格差社会が生み出す芸術の問題:「逆転のトライアングル」と共に
「こうやって特権階級は永続していく物なのさ、ある日フィリップが会社で言った。僕たちみたいな金持ちのろくでなしが無給のインターンシップを受けて、他の連中から仕事を奪うんだよ。」
サリー・ルーニー
「カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ(2021/早川書房/山崎まどか訳)」より
社会システムが芸術に与える影響
ある日、僕は知り合いの映画好きとアカデミー賞の話をしていた時に、いかにクリストファー・ノーランが過小評価されているかについて話した。今でこそ「オッペンハイマー」と言う作品で監督として認められるノーランだが、逆を言えばあれだけ美しいキャリアを積み上げておきながら、監督として映画業に正式に認められるまで12作品を待たなくてはならなかったのだ。
だが、僕が「過小評価」と言ったのはその事だけではない。
「クリストファー・ノーランの世界 メイキング・オブ・インターステラー BEYOND TIME AND SPACE」はマーク・コッタ・ヴァズが書いた文字通り「インターステラー」のメイキング本だが、これを読むとノーランがいかにキップ・ゾーンと言った有名な物理学者と共同で活動し、劇中の中で描かれる科学的な描写に現実味を与えようと試みているのかが見えてくる。
問題は、僕を含めた映画好きや映画評論家、映画審査員の多くが人文学畑からやって来ていて、作品の科学的側面を検証できない事だ。
つまり言い換えると、ノーランがどれだけ科学的に正しい描写を試みようが、それが「映画芸術」として認められる度合いを高める重要な要素として機能していないと言う事。これこそ、僕が「アカデミー賞には科学にまつわる賞を増設するか、審査員に科学者を加えるべきだ」と考える理由だ。
「インターステラー」の他にも、こうした点で正当に認められていないと感じる作品は「遠い空の向こうに」や「2001年宇宙の旅」がある。後者は今でこそ大人気だが、オスカーは逃したし、前者は今でも「青春映画」として捉えられている。
ここで言いたいのは、芸術、そして芸術的評価はこのようにシステムの影響を受けると言うことだ。アカデミー会員がどんな人物で構成されているかが、芸術としてどんな作品に価値があるかについての価値基準を作り上げる。
社会やシステムの影響が芸術に及ぼす影響についての例は他にもある。
(マーティン・スコセッシの「ヒューゴの不思議な発明」で描かれたように)その昔、映画産業はフランスで大きく花開いていたが、今産業の中心地が圧倒的にアメリカにあるのは、その後やっていきた世界大戦にフランスが巻き込まれ、アメリカは戦場にならなかったからだ。
今回話したいのは、こんな風に「社会システムが芸術に与える影響」として近年最も問題になっている物の1つである「お金」の話だ。
具体的には、先ほどの例で「映画評論家や映画制作者に人文畑が多い事」を例に出したように、「評論家や制作者に金持ちが多い」と言う話だ。これは「どんな作品が認められるか」や「どんな作品が生まれやすいか」に同じように影響を与えるのではないだろうか。
もし創作者が、何かを生み出す際に自身のルーツやバックグラウンドが反映されるとするなら、そもそも「映画を製作する権利」や「小説を書く権利」「芸術を生み出す権利」が特権階級に集中しがちな社会では、当然描かれる内容も「お金持ちについての話」となるのでは?
