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31 人生の正解は自分で変えていい

 前回は、自分で自分の事を考えているとどうしても大バカに見えてしまうという事を書きました。つまり、他人と違ってしまうのは当たり前という事です。

 とは言え、私たちは正解はたった一つでそれが絶対的な価値を持つという教育を受けています。ですから、大バカなままでいるというのは私たち自身にとって居心地の良いものではありません。ですからどうしてもある一つの正解にこだわってしまいます。そしてその正解は、それを思う本人の考えとは離れて、直感的、一般的なものである場合がほとんどです。つまり、良く考えた末のものでなくてけっこうテキトーです。そしてそんな正解には皆さんも仕事や生活の中でいつでも接していて、もしかすると気付く事ができていないかもしれません。なぜなら自然にそこにあったり提示されるからです。

 私の前で起きている事をちょっとだけ紹介しておきます。皆さん、SNSは何のために使っていますか? このnote(これはSNS?)もYoutube、Twitter、Instagramなどがそうですが、多くの方々はマーケティング的な使い方や情報収集的な使い方をしています。フォロワーを集めて情報を自分の発する情報を拡散し、その中で何かを売るという使い方、そして自分のしたい事についての情報や共感が得られるように自分と同じカテゴリーや地域に属する人と繋がるというやり方です。そういうやり方、確かにあります。それはそれで良いのですが、そうした事を全く意図しないでやっている私のような人もたくさんいるはずです。けれども、それがあまり宣伝されていて「これがSNSのやり方だ!」と、それを正解だと考えてしまう人も、実はいるのです。

 何を隠そう、私の妻がそれで、(このnoteアカウントは存在を隠していますが) 他では自分と遠いカテゴリーの方々のアカウントを多くフォローさせてもらっています。例えば小説書き、絵描き、建築家やその学生さん、遠い国在住者、ヒーロー物映像を作成している方、音楽をやっている方など、自分では絶対にやらないしできない分野の人々と適当に繋がっています。もちろん自分ではその分野に関して何も発信できはしません。それに対して私の妻は、私に無関係だから止めるべきとか、私がツイートする時にスルーされないようにやるべき等と言います。はっきり言って余計なお世話なのですが、妻は上にあげたSNSはこうあるべきを読んで自分の頭の中に正解を持ってしまっているというわけです。お分かりですね? 広く一般に言われる正解というのはこうして私たちに影響を与えています。


 『1+1=』という問題を誰かがホワイトボードに書いたとします。この答について正解を書くのは私たちにとって、とても簡単です。なぜかわかりますか? 普通の答えとしては、それが算数の問題だからで、小学校で習う算術の基礎知識を使って解けるからです。ですが、なぜ簡単に解けるかという理由はもう一つあります。それは、「誰かが用意しているはずの絶対に正しい答があるというのを知っていてそれを上手く当てるという訓練ができているから」というメタ的な理由も大きいのです。私たちはこうした算術問題以外でも、問題に対して絶対に正しい唯一の正解が存在していて、問題が自分の前に提示された時点で自分にはそれが隠されている。そしてそれを持っている先生のような誰かがいると、全く自然に考えてしまっています。それはもう良く訓練されていますから、神様を信じるのと同じ位に絶対であまりにも自然です。

 私たちはこのやり方に慣れすぎていて、適用してはいけない場合にもこのやり方で対処しようとしてしまいます。ある意味、教育の弊害と言えなくもありません。(教育にはそれなりの利点がありますからこれをもって全面的に否定するものではありませんが) 自分の人生をどうするか考える時、ある人は誰かに相談します。どうするべきでしょう?、と。それがお金に困っているというような問題であればそれで構いませんが、もっと抽象的な幸せの問題、生き方の問題では相談しても直接の答は得られません。もし直接的な回答が返ってきたとしたら、それはおかしな事です。直接的な回答とは、この壺を買いなさいとか、私が紹介するこの人と結婚すべきですとか、お金が災いしているので全財産を神に捧げなさいというようなものになるはずです。ここに書くと笑ってしまいますが、唯一無二、絶対の答があるという事に慣れてしまっていて、それを期待しているとその答を受け入れてしまうかもしれません。

 もうお分かりかと考えますが、そもそも考え方がおかしいのです。幸せの方向へ行くには、人生はどう歩むべきかというような単に方向だけを求めるのは、そこに決まりきったレールがあるだろうという考え方です。勉強をたくさんすれば良い大学に入れる。成績が良ければ良い会社に入れるというのと同じです。ですが、それは社会がそれを準備していてその方向に進むのが普通だというだけの事で、個人としては何の意味も無いのです。ましてや人生や幸せとなりますとそんなレールはどこにも用意されていません。せいぜい結婚して家庭を持って・・・というような本当かどうかわからないやり方が言われているに過ぎないのです。もちろんそれにしても個人として良いかどうかは保証の限りではありませんが。

 「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」(トルストイ) こんな有名な言葉があります。だからといって皆同じような生活をしていれば皆が幸せという事が言われているわけではないでしょう。私が考えるに、考えられる限り全ての可能性と選択肢が開かれていてそこにあり、そして自由に選べる状態であるべきですし、それが他人がどう思おうと批判しようと選んでしまって構わないと考えます。最低限のルールのような事を言う人が出てくるでしょうが、頭が壊れていなければほぼ皆さん善良な方々ですからそんなのは後回しで構わないでしょう。(そうですよね?)


 ああ、またかと言われそうですが、他で書いていた事を別の方向から書いただけのような感じですね。つまり、『1+1=』という問題を提示されて正しい答を見つける必要など全く無くて、先に自分だけの答を勝手に用意してしまえば良いのです。そうすると問題の方が後から出てくるわけです。その時の問題は具体的ですし問題自体をいろいろ設定できるわけですから作り易いものになるのではないでしょうか?

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