文月の夜に夢は咲く 〜前編〜

 〜今年もまた この季節が
 わたしたちを 染めていくよ〜

〜第一幕〜

時計は15時を少し過ぎたくらいを指している。小学生の頃はおやつの時間は15時であると信じていたため、この時間は楽しみでしかたなかったと記憶している。

今はどうだろう。
少なくとも「おやつは15時」と信じて疑わないような年頃ではない。かといって、退勤までの時間を指折り数える必要もない。
俺は今高校2年生だ。授業が終わり放課後に当たる時間なので、15時に悪いイメージはないが、他は特段思うところは…
「15時だ!おやつ!おやつ!」
忘れてた。おやつの時間だと信じて疑わないやつが一人いたんだった。

クラスメイトの警戒ちゃん。
これは愛称であり、ちゃんと呼ぶと『警戒ブロオドキャストCHERRY』というらしい。長いから俺を含めみんなからは愛称で呼ばれる事が多い。
そして彼女の頭部には狐の耳が付いている。なんでも「我は狐の耳をつけた人間の女の子!」なんだとか。つくづく変わった奴である。
「ねーねースミトー!おやつ持ってないの?ちょうだい!」
「無い。というか持っててもやらん」
「えー!ケチー!」

すみと、というのは俺の名前だ。
神谷(かみや)スミト。変わり者な警戒ちゃんとは打って変わって、平凡などこにでもいそうな男子高校生、と自分では思っている。
変わっているところがあるとすれば、この変わり者な警戒ちゃんとずっとつるんでいるところくらいだろうか。
「いやー、それにしても今日は特に暑いねー!」
「そうだな、お前が来てもっと暑くなったが」
「それどういう意味?!」

今は7月中旬だ。黙ってても汗が湧き出してくるくらいなのに、こんな奴と話してたら熱中症になりそうだ。
「夏といえばそろそろ夏休みだね!」
「ん?ああ、そうだな」
「楽しみだなー」
「俺はちっとも楽しみじゃない」
「なんで?!」
「補習がある」
「あ〜…」
自分のことを平凡な男子高校生だと言ったが、勉強の出来は平凡どころでは無かった。得意科目でも平均点取れればいい方で、苦手科目は赤点ギリギリなこともざらだ。
「補習ってどれくらいあるの?」
「今年は1教科だけだ。数Bがどうもな」
「数学難しいよねー、我も得意じゃないやー」
「平均点より10点も高かったんだから得意って言っていいと思うぞ」

警戒ちゃんの一人称は少し変わっている。「我(われ)」を使う事が多いが、たまに「私」という事もある。使い分けがあるのかと思って聞いてみたこともあるが「我は我だよ!」とかわされてしまった。別に気にするほどのことでも無いし、本人が良いならそれでいいのだが。

俺と警戒ちゃんは部活に入っていない。いわゆる「帰宅部」というやつだ。そのため、特にやる事がない日はこうして放課後に教室で話すのが日課になっていた。
「補習、1教科だけなんだ…良かった…」
「1教科でも補修は嫌だがな」
「あ、ごめんごめん!そういうつもりじゃなくって!ただ、補習がいっぱいだと一緒に遊べないなぁ…と思ったから」
続けて、彼女が笑ってこう言う。
「今年もしたいね。浜辺で花火。また一緒に。」
ただ、その笑顔に寂しさが込められているように見えて、少し戸惑う。
「ああ、また行こうな。絶対に」
「本当?やったー!わーい!」
「はしゃぎすぎだ」
「とかいって~、スミトも楽しみなんでしょ~?」
「まあな」
「まったく、素直じゃないんだから~!」

