たぶん人生最後の喪中
時を駆ける少女、というのがいたが、駆けるのは時の方であり、かつての少女はすっかり置いてきぼり。早い。いや、速い。コロナは地軸にも影響を及ぼしているのでは、と思うほどに。
喪中につき新年のご挨拶をご遠慮云々、というご挨拶を申し上げるのが大人ってものなんだろうが、改まった新年のご挨拶自体をご遠慮して久しいのでそれも何だか。代わりにはならないけれど、滞っていた note をまた書いてみる。
8月の終わり、母の四十九日法要・納骨にあたり実家に数日滞在する間に、遺品の洋服を思い切り片付けた。本人、近年は衣替えどころか洗濯したらタンスに戻すという作業も億劫だったのだろう、同じ数枚を洗ってはベッドの横の椅子に積み上げ、その中から着回していた様子。そして目に見えるところに無いものは「無い」と判断されて新しく購入する。だから納戸の衣装ケースからは同じような下着や靴下がザックザックと発掘された。「肌着が無いから買い物に」と、弟たちはしょっちゅう頼まれていたようで、「こんなにあるじゃん」とご立腹だったが、自力で買い物に行けない母としては車でちょっとお出かけするための言い訳だったのかもしれない。洋服もだが、まして和服となると私もにも義妹にもそのまま着られるものはほぼ無く、売れるかどうかをひとつひとつ検討する余裕も無いので、それぞれ数点を形見分けしただけであとはさようなら。未使用のものも多い。カバンの類もまた然り。母が生活に不自由していなかったことを確認するような作業で、寂しさというより不思議な安心感があった。
二世帯同居の弟夫婦はその前から少しづつ母の居住エリアを片付け始めていた。四十九日法要で訪れた台所は既にガラーンと音がするほどスッキリしていて、昭和遺産的文学大全集の世界版と日本版も消え、そこにできた空間は猫の快適通路になっていた。いずれは全てを片付けなければならない。年末年始にまた来て、アルバムなんかはゆっくり検討しながら処分すればいいかな、と私は呑気に構えていたわけだが…、現状の染谷家最年長にして順番通りならこれが最後の喪中になるはずの私なんかと違って、若い細胞は生き生きと分裂・増殖を進めていたのだった。
11月末。相続関係の書類にハンコを押しに行く、というタイミングで弟から電話。アレとコレが必要で、という説明が一段落したところで「それでね」と持ち出されたのは、はやい話が娘の御懐妊に伴う同居、という話だった。つきましては遺品整理業者を入れて一気に片付ける、と。はい、はい。どっちみち家は同居の弟が相続するのだし、私の思い出の品は20年ぐらい前に今の二世帯住宅に建て替えた時に綺麗さっぱり処分されている。何も異論はございません。
弟が気にしていたのはピアノだった。「40年以上前のピアノ、引き取ってもらえるかしら」とか「電話して、ちょうだい」とかいうCMを見るたびに頭に浮かんでいた実家のピアノ。正に40年以上前の、レスターのアップライト。なんと白鍵は象牙ばりで、けっこう奮発して買ってくれたものと思われる。小学校に入った頃から高校まで習っていた。が、中学でピアノと相性最悪のバレーボールを始めて、その後、洋楽ポップロックに目覚めて、高校時代はレッスン前にしょうがないからアムプロムプチュとモーメントミュージカル、みたいな名前の教本をめくっていた程度。あとは勝手にクイーン、思いつきで太田裕美、と譜面を買って弾いては途中であきらめ、の繰り返しで、大した曲を響かせてやることはできるなかったピアノ。此度の主役、姪っ子も、習っていた子供の頃には弾いていたらしいが、そうか、いよいよご勇退か。
CMはああ言うが古いものの現実は人もピアノも厳しくて、ヤマハでもカワイでもない2本ペダルというのは喜ばれないそうだ。値段は付かない、どころか有料で引き取り。結局、思い出なんてものは自分にしか価値が無い。
ともあれ、税理士相手にハンコを押しまくったその翌日、3人でやってきた遺品整理屋が丁寧に、しかし容赦無く、ゴゴゴーッと階下の両親スペースを空っぽにしていった。タンスや食器棚も中身はそのままでいいそうで、だったらあんなに頑張ってゴミ出ししなくてよかったね、という感じだが、まあ、持ち物を確かめられたこと、母だけでなく祖母や父の遺影で着ている服など何点かを救出できたこと、そしてもしかしたら幾らか処理費用が下がったかも?という点において納得。件のピアノは別業者の扱いになり、私より先に家を出ることはなかった。残っていたツェルニーか何かを見ながらちょっと弾いてみたが、案の定、指に力が入らないし動かない、譜面が読めない、というか見えない。弾けたはずなのに、と思うから余計にイライラする。しかし消音せずにピアノを鳴らせるという、その感覚は久しぶりで、チューニングよれよれながらに快感。コロナ禍で思った「エレピ買おうかな」が再熱した。
何もかも無くなった階下の広いこと。共用スペースとなった板の間にダイニングテーブルを移し、畳のスペースにメモリアルコーナーを設けた。大きな仏壇を処分して、母のお気に入りだったという飾り棚に故人と故猫の写真や位牌を並べたのだ。「という」というのは、私は知らなかったのだが義妹によると、とある店で展示に使われていた非売品の棚に母が惚れ込み、お願いして売ってもらったんだそうで、なるほどそう言えば生前からそこに好きなものを並べていた。家を出てからの人生の方がずっと長くなり、親が元気ならほとんど帰ることもなかった私より、姪っ子の誕生を機に二世帯とはいえ同じ屋根の下に暮らしてきた義妹の方が母のことをよく知っている。
大きくなったお腹を抱えてやって来た姪っ子も加わって、荷物が運び出される側から掃除機掛けやら雑巾掛けやら。感心するほど手際の良い我ら4人。メモリアルコーナーの頭上には、祖母、戦死した祖父、父、母、と遺影が並び、その下の飾り棚に位牌、お花、父の亡兄や猫の写真。奥行きが深い仏壇は暗くて中に何があるのかわからなかったけど、明るくなってよかったよかった、と、この世組はご満悦だ。4世代6人で始まった実家の二世帯暮らし。階下が無人になった、と思ったら新しい命が暮らすことになり、まあ、この家も、旧染谷家の人々も喜んでいるんじゃないかしら。母はもう少し生きていたら曽孫に会えたんだな、と自分は孫も提供しなかったくせに残念に思うから勝手だ。
12月2日、奇しくも母が倒れて、この世の人としては最後にこの家を出た日からちょうど1年目に、姪っ子たちの新しい暮らしがここで始まった。