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『Oh My!』の個人的解釈ーオチョナは『新学期 操行ゼロ』をオマージュしているという話

初っ端から、(私の知る範囲で)Caratの間で全く話題になっていない話で申し訳ないが、「Oh My!」は『新学期 操行ゼロ』という映画をオマージュしているという話から今回の考察を始めたい。

もちろん絶対とは言えないが、80%くらいはオマージュであると確信している。(ちなみに、先日、映画に関する話もよくする友人(Carat)に聞いたら「私もそう思ってた」と言ってくれたので90%の確信に変わった)

『新学期 操行ゼロ』とは、ジャン・ヴィゴ監督によって1933年に製作されたフランス映画だ。

あらすじをざっくり説明すると、寄宿学校で厳しい規律に苦しんでいる子供たちが、大人たちに反抗する=革命を起こす話。(あとで詳しく説明します)

この“革命”の前夜に、子供たちはベッドが並んだ寝室で「枕投げ」を行うのだが、このシーンがこの映画では一番有名なシーンとされている。

そして、もうお分かりだと思うが、「Oh My!」の枕投げのシーンは、スローモーションを使用するところまで含めて、この映画の枕投げのシーンに寄せられているのだ。

『新学期 操行ゼロ』の枕投げのシーン(引用1)
枕投げのあと、1人の男の子がリーダーのように王座について行進が行われる。ここでスローモーションが使われる。(引用1)/蛇足:「Oh My!」では羽毛が散らばった部屋でバーノンちゃんが浮かび上がるシーンが挿入されていたので、もしかしたらバーノンちゃんはこの少年のようにリーダーとして“持ち上げられた”ことを示しているのかもしれない。ただバーノンちゃんがこの少年かどうかは今回の考察には関係ないのでキャプションでの補足とする。


「Oh My!」の枕投げがこちら。

(引用2)
(引用2)

セブチのMVは「羽毛マシマシ!」といった感じだが、これはやはりオマージュをしていると思われる。

この映画を踏まえて考察されているツイートや記事がないので、少し不安もあるのだが、しかし、よくよく考えるとこの映画自体が有名なものではないので当たり前なのかもしれない。

というのも、この映画、そもそも古い上に、配信が一切されていないのだ。私の知る限りではレンタルもなし。数年前に同監督の別作品と合わせて4K版が上映されたが、それだけ。かくいう私も、映画史に興味を持つ前までは、タイトルさえ聞いたことがなかった。

そんな映画だから、そりゃCaratさんたちも知るわけないよな……と。

でも、この映画は映画史的にも重要な作品で、私は、「Oh My!」のMVでオマージュをした理由も確実にあると考える。

なので、この記事では、『新学期 操行ゼロ』に注目するという新しいアプローチ
で、(加えて「HOME」のオマージュ先だといわれている『エターナル・サンシャイン』などにも触れながら)「Oh My!」の私なりの解釈をしていきたい。


⚠️この記事には『エターナル・サンシャイン』、『新学期 操行ゼロ』、『トゥルーマン・ショー』、『if もしも….』(全て映画)のネタバレが含まれます。ネタバレを気にしない方はそのままお読みいただて構いませんが、『エターナル・サンシャイン』に関しては文章での説明では伝わりきらない部分も多くあるので、鑑賞をオススメします。


『新学期 操行ゼロ』と「Oh My!」の関係

冒頭であらすじを簡単に説明したが、もう少し詳しくストーリーを追うと、『新学期 操行ゼロ』とは大体こんな感じの映画だ。


寄宿学校で暮らす子供たちは、厳しい規律と教師からの罰に苦しんでいた。特に「操行ゼロ」の評価をされて、唯一の外出日である日曜日に外出させてもらえなくなってしまうことを恐れている。そんななか、コサ、ブリュエル、コランの3人が、とあるクーデターを計画する。その内容は、外部の人も集まる学校のイベントをぶっ潰してやれ!というもの。3人は、途中でタバールを仲間に入れつつ、教師に隠れて計画を練っていく。そしてイベント前夜。子どもたちは、ベッドルームで宣戦布告と枕投げを行った。当日のクーデターは大成功。子どもたちが歓声を上げるなか、コサら4人は屋根の上からその歓声に応えるのであった。


この映画は、まさに「子供時代」や「子供の大人に対する反抗=革命」を描いていて、これをオマージュしたということは「Oh My!」も「子供時代」を描いているのではないかと予想できる。


しかも、映画とMVの、ベッドの並びに注目すると、規則的に並べられている映画と比較してMVの方はバラバラ。超バラバラ。これはおそらく、「Oh My!」は大人たちや規律の介入がない世界であるということを示している。

(引用1)
(引用2)


大人の介入がない世界とは、つまり、革命の必要がないほどに純粋でハッピーな世界。

では、セブチにとっての「純粋な子どもの世界」「子供時代」とは何を指しているのか?