放課後の教室は、俺達2人の他に残っている生徒は少ない。残ってまで話し込むような生徒は俺達だけで、他は自習なり読書をして過ごしている。
そこに、部活が早く終わって暇になったのか、女子生徒が数人入って来た。
そのうちの一人が俺たちに気付き、ニヤつきながら声をかける。
「お、今日も今日とて盛り上がってますなぁ〜、お邪魔だった?」
「そんなんじゃねえって」
「そーだよ!誰がこんな奴と!」
「それはこっちのセリフだ」
「なんだとー?!」
「はいはい、ごめんなさいねー」
思春期特有の『男女が仲良いとすぐ付き合ってると煽ってくる』あれである。このノリは正直好きではない。というか、はっきり言うと嫌いだ。
だが、少なくともさっき入って来た女子生徒たちはそうではないようで、面白がって話を広げてくる。
「それにしてもスミト君もほんと物好きだよねー、よりにもよって警戒ちゃんとだなんて」
「そーそー、周りに可愛い子いっぱい居るのに」
「もしかしてケモナー?」
「そういえばこないだ聞いたんだけど、警戒ちゃんってこっくりさんの生まれ変わりなんだって?」
「尻尾が無いのは人間に擬態するために無理して隠してるからだとか?」
「本当は耳が本体で警戒ちゃんの人格は他にあるとか?」
こいつら、言いたい放題いいやがって…
もう我慢ならない。
思わず手を出しそうになった、その時。
「もうやめて!!!!」
警戒ちゃんだった。
彼女は普段こういった煽りに対して強く返すことはしないため、さっきまで威勢よく煽っていた女子生徒たちは面食らった様子で立ち尽くしていた。
さっきまで我関せずだった生徒たちも、何事かとこちらの様子をうかがっている。
すかさず俺も助太刀する。
「お前ら、いい加減にしろ。俺達の関係をからかうだけならまだ笑って許せたかもしれん。でもな、警戒ちゃん個人を攻撃するのはさすがに度が過ぎてる」
「ご、ごめん…」
「俺はいい。警戒ちゃんに謝れ」
女子生徒たちが警戒ちゃんの方を向く。
「ごめんなさい。あなたたちの姿が微笑ましくて、ついちょっかいを出してしまった。傷つけるつもりはなかったの」
警戒ちゃんはその言葉には答えず、
「頭痛い…保健室行ってくる」
と言って席を立ち、女子生徒たちの横を通り過ぎて行った。
「悪気がなかったってことは伝えておく。だが、度が過ぎたいたずらはもうやめておけ」
そう言い残し、俺は急いで彼女の後を追った。

階段にさしかかるところで警戒ちゃんに追いつき、俺は肩を貸す。
「ごめん、迷惑かけちゃったね、私」
「気にすんな、あんだけ言われれば誰だって腹も立つし頭も痛くなる」
「スミト、優しいんだね」
「今頃気づいたのか、ちょっと心外だな」
「ううん、知ってたよ。スミトはいつも優しい」
「なら良かった」
そんな会話をしているうちに保健室につき、先生に彼女の世話を引き継ぐ。
「こうしてしおらしくしてりゃ、可愛い女の子なんだけどな…」
保健室のドアに手をやりながらひとり呟いたが、背後の彼女から言葉が返ってくることはなかった。

次の日は、朝から彼女は元気だった。
「おはよ!今日も暑いねぇ~」
「そりゃ夏なんだから毎日暑いだろ」
「それはそうだけどさ~」
「ところで体調はどうなんだ?もうよくなったのか」
「うん!あの後すぐよくなって、夜も早く寝たからバッチリ!昨日はありがと!」
「どういたしまして」
元気を取り戻してくれて何よりだ。ただ、少し欲を言うのであれば…。
「…しおらしい姿も可愛くてよかったな…」
「え!我可愛かった?!本当~?!」
「なんで今日は聞こえるんだよ!」
「昨日も言ってくれたの?!嬉しい~!」
「そういうことじゃねぇ!」
そういうことなんだけど。
やっぱりこいつは、しおらしくしてるほうが可愛い。そう確信した。

〜第二幕〜

今日は土曜日だ。
昔は土曜日も学校や仕事があったらしいが、少なくとも俺が産まれた時点では土曜日は休みの曜日である。
どこかで「水曜日が休みなら平日が全て休みの前か後になるから水曜日も休みにするべきだ」という考えを聞いたことがある。個人的には、週末が楽しみになるので水曜日は平日のままでいいと思っている。
そして、土曜日は休みのままであるべきとも思っている。
そんな"休みの曜日"であるはずの土曜日に、俺は学校に来ていた。

