「ノマドランド」鑑賞記録
先日、劇場にてノマドランドを観てきました。引っ越しに伴い、初めての映画館で観てきました。学生最後の劇場鑑賞ということで、堂々と平日の昼間に行ってきました。公開直後ということもあり、その時間帯の割にはお客さんが入っていましたが、私より若い人はいないような感じの客層でした。
映画は素晴らしい、の一言に尽きます。気付くと頬を伝う涙がありましたが、その涙がなんの涙なのかすぐには分からないような、ただただ圧倒される感動がありました。
ノマドという人々、生き方について殆ど知識のなかった私は、なんとなく自由な生き方ぐらいの捉え方をしていました。実際、主人公のファーンが自分のことを「ホームレス」ではなく「ハウスレス」だと説明しているシーンがあり、決して追い詰められ辿り着いた果ての生活という印象を抱かせないようなところがありました。しかし、そんな甘い生活では決してないことが徐々に明らかとなります。
社会から追い出された人々が集い、それぞれに個々に生きているわけではありますが、追い出された者同士で助け合って生きることは必然とも言えます。その痛みや苦悩を分かち合えるのは同じ道を生きる者だからこそ。でも共有できるのは決してマイナスの感情だけではありません。ノマドの人々は社会に当たり前のように縛られ生きる人々が見たり知ることのないであろう素晴らしいものも共有します。それは言葉として、考え方として、様々な形で共有されているように思います。
多分、私が感動したのはその大自然の美しさなのかもしれません。ファーンの目を通して映し出される自然の美しさは、その生活の苦しさと対照的な映像を生み出しています。生きることの辛さと苦しさの一方であまりにも壮大で圧倒的な美に目を奪われます。生きることは決して楽ではなく、辛いことも多いです。ましてやノマドとして生きることは一種の尊厳や誇りもあるように思われ、その辺をうち捨て生きる道も選べただろうことを考えても、とても楽なものではありません。ファーンに限らず、ノマドの人々はそれでもノマドとして生きたいと思う強い思いに突き動かされているように思います。
「この生き方には最後の”さよなら”がない」というような話がありました。たしかにノマドの人々はまたいつかどこかで巡り合えると信じ、出会いと別れを繰り返します。私はノマドではないものの、この考え方に割と近くて、卒業とかで人と別れる度に、でもまた会えるからな、と思ってしまいます。実際に簡単に会える距離にいたり、つながれる手段があるので余計にそんな風に思うようになりましたが、ノマドの人々がこう思うことは何だか少しその言葉の重みや捉え方が違うような気がします。もう二度と会えない可能性の方が高いぐらいなのに、”また”と思うことができる、そうやって人の別れと向き合うことができる、いやそうでしか向き合うことができなかったのかもしれません。自分にとって本当に大切な人がいなくなった経験が無い自分にはまだ真の意味で”また”と心から言える日は遠いのかもしれません。
この映画は劇場で観るべきだと個人的に思う理由は、音が一番大きいかもしれません。家でこの映画を初めて観るとしたら、また全然違う印象になったのではないかな、と思ったりしました。圧倒的自然。その中にいる、という感覚がどれくらい強いか、というのはこの映画の感想を大きく左右するような。劇場で映画を観る良さについて様々な意見が交わされていますが、個人的には良い音楽を大音量で、というのも勿論ありますが、静寂こそが劇場ならではの良さじゃなかろうかと思ったりします。真の静寂、暗闇はなかなか一般家庭では作れません。
ぜひ多くの方に観て頂きたい映画だなと思います。