私は、おそらく「Adore U」から続く少年の恋愛物語における“楽しく恋愛をしていた時期”が「子供時代」なのだと思う。

「Thanks」の歌詞を見てみると、やたらと「幼かった」といった言葉が強調されるように、セブチ(少年)は「Thanks」の段階で、楽しく恋愛をしていた過去の自分を「子供」として振り返っている。


さらに、「Oh My!」には「Adore U」と似たシチュエーションがたくさん出てくることにも注目したい。

車に注目してほしい(引用3)
(引用2)
(引用3)
(引用2)
(引用3)
(引用2)

つまり、「Oh My!」は、少年の子供時代=楽しい恋愛の時代を、さらにその中でも「Adore U」の時期を描いているのだ。


するとここで、新たな疑問が浮かんでくる。

「Oh My!」は、新たな恋愛が「Adore U」のようにスタートしたことを示していいるのか?、それとも過去の恋愛=「Adore U」そのものを指しているのか?という疑問だ。

過去の恋か新しい恋か

この疑問に答える前に、『新学期 操行ゼロ』が実は現実ではなく回想だったのではないか?という説をみていきたい。

というのも、この映画には現実で起こるにしては不思議な出来事がいくつか存在する。

まずは、新任のユゲ先生のイラストだ。このユゲ先生自身も、チャップリンのような歩き方だったり教室で逆立ちを始めたりと十二分に不思議なのだが、さらに不思議なのはユゲ先生が紙に描いたイラストがアニメーションとなって動き出すことである。

(引用1)
(引用1)

このシーンを初めて見た時、私は何かを見逃したのかと思った。しかし巻き戻してみても、ユゲ先生が逆立ちしてイラストを描いてるだけ。(ユゲ先生は忍者か何かですか⁇)

不思議だ。

そして重要なクーデターのシーンでも、来賓の大人が、なんと人形!

一列に並んで座る来賓客たち。人形なので逃げられるはずもなく、子どもたちが投げる本やブリキ缶にボコボコにされている。なんかちょっとかわいそう。(引用1)

うーん。不思議だ。

どうも現実に起きている出来事とは思えない。
ではこれは夢なのか?

それも違うように思う。夢ならわざわざ革命なんて起こさなくても、初めから楽園の世界を作り出せばいいのだ。

私は、この映画は大人が子ども時代の思い出を回想している映画なのでないかと解釈する。

この映画の中で大人は「子どもの気持ちを分かってくれない人」として描かれるが、しかし先述したユゲ先生だけは、子どもたちの味方となってくれて、ラストも子どもたちと一緒に革命を喜んでいる。

そんなユゲ先生のような、子どもの頃の気持ちを忘れていない大人が子ども時代を回想したら、きっとこの映画のようなワクワクする子ども時代が思い起こされるのだろう。

思い出は往々にして美化されるもので、無意識的にも意識的にも改変が加わる。その産物が動くイラストであり、逃げられない大人たちなのである。

このことを踏まえると、「Oh My!」が描く「子供時代=楽しい恋愛の時代」は新しい恋ではなく、過去の恋(特に「Adore U」)の思い出であると考えられる。

「Oh My!」でも、ホシやバーノンが宙に浮いたりと不思議なことが起こっているが、思い出の改変の一部と捉えると説明がつくだろう。


セブチは思い出だと気づいているのか

ここまでで、『新学期 操行ゼロ』を踏まえながら、「Oh My!」は楽しかった恋愛時代の思い出を描いていると解き明かした。
次は、セブチ(少年)は自分たちがいる世界=「Oh My!」のMVの世界が思い出の中だと気づいているのか?といった話にうつりたい。