部活にも入っていない俺がなぜ土曜日に学校に来ているかというと、数Bの教師にこんなことを言われたからである。
「スミトはあと1点取ってれば補習じゃなかったんだがな…そうだ、今週の土曜日空いているか?手伝いをしてくれれば補習は無しにしてやっても良い。どうだ、悪い話ではないだろう?」
確かに悪い話ではないな、と思った。結果として休みの日を1日潰すということに変わりないのであれば、夏休みに入る前に終わらせておきたかった。それに、俺の補習が1教科だと聞いて"一緒に遊べるから嬉しい"と喜んでいた警戒ちゃんが頭をよぎり、二つ返事で教師の提案を受け入れたのである。
「アイツに言ったら喜ぶんだろうな…」
そう呟きながら、残ったプリントの束を持ち上げ、目的の教室に足を進める。今日の手伝いはこれで最後だ。
普段から運動をする習慣があまりないため、手伝いが肉体労働だと知った時には少し気後れしたが、やってみるとどうということはなかった。

「そういえば、B棟に入るの久しぶりだな。いつぶりだろう」
俺たちの通っている高校の校舎は、学級の教室が入っているA棟、各教科の資料室や職員室が位置するB棟、音楽室や家庭科室が位置するC棟の3つで構成されていて、真ん中のあたりに各棟を行き来するための渡り廊下がある。ちょうど漢字の"王"の形をしている、と言えば想像しやすいかもしれない。上からA,B,Cの順番で、Bは真ん中にあたる。
職員室への用事は普段ほとんどないし、資料室に行って調べ物をするほど勉強熱心ではない。調べ物をするなら図書室で済むのだが、図書室はC棟に位置する。そのため、普段はB棟に入る必要がない。いわば"ただ通り過ぎるだけ"の場所だったのだ。
しかし、今日は数学の資料室へプリントを運ぶのが仕事だったため、そんなB棟へ久しぶりに足を踏み入れたのである。
「今日は本当に助かった。約束通りこれで補習は免除だ。でも間違えた部分の復習はしとけよ?」
分かってますよ、と当たりさわりのない返事をして、俺は資料室を出る。

ふと窓の外に目をやると、下の方から練習に励む運動部の掛け声が聞こえる。夏の大会が近いこともあり、休日も活動を行っているのだ。
それは運動部だけに限ったことではないようで、校舎の中からもピアノの音が聞こえて来た。どこかの部活が練習でもしているのだろう。
「さて、仕事も終わったし帰るか…」
下駄箱はA棟にあるので、ここからだと渡り廊下を経由してA棟に向かい、一階に降りるのが一番楽だろう。
カバンを持って、俺は渡り廊下へ向かう。
先ほどから聞こえていたピアノの音が遠ざかっていく。綺麗な旋律だから最後まで聞きたかったな、と思いつつ、渡り廊下に差し掛かる。
「…あれ?」
そこで俺は、ある違和感に気づく。
音楽室が位置するのはC棟のはずだ。仮にC棟から音が漏れ聞こえているのだとしたら、渡り廊下側から聞こえるはず。
つまり、ピアノの音は近づいてくる・・・・・・はずなのだ。
でも実際には、ピアノの音は遠ざかっている・・・・・・・
ということは。
俺は歩いてきた方を振り返る。
やはりそうだ。ピアノの音は真正面、つまりB棟から聞こえてくる。
「B棟に音楽室なんてあったか…?」
これが普段の放課後であれば、そんな事に気付くこともなく帰っていただろう。仮に気付いたとしても、B棟についてまだ知らないことがあったんだな、程度にしか思わなかったとおもう。
しかし、今日は土曜日である。
休みの日にわざわざ学校へ来たのだから、綺麗なピアノの演奏を聴いてから帰っても悪くない。
そう思い俺は、ピアノの音がする方へと足を進めた。

