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『カモン カモン』

原題:C’MON C’MON
監督:マイク・ミルズ(『人生はビギナーズ』(10)、『20センチュリー・ウーマン』(16))




「なぜ人は物語を紡ぐのか」という問いかけ。作品を生み出す行為は、製作スタッフ間の、また作り手と受け手との、言語を超えたコミュニケーションであるらしい。

言葉ではなかなか分かり合えなかったジョニー(ホアキン・フェニックス)とジェシー(ウディ・ノーマン)は、音の世界をハブとして通じ合う。
インタビューを受ける子どもたちにとっても、ガンマイクは世界と繋がるためのcarrierとなる。
その様相を見るにつけ、鑑賞者たる我々観客も、自分とそれ以外との楔を意識せざるを得なくなっていく。少なくともその時間、そのハコにたまたま集まった者たちの間に、それは生じている。
作品を作ったり観たりする行為は、単なる情報処理ではなく、人が社会を作るための儀式なのだ。


Amazon primeやNetflixのウォッチリストを眺め、自分はつくづく不幸だなあと思う昨今です。一体、どれほどの期間を費やせば観切れるのか分からない、膨大な数のタイトル。
かつて「映画を観る」という行為は、それこそ特別な儀式であった筈なのに、いつのまにか達成すべきノルマのようになってしまっている。映画がどんどん消耗品のように、あるいは処理すべき一過性の「情報」のようになっていく。

訂正、映画がそうなるのではなく、受け手がそう扱う事で作り手も需要に合わせざるを得なくなっていく、ということかもしれない。


ファスト映画や10秒スキップ視聴を「ああはなるまい。なるわけがない」と鼻で笑っていても、自分もまた形態が違うだけで、情報の洪水に溺れる一人である。そんな念を抱いた次には、映画を観る事にすら罪悪感を抱くようになる。

詩や小説を書く。絵を描く。映像を撮る。
すべて「モノを語る」行為であり、作り手同士はもちろん、作り手/作品と受け手とのコミュニケーション、ひいては世界と繋がるための手段であるのならば、あらゆる創作物を「コンテンツ」と呼び、時短で消化するだけになる事がどれほど貧しいか。

表現の下層にあるコアの部分を読み取るには、それ相応の時間をかけなければならない。にも関わらず、次から次へ供給される「コンテンツ」によって、作り手も受け手も疲弊しているのが、VOD台頭の時代なのかもしれません。

…などと一人堂々めぐり、セルフおセンチに沈む中でこの『カモン カモン』を観たわけですが、改めて「時間をかけて理解し、寄り添い合う」ことの重みに気付かされた気がします。

やさしいホアキン・フェニックスに会いに行きましょう。

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