結論から言うと「気づいていない」と解釈する方が自然である。

まず、「Oh My!」が収録されているアルバムのタイトルを確認する。

「YOU MAKE MY DAY」

ニュアンスで訳すなら「君のおかげで今日も楽しかったよ〜」みたいな意味だが、注目すべきなのは、やはりこの文が現在形である点だろう。

「君のおかげで今日が楽しい」のは不変の真実で、過去も今日も未来も少年は「君」のおかげで楽しいのだ。

この後に発表されるアルバムが「YOU MADE MY DAWN」と過去形になっていることも踏まえると、やはりセブチ(少年)は「Oh My!」の出来事を今まさに起きていることと思っていると考えられる。



ここで、少し話が変わるように感じるかもしれないが、「HOME」のオマージュ先として話題になった『エターナル・サンシャイン』の話をしたい。

あらすじを説明するのもなかなか難しい映画だが、時系列順にストーリーを追っていくとこんな感じだ。(⚠️一切の配慮なくネタバレをしています)


ジョエルは、友人のパーティーに参加した際、クレメンタインという女性に出会う。お互いに惹かれあい、付き合うことになった2人だったが、2年が経った頃、突然クレメンタインはジョエルの記憶を無くしてしまう。ジョエルが原因を調べた結果、彼女は記憶除去手術を行なってジョエルに関する記憶だけ消していたことが発覚。その事実に悲しんだジョエルは、自分も同じ手術を受け、クレメンタインの記憶を消すことを決意する。


映画では、ジョエルの手術に際して、ジョエルの記憶を巡る形で2人のラブストーリーが映し出されていく。しかし、はじめは、その映像がジョエルの記憶であることに、観客もジョエル自身も気がつかない。
(この文だけだと何を言ってるか分からないよ!という方はぜひ映画を見てください。これが私の説明の限界です)

記憶を巡っている間、はじめこそ現実に起きている出来事だと思っていたジョエルや観客も、途中で「待って、これ記憶の中じゃね?」「これジョエルの思い出が映し出されてるんじゃね?」と気づく瞬間が訪れる。

ではここで「Oh My!」の話に戻そう。

『エターナル・サンシャイン』は「HOME」でわかりやすくオマージュがされたが、私は、少なくとも「Thanks」の頃からその世界観は共有されていたと考えている。

「Thanks」でエスクプスのパートの和訳を見てみると、「君が俺を忘れ去っても/消し去っても」という歌詞がある。
※私は韓国語が読めないので色んな方の和訳を参考にしています

さらに「Oh My!」の歌詞も見てみよう。
日本語ver.でウォヌは「君のスケッチ毎日描くよ」と歌っている。

『エターナル・サンシャイン』を観た方ならピンとくるかもしれないが、この映画ではジョエルがよくクレメンタインのスケッチを描いており、ラストではそれがキーアイテムとなる。

(引用4)

韓国語ver.では、「君を脳内スケッチに毎日描くよ」といった意味になるらしいが、「脳内スケッチ」=「記憶」と捉えるなら、なおさら映画と関連しているように聞こえる。

そして、「Oh My!」は過去の恋愛の思い出であり、さらにセブチ(少年)はそれが思い出であることに気がついていない。

これらを踏まえると、「Oh My!」の世界は、『エターナル・サンシャイン』のようなセブチ(少年)の記憶の中の映像であり、さらにそこにいるセブチ(少年)はその世界が記憶の中であることにまだ気がついていないと解釈できる。

(今後『エターナル・サンシャイン』のジョエルと同様、どこかで記憶の中であることに気がつき、記憶が消去されてしまわないように記憶の中を逃げるようになっていくのだとしたら、おそらくそれがスミチャやHOMEなのではないかと思うのだが……どうだろう)


違和感に気づくメンバーたち

セブチ(少年)は「Oh My!」が記憶の中であることに気がついていないと書いたが、しかし、多くのCaratさんが指摘しているように、何人かのメンバーは「Oh My!」の世界に何かしらの違和感を感じているようだ。

まずは、バーノン。

一つはやっぱり、この扉の前で振り返っているショット。
MV後半に意味ありげに差し込まれたこのソロカットはやはり何かありそう……。

(引用2)

この扉は、Caratの間で『トゥルーマン・ショー』のオマージュだと言われているが、見比べてみると確かに似ている。
となると、この扉は「この世界から抜け出す出口」ということになる。出口の前で振り向き、外へ出ることを躊躇っているようにも見えるが、ともかく外の世界とバーノンのつながりを匂わすシーンとなっている。

