ほおずきさん三題噺 第十四回

お題「音、カフェ、後悔」

私がこのカフェで働き始めてそろそろ10年になる。学生時代、客として通っていたこの店をひょんなことから任されることになってしまった。と言うより押し付けられたのだ。

私の専攻は建築で建築家になろうとしている時だった。院でマスターを取得したその年、この店の元オーナーが故郷の母親が倒れたという知らせを受け、しばらくの間ということで私に託されたのだった。

しかしその後沙汰もなく5年が経過した。ひょっこりと姿を現したオーナーは見る影もなくやつれ果てていた。介護というのは大変なものらしい。

その時の話の流れでどういうわけか私が300万円でこの店を居抜きで購入することになってしまった。まだお金は払っていないが、それ以降は自分の店として扱っている。椅子は宮崎椅子製作所にデザインを書いてオーダーした。部材をナラとレッドオークの2種類にして同じ形ながら配置する場所によって少しコントラストを出した。カウンターは元のままケヤキの一枚板。開店から20年近くになり色にも深みが出てきたように思う。壁はすべて珪藻土で軽く波打っている。照明はインゴマウラーで統一した。中でも気に入っているのがバーディーズ・ブッシュ(小鳥たちの藪)というシリーズの照明をカウンターの正面の壁に埋め込んだものだ。その7つの光は私にとっては小鳥ではなく天使が今巣立ったのだと思わせる柔らかい温かみを感じさせてくれている。

私はこのようなお気に入りに囲まれて日に何度となくコーヒーを淹れ、夜にはカクテルをかき混ぜて過ごしている。客とは相変わらずのバカ話を連日連夜飽くこともなく繰り返しているのだが、しかし建築をするという夢を捨ててしまったわけではない。

10年前のあの日、あれが私の転機だったのかもしれない。あの日、きっぱり断っていればどうなっていたのか、と考えることがある。


今日の夜のお客は1組しかなかった。こんな日も稀ではない。夜、店を閉めてから一人でジントニックを呑んでいるうちにケヤキのカウンターに突っ伏して眠ってしまった。どうせ待つ人があるわけでもない。

ふと目を覚ますと私の周りを7人の天使が飛び回っていた。

天使の声が聞こえる。

「あなたが建築家になっていたら」

「そうね、バリバリ仕事してそこそこ上手くやってるね」

「結婚してお子さんもいる。1人だけね」

「キレイな奥さんなのにあなたは家には帰らない」

「そうよそうよ。あなたは今と同じ。違うのはカウンターの外にいるってだけよ」

「奥さんは息子さんの学校の先生といい仲ね。その前は商社の若い人」

「お子さんはイジメでお友だちを自殺に追いやった」

「だけどうまく逃げたわね。でも次はどうだかわからない」

「でも仕事は楽しいんじゃない?」

「あの若い事務のお嬢さんがお相手してくれるからでしょ」

「そうね。最近はいつも彼女のお家にお泊りだもんね」

「なかなか楽しそうな生活じゃない?」

「ねえねえ、そう思わない?」


朝がきた。

目覚めると壁の7人の天使たちの電球がことごとく切れてしまっていた。

「ああ、今私はここにいて、人生を後悔せずにすんだようだ」


*宮崎椅子製作所・・・徳島県鳴門市にある椅子専門の工房

*インゴ・マウラー・・・光の詩人と呼ばれるドイツの照明デザイナー、若しくはその作品

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?