各棟を繋ぐ渡り廊下、いわば「王」の字の縦線に当たる部分は、一階と二階にある。これは三棟のうちB棟だけが二階建てであるためで、他の二つは三階建てなので、A棟三階からC棟三階へ移動する際は、どうしても二階を経由する必要がある。
はずなのだが。
「登り階段…?」
今いるのはB棟の二階だ。つまり、この階段は存在しないはずの三階・・・・・・・・・・に繋がっていることになる。
そして、ピアノの音が聞こえてくるのも、この階段の上からだ。
まるで異界から手招きでもされているようだ、などと柄にもないことを思ってしまう。
「んなわけあるかっつーの」
半ば自分に言い聞かせるようにそう呟き、俺は階段を登った。

B棟の三階には、教室が四つほど位置していた。やけに短い廊下の端には窓がある。
窓に近づき外を見ると、下の方に渡り廊下の屋上にあたる部分が見えた。
「なるほどねぇ」
つまり、B棟の三階部分はあるが、建物の一番端にしか無いため、渡り廊下を通すことができなかった。
それに加えてB棟の端に来ることが少ないことで、「B棟は二階までしかない」という先入観が生まれてしまった、という事である。
「幽霊の正体見たりなんとやら、だな」
ホッと息をつくと、気を取り直してピアノの音がする教室へ足を進めた。

その教室はしばらく授業などで使われていないらしく、ドアや窓に他の教室のそれよりも古いものが採用されていた。改修の際に対象から外されたのだろうか。
教室の名前が記された板も昔ながらの木製のもので、塗装もされていない簡素なものだった。そこには筆の手書き文字で「第二音楽室」と書かれていた。
半分ほど開かれたドアから中を覗く。
第二音楽室は、俺達がよく知っているほうの音楽室をちょうど半分くらいにしたような広さだった。椅子の数も20個ほどで、一クラス全員が入るとは到底思えない。
そして、教室の一番奥にはピアノがあり、女子生徒がこちらに背を向ける形で演奏を行っていた。

彼女の髪はスラっと長く伸びていて、とても綺麗だった。演奏中に時折見せる、髪をかきあげる動作も、美しい。
おしとやか。
そんな言葉がピッタリ似合うような子だった。
今弾いているのは、少し前に流行ったJ-POPのピアノアレンジのようだ。俺の記憶が正しければ、曲の終盤に差し掛かっている。
予想通りその曲の演奏が終わると、一息置いて次の曲が始まった。
先程とは打って変わって、こちらは知らない曲のようだった。そのメロディーは、どこか物寂しさや憂いを帯びつつ、それでいてどこか希望に満ちていて、何かを諦めたくないという強い意志を感じる、そんなメロディーだった。
少なくとも俺には、そう聞こえた。
と、そこで彼女がそのメロディーに合わせて歌い出した。
 土砂降りの雨で傘も無く 身体を濡らしてく道
 貴方はどこで踊るのかな 踊るのかな
 瞬きが落ちて行く 誰にも知られぬままに
 とどろきが咲き誇る 赤子が産まれるように
 私はここで生きている 叫んで吠えて土を噛む
 私はここで生きている 本当の自由って何だろう
「すげえ…」
思わずそう呟いてしまった。
誰の曲かは分からないけれど、歌詞といいメロディーといい、初めて聴いた曲なのにとても魅力的に思えた。
ふと時計に目をやると、いつの間にか16時を回っていた。
「いいものを聴けたし、そろそろ帰るか」
そうして俺は、帰路についた。

次の月曜日、放課後。
俺はいつものように、警戒ちゃんとたわいもない会話をしていた。
「そういえば今日は夕立に気をつけて、って朝天気予報で言ってたよ!スミトは傘持ってきた?」
「ん?ああ、いつもカバンに入れてあるからな…」
そう言いながらカバンに手を入れる。
ない。
そうだ。しばらくカバンの中に入れていたから干そうと思って家に置いて来ていたのだ。
「と思ったが、今日は持ってない。家に置いてきた」
「あちゃ〜、タイミング悪いねぇ」
暗くなってきた気がして外を見ると、まさに雨が降り出したようだ。遠くまで空が暗いところを見るに、しばらくやみそうにもない。
「すまん、傘に入れてくれないか」
「いいよ!相合傘だね!わーい!」
「まあそういうことになるな」
「そうと決まれば、雨がひどくなる前に帰ろっか!」
そう言って俺らは席を立つ。