他にこの“出口“と一緒に映ったメンバーは、全員で“出口“の方角へ歩いていたシーンを除くと、ミンギュ、ホシ、ドギョムの3人である。

(引用2)
(引用2)

ミンギュとホシは詳細を後述するが、私が分からないのはドギョムだ。

スミチャのラストで、ウォヌと一緒に手を動かすので何かがあるのかもしれないが、正直、「Oh My!」ではキーパーソンには見えない。というか、ただただ子供時代=楽しい恋愛時代を満喫しているようにしか見えないのだ。(体揺らしてご飯食べてるのめためた可愛い)

でも、ドギョムとホシは出口の向こう側に立っているから、つまり、「子供時代の記憶という世界」の外を知ったということで……うーん難しい。これ以上は泥沼にハマりそうなので、ドギョムに関してはこれくらいの記述に抑えたい。


バーノンの話に戻ろう。

バーノンが「Oh My!」の世界に違和感を持っているのではないかと思われるもう一つの理由が、子どもの大人に対する宣戦布告の象徴である枕投げに、バーノンは「巻き込まれている」点だ。

森の中にいたバーノンは、顔に枕をぶつけられたことで、ベッドが不規則に並ぶ部屋へ連れ戻される。
もし、ここで枕投げが始まっていなかったら、枕が顔に当たらなかったら、バーノンはこの世界が現実ではないことに気づいたのかもしれない。


「Oh My!」の世界を純粋に受け止めていないと思われる2人目のメンバーは、エスクプスだ。

エスクプスと言えば、やはりこのひまわりを捨ててメンバーの視線が集まるシーンを考えるべきだろう。

(引用2)

そもそも、この食卓はベッドルームと違い、真っ直ぐの長机に左右対称にメンバーが配置され、食器の位置まで決められている。

不規則的に並んでいたベッドが子どもの象徴ならば、この規則的な食卓は大人の象徴といえる。

そんな場所でエスクプスはまるで教師かのように中央の席に座り、ひまわりを放り捨てる。

ひまわりが何を指しているのかという問題に関してだが、私は、ひまわりは「太陽」のメタファーであると解釈した。

私も最初は花言葉やらなんやら調べていたが、そういったものは国によって異なるし、どうもピンとこなかったのだ。そんなとき、YMMDのアルバム形態の一つに「eternal sunshine」があることを知り、ふと、「そう言えば、ひまわりって”陽”回りだし”sun”flowerだよな〜」と思いたった。韓国語のひまわりを調べてみると、「ヘ(太陽を)+パラギ(向いている)」という意味らしく、これはもう「ひまわり=太陽」と考えるのが一番シンプルで良いのではないかと思った次第だ。

そして、「Oh My!」にしろ「Getting Closer」にしろ、MVでは何かと3本のひまわりが映し出される。

3本のひまわり、つまり「3つの太陽」とは何か。

調べてみると、ミュラーの詩に「3つの太陽」が登場し、その3つがそれぞれ何を指しているかについては諸説あるものの、キリスト教の3つの徳である「信仰、愛、希望」を示しているという説が一番伝統的なものらしい。

音楽や詩(文学)には疎いので、細かいことは分からないのだが、今回はこの「3本のひまわり=3つの太陽=信仰、愛、希望」という説で話を進めていきたい。

(というのも、『エターナル・サンシャイン』の原題は『Eternal Sunshine of the Spotless Mind』で、これは作中にも登場したアレキサンダー・ポープの詩から来ている。この詩はロミオとジュリエットの元ネタとしても有名らしく、該当部分は、エロイーザが恋人への想いを捨てて修道女として生きることを決意するシーン。“Eternal sunshine of the spotless mind”は直訳では「汚れのない心の永遠の陽光」となるが、物語を踏まえると、おそらく神、または神が与えた光を意味するのだろう。)

食卓のシーンでエスクプスが捨てたひまわりは、信仰・愛・希望のうちどれを指していたのか?
ここでは「愛」だと考えるのが妥当だ。

エスクプスは愛を捨てて失恋を匂わせたが、「Oh My!」の世界は「Adore U」時代の記憶であり、「失恋」なんてものは異物でしかない。だからエスクプスが愛を捨てた途端、メンバーたちは動きを止めてエスクプスを見たのではないだろうか。