予め断っておくと、この記事もこの検証も「特権階級の製作者が作った作品」や「特権階級に位置する人々について描いた映画」を批判するための物では一切ない。
「逆転のトライアングル」や「パラサイト」と言った格差問題を扱った作品で、明らかに軽薄な大金持ちの描写を見た後に誤解しがちなのは「金持ち=悪」と言う構図だ。しかし、現実には必ずしもそんな事はないし、そんなに単純な物でもない。
今回は、1人の芸術映画好きとして「芸術活動をする余裕が創作者の金銭的余裕と重なる事があるとするなら、その芸術作品にそんな彼らの余裕のある生活が反映されるのでは?」と言う事を分析してみようと思ったのだ。
2024年オスカーで考える
それでは、先程も話題にした「アカデミー賞」の話、特に今年(執筆時点で2024年9月)のノミネート作から見ていこう。
以下の10作品が作品賞にノミネートした。
「オッペンハイマー」
「落下の解剖学」
「関心領域」
「ホールドオーバーズ」
「バービー」
「アメリカンフィクション」
「パストライブス」
「マエストロ」
「哀れなるものたち」
「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」
この内、3作品(「パストライブス」「落下の解剖学」「アメリカンフィクション」)が「売れている作家」についての話だ。そして、結局この3作品を含む7作品が「お金持ち」についての話だ(「オッペンハイマー」「マエストロ」「哀れなるものたち」「キラーズオブザフラワームーン」を加える)。
世界的に最も注目される映画祭の最も注目される作品賞の70%以上が「お金がある人」についての話であるという事は見逃せない。もちろん、いずれの作品も「お金があるから悠々自適」と言う話ではなく、彼らには彼らなりの苦しみがあると言う話だが、それでもやはりこれは興味深い事実だ。
だが、後ほども似たような事を書くが、これは何も意図的にそうなった訳ではなく、冒頭で示したように「社会のシステム上自然とそうなった」のだと考えられる。
主要監督が行った試み
これに対する試みとして、ポン・ジュノやクロエ・ジャオ、ケン・ローチ、是枝裕和といった面々「庶民的な生活」について描いているが、彼らはそうした生活についてリサーチを必要とする。
また「パラサイト」や「そして、父になる」のように彼らが作り出すのは「庶民の生活についての映画」と言うよりかは「庶民と特権階級の関係」についての映画のようだ。
映画評論家の町山智浩が「格差社会が進行したら、本来芸術を生み出して社会にその作品を還元するはずだった人々の存在」が消えてしまうと語り、「金持ちに対しての税金をあげる事」を提唱したが、アカデミー賞のキャラクターを見ても感じるこの「描かれる内容の偏り」はその警告をさらに促すような結果だ。
同じく町山智浩とよく対談している女優で映画監督の藤谷文子の「バビロン」に対しての指摘が興味深かった。
デイミアン・チャゼルの今作はポール・トーマス・アンダーソンの「ブギーナイツ」に影響を受け、ハリウッドの華やかさに潜むダークな部分を描こうと試みていたが、結局作り手であるデイミアン監督が父親に大学教授を持つ、アメリカの名門校育ちの言ってしまえば「エリート」なので、「ブギーナイツ」にあったようなストリート感覚の恐怖(守られていない感覚)は再現できていないと彼女は指摘したのだ。
この話はもし映画を作るクリエーターが特権階級に集中したら、映画の内容も張りがなくなってしまう事を示している。
映画界に起きている二極化は単に興行収入にまつわる物だけではなく、言葉で表現しづらい映像の中のフィーリングにも現れているのだ。
「逆転のトライアングル」について
前年にオスカーにノミネートされた今作は、個人的に去年見た映画の中で一番面白かった。富裕層が乗った豪華客船内で事件が発生し、船の中にあった階級のパワーバランスが逆転していくブラックコメディなのだが、これは先ほどから取り上げている簡単に崩せない社会構図への抗議としての意味合いを持っている。
しかし、作品自体はカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した事もあって、「大衆向け」には作られていない。何なら観客が特権階級である事を想定して作られているかのようだ。ただ作品のコンセプトとして示されている「階級の逆転」が全てではなく、金持ちは実際には非常に孤独で、矛盾した存在であると言う事も描いている。このトピックについて考える上で、何より思うのは今作で描かれているように「全てが自然に起きている」と言う事だ。
