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公民権運動の始まり! 集団リンチ事件とバスボイコット運動✊🏿

皆さんこんばんは。
来週の日曜日は、いよいよ選挙投票日ですね🗳

もしかしたら期日前をもう済ませたぜって方もいるのでは😁

今回は、以前より紹介している公民権運動をシェアしていきたいと思います。

まずは、公民権運動はアメリカでどのように始まったのか。
政治へ参加する権利を黒人の方たちはどのように求めたのか。
黒人当事者が権利を獲得するまで、とてつもない差別による悲劇がたくさん起きていました。


エメット・ティル事件

1955年8月、シカゴで母親と暮らしていた14歳のエメット・ティルは、2週間の夏休みを利用して、ミシシッピー州のマニーという村の親戚の家で過ごすことにしました。
ミシシッピー生まれの彼の母親はくれぐれも白人に対していつも行儀よく振る舞わなければいけないと強く言って聞かせました。
白人の女性には「マーム」をつけて答えなければならないこと。歩道を歩いていて白人の女性が向こうからやってきたら、歩道から下りて道を譲ること。そのときは目を伏せ、その女性を見てはいけないと注意しました。
南部には、人種隔離について、成文化されたジム・クロウ法以外に社会慣習上の決まりが山ほどあったのです。
特に黒人男性が白人女性に話しかけることは論外、じっと見つめることさえ厳禁でした。

ところが、また14歳でやんちゃ心のエメットは、村の白人夫婦が経営する店で、店番をしていた妻のキャロラインの手首をつかんで「デートしない?ベイビー」と言ったらしいのです。

当時、南部ではジム・クロウ法に反した黒人に対しては集団リンチが行われるのが当たり前でした。
何千人という黒人が、リンチで殺されてきました。
黒人がリンチで殺されても犯人が捜査されることはなく、たとえ逮捕されても陪審員は全員地元の白人男性なので、犯人は無罪放免になっていました。
残酷なリンチを加えることで、恐怖で黒人を支配し、ジム・クロウ法に基づく社会規範を黒人に守らせていたのです。

キャロラインの夫ブライアントと異母兄弟のマイラムは、深夜ティルを連れ去ります。
数日後。ティルの変わり果てた死体が川から見つかりました……


一犯人のブライアントとマイラムは逮捕、起訴され裁判になりますが、陪審員は全員白人であり、評決は無罪でした。
しかし、ブライアントとマイラムは無罪判決確定後、雑誌のインタビューに答え、犯行の様子を告白しました。
彼らは罪悪感などなく、黒人に自分の立場を思い知らすために、見せしめのためにやったと堂々と認めたのです。

彼らの周りの白人社会も同じでした。黒人を殺しても犯罪だと思っていなかったのです。

市民の生活を守るべき警察も裁判所も市当局も議会も、すべての公的機関が黒人への暴力を容認していたのです。


しかし、亡くなったティルはまだ14歳。
頭蓋骨は一部陥没し、体はメッタ打ちされ、顔は誰だかわからないほど腫れ上がっていました。
しかもシカゴ出身ということもあり、この事件は物議を醸し、黒人たちがもうこのような暴力を認めることができないと立ち上がるきっかけとなりました。

ティムの死体はシカゴに運ばれ、母親の希望で埋葬までの4日間棺の蓋は開けたままにされました。ティルがされたことを広く知ってもらうためでした。
10万以上の人々が彼の無残な遺体を見ました。
さらに雑誌や新聞にも紹介されます。


アラバマ州モンゴメリーバスボイコット事件

アラバマ州モンゴメリー市では州法市条例と慣例により、バスの席も白人用と黒人用に分かれていました。
前方4列は白人専用席、後方4列は黒人用とされる、黒人は前のドアから乗って運賃を払い、一旦降車して後ろのドアに回って再度乗車させられました。
白人専用席が満席になったあとに白人が乗車してきたら、黒人は列ごと席を譲らなければなりませんでした。
バス運転手は全員白人で、黒人乗客への応対は、一部の例外を除き悪質でした。

1955年12月1日の夕方、ローザ・パークスは、職場からの帰宅途中のバス内で、白人の乗客のために席を譲るように言われましたが、座ったままで席を譲りませんでした。

席を譲らなかったことを理由に彼女はなんと人種隔離法違反で逮捕されます。

これを機会にバスボイコットが呼びかけられます。
この運動のリーダーに選ばれたのが、当時、デクスター・アヴェニュー・バプテスト教会の牧師に任命されたばかりの26歳のマーティン・ルーサー・キング牧師でした。
バスボイコットはほぼ100%実施されました。
多くの黒人たちは長い道のりを歩いて職場に通い、バスに乗らなくなったのです。

黒人のタクシーはバス運賃と同額で客を乗せましたが、当局は正規の料金で営業していないタクシー運転手を逮捕すると脅します。
そのため、次に、教会所有のワゴン車や自家用車を利用した送迎システムを作りました。
すると市当局は保険業者に圧力をかけて保険を無効にしたり免許を停止するなどの圧力をかけます。
しかし、ボイコットは続きます。


白人至上主義者団体KKKからの脅しやいやがらせが激しくなりますが、白人の中にも送迎に協力する人がでてきました。
警察はこの動きを阻止するためにささいな交通違反に対しても違反切符をだし、時には違反をでっちあげました。
白人雇用主はボイコットに参加する黒人を解雇しました。
ローザ・パークスもデパートのお針子の職を失います。白人からの脅迫や暴力も激しくなります。キング牧師の自宅には1日40回の脅迫電話がかかるようになり、56年1月には自宅のポーチ付近が爆破されます。
黒人が乗客の大部分だった(8割以上)バス会社は大打撃を受けます。
黒人は自分たちを差別する店をもボイコットしました。そのため商売にも大きな損失がでるようになります。

1956年2月、交渉による解決は無理と判断してキングらはバスの人種分離法自体の違憲性を問う訴訟を連邦地裁に起こしました。
その後もボイコットは続き、1956年11月連邦最高裁は、バス内の人種分離を規定するアラバマ州法とモンゴメリー市条例を違憲と判断します。


運動側の完全勝利でした。🙌🏾
連邦最高裁からの実施命令が届いた12月20日をもって382日間続いたバスボイコット運動は正式に終了しました。
このバスボイコット運動をきっかけに人種隔離に反対する運動は広がっていくのです。


この運動を描いた映画があります
「ロング・ウォーク・ホーム」(1990年 米)


公民権運動は、誰でもない黒人当事者たちが自ら立ち上がり、成し遂げられていったのです‼️

次は、バスボイコット運動でリーダーシップを発揮したマーティンルーサーキング牧師について掘り下げたいと思います!


参考文献 
「黒人差別とアメリカ公民権運動―名もなき人々の戦いの記録」  
ジェームズ・M・バーダマン著  集英社新書


「マーティン・ルーサー・キングー非暴力の闘士」
黒崎真著   岩波新書


執筆者、ゆこりん、ハイサイ・オ・ジサン

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