運がいいとか悪いとか

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無縁坂って本当にあるんだ! 目的地への近道だ、と地図を頼りにたまたま入り込んだ細道が緩やかに登っていく、その途中に記された名称に驚いた。フィクションだと思っていたもので。文京区教育委員会による説明書きには森鴎外の所縁しかなくて腑に落ちない。無縁坂といったら「さだまさし」でしょう。説明書は昭和55年のものとあるから、もしやあの曲が出る前だった?と調べてみたら、リリースは1975年、だから昭和50年。とっくに発表されていたのに。まあ、それはそれとして。。。

高校時代に友人の影響でいっときはまった「さだまさし」の、特に歌詞。あの日本語の語彙やフレージングは、私が今、仕事で英語の歌詞を和訳する時などに、ちらちら顔を出す古風な言い回しの元になっているように思う。縁切寺とかサナトリウムとか精霊流しとか、場所や施設や行事の名前も彼の歌詞で知ったものがいくつもある。だけど無縁坂は何故だか実在すると思っていなかった。高校時代なんて振り返ってもよく見えないくらい遠くなった今さら出会うとは。そういえば、さっき通り過ぎたのは不忍池。歌詞には「忍ぶ忍ばず無縁坂」とあったじゃないか。なるほど、そういうことなのか。

「母がまだ、若い頃」と思わず口ずさみながら上るその坂は、決して急ではない。「この坂を上るたび、いつもため息をついた」というお母さんは、若い頃なら尚更に、それが息切れだったということは無さそうで、よほど深く思うところがあったのでしょう。

亡くなった私の母がまだ若い頃、というか幼い頃は戦後間もなくで、母の父は戦死しているから母子家庭。母の母である私の祖母は、実家の農家に食料を調達に行っては着るものなど何かしらを手放していたそうだが、そのあたりの話は、祖母からも母からもあまり聞けないままになってしまった。戦地フィリピンから送られてきた手紙が何通も残っているが、母は恐らく父親のことをほとんど覚えていないんじゃないか。祖父は今、戦没通知という形でしか残っていない。墓の中の骨壺も空っぽだ。「楽しい話、ためになる話をたくさんしてあげるから待っていなさい」というようなことが書かれた手紙を見つけた時は、小さな女の子だった母と、結婚数年でいわゆる戦争未亡人になった祖母と、祖父の帰りを待つふたりの姿が目に浮かぶようで泣けてきた。実家では、老いて何かと世話が焼けるようになっていた祖母と、そのことで文句が絶えない母、というのが当時の構図だったから余計に思いがけないことで。

「運がいいとか悪いとか、人は時々口にするけど、そういうことって確かにあると、あなたを見てて、そう思う」と歌は続く。母は取り立てて運が悪かったわけじゃないと思う。そういう時代だったんだろうから。とはいえ見渡すと、私が属する業界周辺の大先輩には母と同年齢の湯川れいこさんや戸田奈津子さんがいて、これはどういうことだろう、と思ってしまう。彼女達だって単に運が良かったわけではなくて、あの時代に育ち、先駆者として道を開き、今も最先端で活躍されているのは努力以外の何ものでもない。それは確か。だけど母の生い立ちには、どこをどう探してもエルビスや英語や映画との接点が無い。夢中になって努力するに至る前段階の、出会いがまずあり得ない。運、とは言わずとも環境の違いは、あの時代は特に如何ともし難いように思う。あることを知っていたのに、気になっていたのに、自分から調べなかったとか、頑張って勉強しなかったとか、そういうことではない。そもそも知らないし、知りようもない。

このミーハーな私の親なれば、情報さえあれば何かに飛びついて追いかけたばず。いや、でも、現実には無理だったかな。どうなんだろう。聞いておくべきことは色々あったよな。でも、聞けないもんだよな、やっぱり、なんとなく。

子供の手を引いて歩く無縁坂の「僕の母」ぐらいの年齢の頃は、私の母は幸せだった、と思う。景気の良い時代に、安定した仕事を持つ真面目な旦那さんがいて、家も建てて、仕事もして、充実していたんじゃないかな、と。でも、これもまたどうなんだろう。知らないことばっかりだ。でもしょうがない、そういうことを語り合う親子ではなかったから。それこそ忍ぶ忍ばず、だ。

「ささやかな僕の母の人生」と無縁坂の歌は終わる。

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