ほんの少しの戦略的余裕
今日は余裕について考えたいと思う。
余裕がある人とは、様々な事に考えを巡らせ、決断し、行動に移すことや、または受け流す選択をしていると思う。
その人達には、行動に一貫性がある。
自らの思想(好き嫌いや判断基準)に基づき、その場で対応を決断しているから。
では、人は余裕がない時には行動しないのか?というとそうではないようだ。
これまで人を観察してきたが、どうも余裕がなさそうな人には共通点が見られた。
その共通点とは、彼らには行動に対する思想がないということだ。
よく動き、言葉も沢山発しているが、一貫性がなかったり、居心地が悪いのかなんとも落ち着きがないのだ。しかし、彼らは努力家であるので、前がよく見えない状況下においても、前へ前へと動作が止まることがない。
わたしのような、なかなか行動を起こせない人間からすると、行動的な人達は憧れの対象でもある。
でも意欲的に物事に取り組む人達のなかでも、それら行動に思想がない人がいたりする。そんな彼ら彼女をよくよく眺めて観察してみると、その行動力が決して彼らを幸せにしているわけではないことがわかってくる。
言うならば、全ての行動がなんらかの逃避活動になっているのだ。
彼らの動き方は、時に見えない何かを探しているようにも見えたし、自分がどうしたいのか確かめるために行動している、まるで航海士のいない船のようだった。
止まってしまうと、もう二度と動けない。
目的地はないけれど、今はもう行動せざるを得ない。そんなある意味抑圧された感覚さえ持っていそうだ。
いつも手当たり次第に目についた物にチャレンジ。一見輝いて見える人にも、中には余裕がない人がいたように思う。
何にでも参加し、無駄なお金や時間的コストを払っても歩みを止めれない人たち。
行事にも、友人との集まりも会社の飲み会も、彼らはいつもいた。
出無精で付き合いの悪い人間から、そんなふうに思われるなんて失礼な話なのはわかる。
だけど、傾向として趣味や嗜好がどんどんアップデートされていく人達は、どうしても幸福には見えない。
色んな経験をしてきたはずの人でも、思考停止で走り回っている人に出会うと、こんな風すら思う。「人よりも恵まれている環境で、色んな刺激に晒されてきても、思想的な余裕がなければ、その感受性に限界がきてしまうのではないか。」
わたしは、たまに自分に余裕がなくなってきたなと感じたり、日常的に刺激が多く疲れた時には、めいいっぱい自己を部外者することを意識的に行なっている。
会議中にみんなが真剣に議論している最中でも、ニュースに関する話題でSNSのやり取りが炎上しているの目にするときも。
自分を、しっかりと全ての事柄から部外者にする。
そうすると、不思議なことにすごくスッとしてくる。
そして、自分自身も、この世のあらゆる問題も、あまりに全ての事が小さいものに見えてくる。
わたしはそれを戦略的余裕と呼んでいる。
毎日パソコンやケータイ、テレビから抱えきれないほどの刺激が入ってくる。思想なんてものを形成する暇は、わたし達にはもうほぼない。
今すごくしんどい思いをしている人がいたら、ぜひ試してもらいたい。
まず部外者になり、戦略的に余裕を手に入れてみる。
そして大切な人や物事に集中してみたら、何かが少しだけ変わるかもしれない。