「それにしても、こういう日に限って雨か…」
こんな情景を、つい最近どこかで思い浮かべた気がする。
雨なのに、傘がない。
そうだ。土曜日の。
誰のものとも知らないあの曲のフレーズが、頭に浮かぶ。
今日のことを予見していたようだ、と思わず肩をすくめる。
「土砂降りの雨で傘も無く、ねぇ…」
目の前で急に足を止めた警戒ちゃんに気付かず、ぶつかりそうになる。
「おっと、いきなり立ち止まるなって…危ないだろ」
「それ…どこで聴いたの?」
立ち止まったまま、警戒ちゃんが尋ねる。
「ん?ああ、これか?実は…」
土曜日の出来事を言いかけたが、話してはいけないことに気づいた。
というのも、あの日補講の代わりに手伝いで済ませてくれた先生から、今日の朝こんなことを言われたのだ。
「そういえばこないだの手伝いの件だが、どうやら補講をチャラにする代わりに生徒に手伝いをさせるってのはダメだったらしい。約束通り補講は無しにしてやるから、この事は他言無用で頼む」
本来補講はまだ先なので、土曜日に学校に行って補講を受けたという嘘も使えない。
図書室も土曜は閉まっているし、部活にも入っていないため、土曜日に学校に行ったという事実そのものを話せないということになる。
ここは適当に嘘をついて誤魔化そう。別に大した嘘ではないのだから。
「こないだ街中で聴いたんだよ。雨が降ってるのに傘を持ってない今の状況にピッタリ…」
「そんなはずない!」
警戒ちゃんが突然声を荒げる。
嘘をついた後ろめたさもあり、思わずたじろぐ。
「な、なんでそんなこと言い切れるんだよ」
「だって!その曲は…」
続けて何か言おうとしたが、
「…ううん、何でもない。ごめん、いきなり怒鳴ったりして」
と、元の調子に戻った。
正確には『調子が悪い時の警戒ちゃん』に戻った、というべきか。
「別に怒ってないさ、だいぶびっくりはしたけど…」
「…」
気まずい沈黙が流れる。
雨は降りやむ様子もなく、むしろ雨足が強まっているようにさえ感じる。
こんな雰囲気で相合傘しながら帰るなんて、楽しいものも楽しくなくなってしまう。
それだけはどうしても避けたかった。
「…大切な曲なんだな。お前にとって」
「っ…!」
「見りゃわかるよ、普段怒らないお前があんなに怒るんだもの」
「別に私も怒ってないってば…」
頬を膨らませ、ムスっとした顔をする。怒ってるのか怒ってないのかハッキリしろ、と思う。
でもそんな様子もどこか可愛くて、思わず笑いそうになる。
「けなしたりバカにするつもりは全く無かったんだ。信じてくれ」
「うん、分かってる」
こうして俺らは何とか元の雰囲気を取り戻し、今度こそ帰路についた。
雨の勢いもだいぶ弱まり、傘が無くてもぎりぎり我慢できそうなくらいになっていた。
「こんな小雨でも傘入れてほしいの?まったく、しょうがないなースミトは」
「傘を持ってるのは俺だけどな」
「我の傘だからそれ!」
「それに、お前も楽しみにしてたろ、相合傘」
「まーね!相合傘ー!」
俺も楽しみにしてたがな、と思ったが、口には出さなかった。

「そういえば、聞かないんだね。曲について」
帰り道の途中で警戒ちゃんが尋ねる。
「ん?ああ、お前にとって大切な曲。それだけでいいだろ」
「うん。私にとって大切な、いわば私の赤子のような曲。それだけ」
「え、それってどういう…」
「ほら、もうスミトの家着いたよ!ここで相合傘おーしまい!」
ひったくるように俺の手元から傘を奪う。
まあ、彼女の傘だから奪うという表現は正確ではないのだが。
「じゃあねー!」
「おう、また明日」
こうして俺らは、それぞれの家に向かった。