社会は人々の欲望が向いた方向に進む。金持ちには金持ちの人生があり、知り合いの金持ちに対して感じた劣等感から、もっと良い車を買ったり、散財したりしているのかもしれない。こうしている時「金を使って環境を破壊しよう」とか「貧富の差を拡大しよう」なんて意図的に計画してやっている邪悪な人は少数派だ。
「逆転のトライアングル(Triangle of Sadness)」全体で描かれる悲しさ(Sadness)は、その事に気づかせてくれる。
ディズニー映画で描かれるハイクラス
エリートが入社するアメリカのメディア会・エンターテイメント界での一流企業といったらディズニーだ。ここで生み出される作品は、かなり作り手の特権的な身分が反映されていると思う。
「ベイマックス」のヒロや「インサイドヘッド」のライリーを、小さい頃見ていた段階では、彼らがカリフォルニアのベイエリアを含む「サンフランシスコ」と言う特権階級の多く住む土地に暮らす人々だとは知らなかった。
また「特権」と言う観点では「選ばれしもの」的な物語も多い。ディズニープリンセスはもちろん、ブラッド・バード監督はそうした作品を作るクリエーターの代表で、大豪邸や高級レストランが登場する彼の監督するピクサー作品は、そうした描写からしばし批判を受けている。
業界に不足するもの
「熟れた果実でいっぱいの暗褐色の木のボウルと、ガラス張りの温室が目に留まったのを覚えている。金持ちだね、と思った。私はその頃、富裕層のことばかり考えていた。」
サリー・ルーニー
「カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ(2021/早川書房/山崎まどか訳)」より
僕はこの頃、富裕層のことばかり考えていた。実際には、「パストライブス」や「マリッジストーリー」に出てくるニューヨークの劇作家のような生活ー搾りたてのレモネードと洒落たハンドクリームが溢れるーが羨ましくて、友達には「パストライブス」の女優グレタ・リーがロエベ(高級ジュエリーブランド)の広告として出てくる雑誌の話ばかりして、「もうエルとヴォーグとバザールの話はしないで!」と呆れられていた。
映画で描かれているように、そしてアイルランドの小説家サリー・ルーニーが書いてみせたように、必ずしもこちらが憧れる特権階級が、いや、こちらが憧れる全ての人がこちらに映るような生活をしている訳ではないし、彼らの多くは「あなたが考えているような物じゃない」と否定するだろう(何回も似たような事を言われた経験がある)。
思えばグレタ・ガーウィグの「レディバード」はまさしく、そんな作品だった。ニューヨークの華やかな生活に憧れるクリスティーンの理想に対して、母親は「私たちはリッチじゃないから」と突きつける。彼女の欲求不満、誰かへの憧れは募る一方だ。しかし、ティモシー・シャラメ演じるクールなギタリストのカイルも、日焼けマシンを家に常設し、高級自動車を乗り回すジェナも、実際に近づいて理解すると全くこちらの考えていた人ではない事が明らかになる。
ここで再び言いたいのは、特権的な階級の映画作家も小説家も、誰かに自分達の生活を自慢したくて創作をしている訳ではなく、普通に創作していたら「お金持ちについての映画」が自然と生まれてしまうのだ。
多くの人は、同じように人生を同じ社会で生きてきたのに、どうしてこうも人と人の間に差がつくのだろうと感じる事がしばしあるが、悪者の登場しないポン・ジュノ監督の「パラサイト」やオシュトルンド監督の「逆転のトライアングル」のように、誰かが悪い訳ではなく、これらは、ただ日々個人が自分の人生を充実させようと生きてきた結果なのだ。
ただ、そうなってくると、止めようのないシステムの中で、やはり「自然に庶民的な生活を描ける作家」がますます業界に不足していく事になるのではないかとも思う。
そうした点からも、映画鑑賞者はしばしスターや映画監督を憧れの対象として崇拝するが、同時に自分たちの日常を描く作り手に期待する事も今後は大切になってくるのかもしれない。
画像引用元:GAGA配給:リューベン・オシュトルンド監督「逆転のトライアングル(2022)」より