続いて3人目のメンバー、ミンギュについて触れたい。

上述したように、ミンギュは外の世界へ続く“出口“を1人で見つめている。どこか「Oh My!」の世界とは違う世界を感じ取っているように見える。

また、ミンギュはベッドルームでもどこかへ繋がる扉を眺めている。

(引用2)おすすめ動画が被ってしまってる…

ミンハオのソロカットで似た場所にある扉が開いたにも関わらず、ミンハオはそちらを見向きもしなかったことと比較しても、ミンギュは扉の“外“を感じ取っていることが分かる。

(引用2)
右の扉が開いている。(引用2)


加えて、ミンギュはMV全体を通して、視線がメンバーとは違う場所に向いていることは言及すべきだろう。

まず、メンバーがテーブルの上を見ている中、別のどこかを眺めているミンギュ。

(引用2)

次に、メンバーが花火を眺めている中、こちらを見てくるミンギュ。

目元が鮮明ではないのでもしかしたら花火を見ているのかもしれないが、それにしては顔の向きおかしい気がする。花火を見て…(引用2)

さらにさらに、「怖っ」と声をあげてしまったのがこちら。

(引用2)
(引用2)おすすめ動画が被ってしまっています。

上のショットでは、ミンギュが双眼鏡でウジを見ているように思えるが、最後に一瞬だけ映される下のショットを見ると、実はミンギュはウジの奥の“何か”を見ていたことが分かる。

ミンギュはことあるごとに視線をどこかおかしなところへ向けているのである。

そしてもちろん、3本のひまわりを放り投げるシーンも忘れてはならないだろう。

ミンギュがひまわりを投げる(引用2)
実はメンバーたちは水に映っている像だったことが判明する(引用2)

3つの太陽=信仰・愛・希望を捨てていると言うと、とても残酷に聞こえるが、ミンギュは信仰・愛・希望を象徴した3本のひまわりを水に放ることで、ひまわりが浮かんでいるのは現実側の水面であることを示し、3つは全て「Oh My!」という楽しかった過去の記憶の中ではなく、現実の方にあるのだと言いたかったのではないだろうか。


4人目は、ホシを見ていこう。

ミンギュやバーノン、ドギョムと同様に、ホシも”出口”との繋がりを持っている。しかし、ドギョムと同様、それ以外で何か不思議な様子は見られず、基本的には「Oh My!」の世界を純粋に楽しんでいるように見える。

では、ここで私が注目したい点はどこか。
それは、ホシが空に向かって、銃(手でポーズを取ったもの)を撃つシーンである。

このシーンでホシ、ジョシュア、ディノの傍らにある望遠鏡が下(現実)の方を向いているが、3人は上を見上げていてその対比もなかなか面白い。(引用2)

『新学期 操行ゼロ』、そして銃ときたところで、私は『ifもしも….』という映画を思い出した。

『ifもしも….』は、『新学期 操行ゼロ』がなければ存在しなかったと言われるほどに『新学期 操行ゼロ』に影響を受けた作品である。

上映時間は約3倍になり、暴力的な描写が増加し、胸糞度合いもぶち上がっているものの、そのあらすじはそっくりで、寄宿学校で理不尽な規律や非人道的なルールに苦しむ生徒たちのうち、3人と途中から加わった2人の計5人が反乱を起こすといったストーリーだ。

しかし、この映画における最後の“革命“は、本やブーツを投げるといった可愛いものではなく、本物の銃火器を使用した過激なものである。

MVでは、ホシが銃を撃つと花火が上がるというポップなシーンに代わっているが、銃を撃つ仕草を枕投げと同じ”子どもの革命”と見なすなら、ホシは“出口”の外を知っていながらも、1人でより過激な革命を起こして子ども時代=「Oh My!」の世界を勝利へ導こうとしていると捉えられる。

森や雲の上などが「Adore U」だとすると、花火は、打ち上げ花火と噴き出し花火で種類は違えど「Pretty U」のラストを思い出させる。
ホシは“大人時代”を知りながらも、自らの意思で“革命”を起こし、「Adore U」にプラスして「Pretty U」の時代(楽しい恋愛期=子供時代)をメンバーに思い起こさせ、子供時代の勝利と大人時代の忘却を導いたのではないだろうか。