〜第三幕〜

その日の夜、俺はなかなか寝付けずにいた。
部屋のエアコンの調子が悪く、冷風が出ない。扇風機で何とか涼を取ろうとするも、そもそも部屋の空気自体が蒸し蒸ししていてどうにもならない。
熱帯夜。
定義としては最低気温が25度を上回る日の事、だそうだが、体感気温はもっと高い。
そして、寝付けない日というのは色々なことに考えを巡らせてしまう。
それは今夜も例外ではなく、今日の警戒ちゃんとのやり取りが頭の中に思い浮かんでいた。
嫌な雰囲気を取り払うのに必死になっていたのもあり気付けていなかったのだが、彼女は別に曲をバカにされたと思って・・・・・・・・・・・・いたわけではない。
街中で聴こえて来た、という俺の嘘を見破って・・・・・・・・いたのだ。
でも、何故?
例えば自分に好きな曲があったとして、同じ会話をしたらどう返すだろう。おそらく「マジかよ、どこで流れてたんだ?」といった感じで寧ろこっちから質問するだろう。
少なくとも「そんなわけない!」と力強く否定することは出来ない。
でも彼女は、そうしてきた。
いや、そう断言できた・・・・・・・
となると、考えられるのは…。
「警戒ちゃんが作った曲…?」
そう考えれば納得が行く。確かに自分の作った曲であれば街中で聴こえてくるはずがないし、彼女にとって大切な曲だろう。『赤子みたいな』という表現もわかる。
「なるほどねぇ、あの警戒ちゃんからあんな曲ができるとは、ほんとつくづく不思議なもんだ…」
そう呟きながら、土曜日に見た景色を思い出す。
存在しないと思っていたB棟の3階。そこから聴こえる素敵なピアノの音色。そして儚くも力強い、警戒ちゃんの自作曲。
「…?」
そこまで思い浮かべて、また違和感。
それを演奏していたのは…
「誰だ…?」
もちろん警戒ちゃんだ、という結論になるべきである。
だが、ピアノを弾いていた彼女は。その頭には。
「狐の耳なんて付いてなかった…」
つまり、あの女の子は警戒ちゃんではなかった。
ということは、あの曲が警戒ちゃんの自作曲でない可能性が出てくる。
振り出しに戻ってしまった。一旦曲のことを考えるのはやめよう。
「それにしてもあの女の子、可愛かったな…」
土曜日、あの場所で見かけた彼女の事を思い出す。
こちらに背を向けていたため顔は見えなかったが、綺麗な長い髪といい、ピアノを弾く時の所作といい、本当におしとやかな子だった。
それこそ、俺がよく知る警戒ちゃんとは真反対の…。
「そういえばアイツも時々大人しい性格になるんだよな…」
最近大人しい性格を見せたタイミングはいつだっただろう。
あれは確か、女子生徒数人からのからかいがヒートアップして、根も葉もない事を色々言ってきた時だったか。それに耐えかねた彼女が怒り、頭痛を訴えて保健室に向かった時に大人しい姿を見せていた。
「それにしても良くあんな噂をポンポン思いつくよな…」
あの時言われた内容を思い返す。
なにがしの生まれ変わりだの、尻尾がないのは隠してるからだの、耳が本体で警戒ちゃん本人の人格は別にあるだの…
「…待てよ」
ここまで思い出して、俺はある恐ろしい想像をしてしまった。
そんなはずはない。
ないはずなのだが、もしそうだとすると全てに説明がつく。
時々入れ替わる一人称、たまに見せる大人しい性格。
そして、土曜日に見た彼女が警戒ちゃんである・・・・・・・・・・・・・・・・・、という事にさえも。
「まあ、明日調べてみるだけ調べるか」
そう呟いて、目を閉じる。
いつの間にか部屋の空気はいくらか涼しくなっていて、俺はすぐに眠りについた。
「狐の耳が本体」という突拍子もない仮説を、自分に言い聞かせるように反芻はんすうしながら。

〜後編へ続く〜

いいなと思ったら応援しよう!