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34 夢から帰れなくなった人

 母が死んだ後、それとは無関係なのですが近所である事が起こりました。近所でと言いましてもそれが起きたのは特定の一人にだけです。その人は突然、夢から帰れなくなってしまったのでした。

 数日前の朝の事でした。私の家とその人の家は隣同士なのですが、朝私が2階の部屋で着替えてカーテンを開けるとその人は一階の雨戸を開けていました。そして私と目が合いましたから私はいつものように「おはようございます」と言いました。けれどもその人の様子はいつもと違っていました。泣いていたのです。泣きながら言いました。「私は間違っていなかった。私は母と同じように生きてきてよかった。本当に良かった」というような事を言い出しました。その人はいつも普通の人よりかなり早めに目を覚ましているのは知っていましたが何か心に引っ掛かるものがあったような事を言って、「起きられなくなってしまった」とも言いました。私には何の事かがわかりません。どうしたのかと聞いても要領を得ませんでしたが、その時には何か悩み事でもあったのかと考えただけで終わりました。

 次の朝、その人は朝の6時に私の家のドアのベルを鳴らしました。寝巻きのまま玄関を開けますと炊き込みご飯をパックに詰めて持ってきて私にくれると言います。くれる自体は特別に珍しい事ではありませんでしたが、持ってきた時刻が早すぎます。どうしたのかと聞きますと、また要領を得ない事を言いながら隣家に帰って行きました。それからしばらくしてゴミ収集場所から帰って来るのを見ますと何故かはわかりませんでしたが大泣きしています。大泣きしながら何かよくわからない事を言っていて、そのまま家の中に入って行きました。

 さらに次の日、今度は路地で私の名を呼んでいますので出てみると何やら嬉しそうでした。そして「これで私の怨みは晴らせた」と言いました。私がそれはどういう事ですかと聞きますと「わからなくて良いです。永久にわからないでしょう。この事は明日の新聞に出るでしょう」などと言います。おかしいなと思っていますと、その家の方が後で私の家に来て言いました。「うちの○○が何日か前からおかしくなってしまったので気にしないで欲しい。さっきあなたの名前を読んで何か言っていたので気になって来ました。ともかく病院に連れて行く手配はしてあるから」との事。

 私は驚きました。つい数日前まで何ともなく普通に生きて普通に生活していた人が急に変わってしまった事に。それからその人の家の中からは家族と大声で言い争う声が聞こえるようになり、壁を叩いて抗議するらしき音も聞こえてくるようになりました。

 その人がおかしくなってからのいくつもの言葉を思い返してみて、私はある事に気付きました。それらは断片的で、個々には繋がりがあるようにも感じられるけれども全体としては矛盾があって一貫しない、そう、そうです。それはまさに夢を見ている時のあの感覚そのものではありませんか。その人はある時点から、いえ、もっと具体的に言えば私が2階から言葉を交わしたあの時点から夢の中にいるままになってしまったのでしょう。その人は身体が目覚めても心は目覚めなかったのです。


 考えてみれば、私も、そして聞くところによると誰でも夢の中ではその人と同じような感じです。そうそう、夢の中を作品に仕立てて公開した映画監督がいましたっけ。人の脳は放っておくと無関係な記憶どうしをランダムに関連付けたり切り離したり、そこから新しい何かを産み出したりするするもののようです。それがあるきっかけで表に出る事があるのです。

 櫛野展正氏がTwitterで紹介しているものもそうした脳の活動が作品という形になって結晶した物かもしれません。

 私の隣人はおかしいように見えて、心は普通にいつものように働いている可能性があるでしょう。なぜなら私も夢を見れば毎日同じような事を脳の中でしているからです。ただ、私の場合には目覚めている間はその活動をどうにかして抑制しています。どのように?

 さて、それはどのようにでしょうか? ・・・? 論理的思考でしょうか? ふーん、確かに。私たちはいつもこう言います。「○○だから⬜︎⬜︎」と。1と1を足したから2、寒いから雪が降る、物価が高くなるから生活が苦しくなる、背が低いからモテない、学歴が低いから給料が上がらない、あの人がこう言うからそれは正しい。そんなふうな考え方でなくて、そんな言い方が何となく論理的のように感じて私たちをマトモな世界を形作っています。つまり、そうした思考が重石となって私たちを繋ぎ止めています。

 全くおかしなものです。良く考えてみますと、マトモな世界の思考が全く論理とも科学ともかけ離れたただの感情に裏打ちされた正しくも何ともないものであるのに、私たちはそれを持ちよって他人と話したり戦ったりして世界を構成しているのです。1と1を足して2になるのはある条件を適用した限定的な場合だけですし、雪は寒くなくても降る事があり、物価高が経済を良くする場合もあるのです。

 そう考えますと、夢の中で生きるのと夢の外のマトモと言われる場所で生きるのではそう違わないのかもしれません。この世界で起きている私たちの活動はだいたいそんなものであるという事は例のアメリカ大統領選挙の盛り上がりでも新型コロナやワクチンの件でも、そして今の政治の状況や教育を見てさえもわかります。そうしますと、私たち人間という生物は、私たちがそう考えているような形で、果たしてマトモに何かをきちんと考えて実行できる生き物だと言えるのでしょうか?

 私には信じられません。あなたは良い給料をもらう事を目的として高度な教育を受けます。それにはたくさんのお金が必要です。卒業証書をもらって会社に入って夜中まで頑張って働きますが、ふと気付くのです。この会社で昇進している人たちはどういう人たちなのか? スキルが高い、学歴が立派、経験豊富? いえ、ゴルフが上手い、酒が飲める、調子が良い、カラオケが好き・・・。それなのに私たちは高いスキルと高学歴のためにお金を払う。良く見てみればその教育制度さえ誰かが儲ける為の餌になっていたりします。政治家が国民の為に身を粉にして働くかと思えば利権目当て、国会よりも料亭で物事が決まる、特に政治の勉強をしていなくても誰それの息子だから当選しているのも現実です。


 こんな事を長く書いていますと別の方向へ行ってしまいますので止めますが、つまり私たちは夢の側にいても夢の外の現実の世界にいても、到底私たち自身が考えているほどに筋の通った思考の現場にいるわけではないのです。そして通常は頭の中で起きている摩訶不思議な夢の思考を良く考えてみれば感情的で破綻しているかもしれない偽の論理の重石で繋ぎ止めながら生きているのです。それにも関わらず、私たちは私たちをマトモだ、正しいと思い込んでいます。いえ、思い込みたいのです。おかしなものですね。

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