そして最後のメンバーは、ジョシュアだ。

一番気になったのは、MVのはじめでベッドルームの電気を消しているのがジョシュアであるということ。
本編でも、袖の色や形から消去法で、電気を消している手がジョシュアであると推測できるし、trailerでは確実にジョシュアが電気を消している様子が確認できる。

一番左のベッドにいるジョシュアが電気を消している。(引用5)

子どもの頃といえば、夜ふかしこそが大人になる方法だと思っていた人も多いのではないだろうか。

『新学期 操行ゼロ』でも、消灯後にベットから抜け出して叱られたり宣戦布告と枕投げをしたりと、“夜に寝ないこと“が子どもの反抗の表象であった。

しかし、MVでジョシュアは、子どもたちを寝かしつける大人の振る舞いで部屋の電気を消している。
ジョシュアは最も大人に近い存在として描かれているのである。

ちなみに、蛇足かもしれないが、『新学期 操行ゼロ』でもベッドルームの電気を消す、室長のような存在の大人が登場する。

子どもたちがベッドに横になり、室長が電気を消すシーン。(引用1)

クーデターの当日の朝、子どもたちは、まだ眠っている彼をロープでベッドに縛って、さらにそのベッドを立てかけるという悪戯をする。(“悪戯“と言ってしまっていいのかあやしいほど、なかなかエグいことをしているが…)

手元を見てみると、ベッドと室長を一周しているロープがある。手前に立っている物(おそらく十字架なのだろう)も子どもたちが立てたもの。(引用1)

MVとダンスがどこまで影響しあっているのか分からないので、これは憶測の中でもさらにいいかげんな予想になるが、ジョシュアを囲むこの振り付けが、どうもこの室長を縛りつけたシーンに見えてしまうのだ。

(引用2)


子どもの勝利

「Oh My!」の世界に対して違和感を感じていたり、子供時代を描く「Oh My!」と対照的に“大人時代“とつながりを持っていたりするメンバーが何人かいたが、しかし、子どもの反抗の象徴である枕投げには全てのメンバーが参加している。

つまり、違和感を感じていたメンバーも、枕投げのタイミングでその違和感を忘れ、大人に対する宣戦布告をしている。結局、セブチ(少年)は「Oh My!」が子供時代の記憶の中であることに気づくまでには至らなかったのだ。


さらに、「Oh My!」のMVは、電気が消えた部屋でメンバー全員がベッドに横になっている(寝ている)ショットで終わる。

(引用2)

上述したように、夜ふかしが子どもの象徴であり、寝かしつけることが大人の象徴であるとすると、このラストは、記憶の中ではなく、現実の(大人としての)セブチ(少年)が映し出されていると解釈できる。

とすると、この最後のシーンは、『エターナル・サンシャイン』のジョエルのように、セブチ(少年)が記憶の中から目覚めることができなかったことを示しているのではないだろうか。


最後に

ここまで、いちCaratの妄想をつらつらと述べてきた。

すべて私の脳が生み出した解釈なので、「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。まあ、そうだったら面白いかもね」くらいの軽いテンションで楽しんでもらえたなら、とても嬉しい。


ちなみに、今回『ifもしも….』を見返していて、主人公トラビスがカフェで出会った女の子と妄想の中でいちゃつくシーンで大笑いしてしまった。というのも、トラビスの妄想の中で、女の子が「私は虎が好きなの」と言い出して2人で虎ごっこを行うのだ。さすがに偶然だとは思うが、その偶然につい吹き出してしまった。


それと、今回の考察は、「Adore U」からの少年の恋愛物語(特にマンセ)においてずっと言われているエスクプスvsウォヌの構図には言及していない。
理由は単純で、難しくてそこまで考えられないからなのだが……もしこの記事が誰かの考察の手助けになったなら、それも嬉しい限りだ。



<引用>
引用1:ジョン・ヴィゴ『新学期 操行ゼロ』(1933)、アイ・ヴィー・シー
引用2:SEVENTEEN『Oh My!』(2018)のMVより
引用3:SEVENTEEN『Adore U』(2015)のMVより
引用4:「Eternal Sunshine of the Spotless Mind|Train Meeting Scene」Netflix:Behind the Streamsより
引用5:SEVENTEEN『Oh My!』MV TEASER1より

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