた相手に裏切られ続ける不幸な女性」を描いたフェデリコ・フェリー二監督の名作「カビリアの夜」に似ているし、フェリー二と聞いて思い出すのはヴィットリオ・デ・シーカの作品などで知られる戦後のイタリアン・ネオリアリズムだ。

「幻想と空想で埋め尽くせれた本作のどこがリアリズム?」と思うかもしれないが、もし幻想が描きたいならもっと派手にやる方法はいくらでもあったのに作品のロケーションは限られ、ミュージカルの歌声はあえて上手にせず、実際に1作目の「ジョーカー」であった事に現実的に向き合っている。

フェデリコ・フェリー二「カビリアの夜」より

「カビリアの夜」のように聖歌が登場し、暗い場所で一抹の希望の光を求める。しかし、迎える結末はリアリズム映画と同じくバッド・エンディングだ。

トッド・フィリップス監督は作品にはっきりとした政治的メッセージは込めていないとインタビューでいうが、加えて「社会的な要素は意識せずとも自然と含まれている」という発言をしている。

これはウェス・アンダーソン監督がアニメーション映画「犬が島」を監督した際の発言と似ている。「犬が島」では政治の汚職に分断、陰謀、差別、排斥、ワクチン接種といった事が犬と猫を通して可愛らしく描かれるが、全て現実の社会問題と酷似している。意図的に政治的にしなくても、日々ニュースに接する中で自らが書いた脚本にそうした要素が自然と反映されてしまうのだろう。

第1作が格差社会に社会に対しての不満をぶつける貧者の物語であった事を考えると、今回も力強くそうした要素を盛り込んでいると言うのは自然な流れだ。

そして、今回は「刑務所」と「裁判所(裁かれる場所)」が2つの主なロケーションになる事で、「アメリカ社会で犯罪を犯した人がどんな末路を迎えるか」を「現実的に」描いているのだ。特にアーサーを弁護する弁護士が何度も「彼は虐待を幼い頃受けていて、精神的に病気の状態だったので今回のような殺人に至った」と証言するのがポイントだ。もし、フィリップス監督がアーサーとそれに熱狂する人々を罰したいだけの映画なら、このセリフを何度も強調する必要はない。

多くの犯罪者が犯罪者でない人よりも酷い環境で育っていたり、その影響で精神的に病気になっていたとしたら、その犯罪の責任を彼らはどこまで負うべきか?彼らは本当に悪人なのか? こんな問いを今作は抱かせる。

そして、そんな事を描いたヒーロー映画が実は最近公開されていた。それが、ジョン・ワッツ監督の「スパイダーマン:ノーウェイホーム」だ。この作品では、これまでスパイダーマンシリーズの悪役が実は精神的に「悪の感情」に取り憑かれており、それをスパイダーマンが取り除けば、彼らも善人になれると言った前提で話が進んでいく。この「悪の感情」とは結局のところ、彼らが望まないうちに起きてしまった不慮の出来事・背景で、今回のアーサーの場合に当てはめると厳しい家庭環境になる。

ポン・ジュノ監督の「パラサイト」の中で金持ち一家に忍び込んだ貧しい一家のソン・ガンホ演じる父親が、金持ちのパクを指して「彼は優しいな」と言うと妻が「私だって、こんなに大きな家を持っていたら優しくなるわ」と言う場面がある。

町山智浩も著書「なぜ映画は格差を描くのか」でこの構図について言及している。つまり、社会の格差が進むと、貧しい環境にいる人が不満を抱き、社会のルールを守らなかったり、不満を爆発させて犯罪者になる確率が上がる。こうして治安が悪化し、最終的に金持ちの方にその不満が返ってくる。こんな構図があるから金持ちがどんどん金持ちになるシステムは金持ち自身にとってもマイナスだと言うことだ。

不満を爆発させた犯罪は最近に始まったことではなく、古くはフランス革命が代表としてあったし、フランス革命期の混乱を描いたチャールズ・ディケンズの「二都物語」と言う作品もある。そして、そんな「二都物語」に影響を受けた作品がクリストファー・ノーラン監督の「ダークナイト/ライジング」だ。

革命の泥沼が描かれるロマンス
チャールズ・ディケンズ名作「二都物語」より

こうした作品が近年作られているのは、現代がかつてないほど自由な社会でありながら、個人個人の行動の違いが社会的背景なしに説明できないくらい差が生まれているからだ。

大学院に行ってからCEOになるシリコンバレーのペントハウスに暮らす人物がいる一方、同じカリフォルニアで虐待を受け、自信を失ってホームレスになって、怒りを溜め犯罪を犯し、刑務所に入れられ、犯罪の裁きとしてボコボコに痛めつけられ、場合によっては死刑になる人物がいる。

後者の人物の取った「行動」が「100%自由意志」で自己責任というのはどう考えてもおかしいんじゃないか。しかし、人が作った社会的ルールにおいては、その犯罪は「自らの意思で自由にやったので責任を取らなくてはいけない」事になる。その1つが今回のアーサー・フレックが辿っていった末路ではないだろうか。

作品はミュージカル史への引用を中心に、そうした現実をさらに観客に突きつけて考えさせる作品になっている。

近年のヒット作は、観客にはっきりと物事を説明し、善悪ははっきりし、楽しく歌って踊って、汚い現実を隠す傾向にある。

もちろん、会社ビジネスの戦略としては間違っていない(そもそもお金がなければ映画は作れない)が、それではいつまで経っても「現実」が描けない。トッド・フィリップスはそんな映画にしたくなかったのだろう。バッドエンディング、熱狂に浴びせる冷や水、法廷劇、限られたアクション、ヒーロー映画ファンには申し訳ないが、どの選択も映画芸術を愛する人々にとっては大胆で魅力的な一作だ。

おまけ:来年のオスカー候補作について

さて、今年も米国ではアカデミー賞作品公開シーズンがやって来た。来年のオスカーの作品投票は今年の末までなので、投票者の印象に残ろうと戦略的に年末に芸術映画を公開する傾向にある映画界だが、今年も最高の作品が集まっている。

その中で最も注目度が高いのが、ショーン・ベイカー監督「アノーラ」だ。

Blondieの「 Dreaming」が流れるユニバーサルの予告編を毎日興奮しながら見ているが、今これほど映画界で注目されている作品もなく、映画ファンとして心の底から、公開を待ち望んでいる。スマホ撮影から始めたショーン・ベイカーが本年度最高傑作を生み出し、パルムドールを受賞したカンヌで大絶賛され、そのままオスカーに突入しようとしている。

監督賞、主演女優賞、脚本賞、作品賞は確実と言われているかなり期待値の高い作品な訳だが、気になる物語は?

賞レースを席巻で特大注目の
ショーン・ベイカー最新作「アノーラ」より

現代版プリティ・ウーマンと評されている今作だけあって、金持ちの男性に苦しい状況(予告編を見る限りアノーラはナイトライフに潜む娼婦だ)を救われる女性と彼女の家族との関係が描かれる作品と予想ができる。ニューヨークの娼婦がロシア財閥の息子に恋に落ちるラブストーリー?また、若者達が旅をする青春映画の要素も感じ取れる。映像がとにかく綺麗で、撮影が美しい。

WE LOVE SEAN BAKER 
日本公開情報、首を長くして待っています。




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